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古代行政区画 「三宅郷」 |
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現在の岡山市南区郡(児島半島側)~宮浦~小串~
番田~胸上~山田~玉野市八浜 (児島半島東部) |
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飛鳥時代、大化の改新(西暦646年)以後の地方制度整備
による古代行政区画名、備前国児島郡「三宅郷」 は、西暦
556年(古墳時代)に大和朝廷が郡~宮浦へ設置した朝廷
直轄領、児島屯倉が由来とされています。 |
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「屯倉」(みやけ)は日本書紀の表記で、木簡(荷札)等
では「屯家・御宅・三宅・三家」と記されています。 |
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三宅郷(前述)の豊富な塩・海産物・農作物を収穫管理して
いた児島屯倉は、九州と大和国を結ぶ最良の場所に天然
の良港を有する海上交通・交易・海運の要所として重要視
されていました。 |
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備前三宅氏
備前国児島郡三宅郷(前述)を治めていた土豪(首長)の
三宅氏一族は古代、百済(くだら:下記)から吉備の島(現、
児島半島)に渡来し、島を開拓した百済王族の末裔とされ、
古代日本の国家形成に貢献した部族として、屯倉に由来
する 「三宅」 姓を朝廷から与えられた一大氏族と言われ
ています。
鎌倉時代は佐々木氏(平安時代中期の公家 源成頼の孫、
佐々木経方を祖とする一族)に仕え、その中の一族が後々
「宇喜多・浮田」姓を名乗り、岡山城下を築いた宇喜多家は
その末孫と言われています。 |
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記述: |
1524年編纂「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」
自治体編纂歴史書 (岡山県史・岡山市史、等) |
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百済(くだら)
西暦200年(弥生時代:古代国家建設・大和朝廷創設期)、
第14代仲哀(あいちゅう)天皇皇后、神功皇后(じんぐうこう
ごう)が渡航され、国交を結ばれた古代朝鮮半島に存在し
た国家の一つ。(他、新羅:しらぎ・高句麗:こうくり) |
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歴史書等では「討伐(とうばつ)・征伐(せいばつ)」等
と記されていますが、戦わずして国交が結ばれました。 |
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神功皇后 |
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神功皇后は西暦200年 3月、御胎内の第15代 応神天皇と
ご一緒に(身籠られながら) この百済等と国交を結んだ帰
途に児島へ寄港され、後に「三宅郷」(前述)と称される地
域(現、玉野市胸上他)をはじめ、児島一円を行啓。鉾島に
仮宮を創建され、しばらく児島に滞在・休息されました。
神功皇后・応神天皇を御祭神、集落の氏神とした神社が児
島半島一円に鎮座しています。
同年 2月、仲哀天皇崩御(急逝)後、御胎内で第15代天皇
に即位された応神天皇に代わって政事・祭祀を執り行われ
た神功皇后は、中国の歴史書 「魏志倭人伝 (ぎしわじんで
ん) 第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略」 に、「倭(日本)の
女王」 として記され、江戸時代まで 「卑弥呼」 とされていま
した。 |
古代日本・児島の国づくり |
古代日本は、先住民族と前述「備前三宅氏」同様、百済・大陸
から各地に渡来、帰化した民族がともに国家を形成。
その後、幾世紀に亘って大陸の技術・文化・仏教等を取り入れ
ながら発展してきました。 |
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古代における「帰化」
君主の徳・教義に感化し、その国の臣民になること。
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4世紀末(西暦400年頃)から6世紀にかけ、西暦200年に神功
皇后(古代大和朝廷)が国交を結んだ百済の他、古代朝鮮半島・
中国大陸から渡来・帰化した民族が、 約10000年前の中国で
発祥した稲作(水稲)などをひろめ、先住民族とともに集落・国
づくりを行いました。 |
<日本列島の誕生と日本の先住民族> |
日本の先住民族は、後世に百済などの大陸から渡来した
民族と同じくユーラシア大陸東部(アジア大陸)で狩猟生活
をしていた旧石器人でした。
原始時代(地球:新生代)、ユーラシア大陸(アジア大陸)東
端の陸地が地殻変動・氷河期・温暖期・海水流入(日本海
形成)を繰り返した後、 大陸と陸続きになった日本列島の
原型が形成されました。
ユーラシア大陸で誕生した哺乳類サル目ヒト科の原人・旧
人は大小の動物を狩猟して生活を送り、 大陸東部の旧石
器人は陸続きになった日本列島に餌を求めて移動する大
小の動物を追って大陸から日本列島に移住しました。
その後の地殻変動・海水流入による日本海の拡大、大陸と
つながっていた陸地の海没により 現在の日本列島が形成
され、大陸から移住した旧石器人は、大陸から離れた日本
列島の「先住民族」 として各地で大小の動物・魚介を狩猟
して生活を送りました。 |
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児島に渡来した百済王族の末裔 「備前三宅氏族」が開拓した
とされる 「三宅郷」には、旧石器時代からの集落跡が多く分布
しており、児島の先住民族とともに開拓を進め、後に古代国家
形成の拠点として重視され、朝廷直轄領 「屯倉(みやけ)」が設
置されるほどの豊富な塩・海産物・農作物の生産、集落・国づく
りを行ったと思われます。
また児島には、同じく百済王族が南(瀬戸内海)の海岸へ渡来
した伝説があり、その王女が生んだ子どもたち(王子)を山々
に住まわせたことが「王子ヵ岳」の由来と言われています。 |