岡山市南区郡(児島湖北湖岸):撮影地
2009. 8.24撮影
カメラ PENTAX K-m
レンズ PENTAX DA 18-55mm



岡南富士怒塚山いかつかやま
岡山市南区郡~玉野市八浜の境に位置し、 金甲山に次いで
児島半島で2番目に高い、標高332mの山です。

かつて、「児島」が浮かんでいた吉備の穴海 (現、岡山平野~
児島湾~児島湖)の海岸線からそびえ立ち、現代の岡南地域
(下記)に雄々しい姿を魅せる山容から 「岡南富士」(こうなん
ふじ)と呼ばれています。


岡南(こうなん)
江戸時代から数世紀に亘って行われた児島湾干拓のうち
特に藤田組(現、同和鉱業株式会社)により明治時代から
行われた児島湾内の大規模な干拓 「藤田開墾」 によって
埋め立て・造成、新田開拓・宅地開発・工業・商業立地され
た岡山県岡山市南部、旭川(東)から笹ヶ瀬川(西)に至る
地域です。

1964年(昭和39年)、同地域を中心とした岡山市・玉野市・
倉敷市、及び周辺町村とともに新産業都市建設促進法に
基づく 「岡山県南新産業都市」 に指定されました。

写真:2013. 4.21撮影
FUJIFILM FinePix HS30EXR



怒塚城跡
山頂に室町・安土桃山時代の城跡、「怒塚城」跡(土塀・堀切)が
あります。
古代の児島を開拓し、備前国児島郡三宅郷
(下記)を治めてい
た土豪(首長) 三宅氏
(下記)の一族、宇多見氏(児島郡波智
荘歌見:現、玉野市八浜町見石大雲寺周辺出身)の居城です。

写真:2015. 1. 8撮影
FUJIFILM FinePix HS30EXR

児島開拓の歴史・伝説
古代行政区画 「三宅郷」
現在の岡山市南区郡(児島半島側)~宮浦~小串~
番田~胸上~山田~玉野市八浜 (児島半島東部)
飛鳥時代、大化の改新(西暦646年)以後の地方制度整備
による古代行政区画名、備前国児島郡「
三宅郷」 は、西暦
556年(古墳時代)に大和朝廷が郡~宮浦へ設置した朝廷
直轄領、
児島屯倉が由来とされています。
「屯倉」(みやけ)は日本書紀の表記で、木簡(荷札)等
では「屯家・御宅・
三宅・三家」と記されています。

三宅郷
(前述)の豊富な塩・海産物・農作物を収穫管理して
いた児島屯倉は、九州と大和国を結ぶ最良の場所に天然
の良港を有する海上交通・交易・海運の要所として重要視
されていました。


備前三宅氏

備前国児島郡三宅郷
(前述)を治めていた土豪(首長)の
三宅氏一族は古代、百済
(くだら:下記)から吉備の島(現、
児島半島)に渡来し、島を開拓した百済王族の末裔とされ、
古代日本の国家形成に貢献した部族として、屯倉に由来
する 「三宅」 姓を朝廷から与えられた一大氏族と言われ
ています。

鎌倉時代は佐々木氏(平安時代中期の公家 源成頼の孫、
佐々木経方を祖とする一族)に仕え、その中の一族が後々
「宇喜多・浮田」姓を名乗り、岡山城下を築いた宇喜多家は
その末孫と言われています。
記述: 1524年編纂「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」
自治体編纂歴史書 (岡山県史・岡山市史、等)
百済(くだら)
西暦200年(弥生時代:古代国家建設・大和朝廷創設期)、
第14代仲哀
(あいちゅう)天皇皇后、神功皇后(じんぐうこう
ごう)
が渡航され、国交を結ばれた古代朝鮮半島に存在し
た国家の一つ。(他、新羅:しらぎ・高句麗:こうくり)
歴史書等では「討伐(とうばつ)・征伐(せいばつ)」等
と記されていますが、戦わずして国交が結ばれました。


神功皇后
神功皇后は西暦200年 3月、御胎内の第15代 応神天皇と
ご一緒に(身籠られながら) この百済等と国交を結んだ帰
途に児島へ寄港され、後に「三宅郷」
(前述)と称される地
域(現、玉野市胸上他)をはじめ、児島一円を行啓。鉾島
仮宮を創建され、しばらく児島に滞在・休息されました。

神功皇后・応神天皇を御祭神、集落の氏神とした神社が児
島半島一円に鎮座しています。

同年 2月、仲哀天皇崩御(急逝)後、御胎内で第15代天皇
に即位された応神天皇に代わって政事・祭祀を執り行われ
た神功皇后は、中国の歴史書 「魏志倭人伝
(ぎしわじんで
ん)
第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略」 に、「倭(日本)の
女王」 として記され、江戸時代まで 「卑弥呼」 とされていま
した。

古代日本・児島の国づくり
古代日本は、先住民族と前述「備前三宅氏」同様、百済・大陸
から各地に渡来、帰化した民族がともに国家を形成。
その後、幾世紀に亘って大陸の技術・文化・仏教等を取り入れ
ながら発展してきました。
古代における「帰化」
君主の徳・教義に感化し、その国の臣民になること。

4世紀末(西暦400年頃)から6世紀にかけ、西暦200年に神功
皇后(古代大和朝廷)が国交を結んだ百済の他、古代朝鮮半島・
中国大陸から渡来・帰化した民族が、 約10000年前の中国で
発祥した稲作(水稲)などをひろめ、先住民族とともに集落・国
づくりを行いました。
<日本列島の誕生と日本の先住民族>
日本の先住民族は、後世に百済などの大陸から渡来した
民族と同じくユーラシア大陸東部(アジア大陸)で狩猟生活
をしていた旧石器人でした。

原始時代(地球:新生代)、ユーラシア大陸(アジア大陸)東
端の陸地が地殻変動・氷河期・温暖期・海水流入(日本海
形成)を繰り返した後、 大陸と陸続きになった日本列島の
原型が形成されました。

ユーラシア大陸で誕生した哺乳類サル目ヒト科の原人・旧
人は大小の動物を狩猟して生活を送り、 大陸東部の旧石
器人は陸続きになった日本列島に餌を求めて移動する
小の
動物を追って大陸から日本列島に移住しました。

その後の地殻変動・海水流入による日本海の拡大、大陸と
つながっていた陸地の海没により 現在の日本列島が形成
され、大陸から移住した旧石器人は、大陸から離れた日本
列島の「先住民族」 として各地で大小の動物・魚介を狩猟
して生活を送りました。

児島に渡来した百済王族の末裔 「備前三宅氏族」が開拓した
とされる 「三宅郷」には、旧石器時代からの集落跡が多く分布
しており、児島の先住民族とともに開拓を進め、後に古代国家
形成の拠点として重視され、朝廷直轄領 「屯倉
(みやけ)」が設
置されるほどの豊富な塩・海産物・農作物の生産、集落・国づく
りを行ったと思われます。

また児島には、同じく百済王族が南(瀬戸内海)の海岸へ渡来
した伝説があり、その王女が生んだ子どもたち(王子)を山々
に住まわせたことが「王子ヵ岳」の由来と言われています。

児島から離れますが・・・
稲作同様に大陸で発祥した製鉄技術(たたら製法)を古代吉備
地方にひろめ、畿内・出雲に匹敵する古代屈指の地方国家「吉
備国」を繁栄させたとされる温羅
(うら)も、古代朝鮮半島から渡
来した百済王族と言われています。

ただ、鬼ノ城を拠点として古代吉備を支配していた温羅は 「民
族が一つになり、一つの家のような国家を築く」という政祭理念
(方針)に反して他の部族と争い続けながら村人を苦しめ、支配
地内からの窮状の訴えを届け受けた第10代 崇神天皇の「民を
導く政
(まつりごと)の理念」、「教化」 を受け入れなかったため、
吉備国の統治に派遣された大吉備津彦命
(桃太郎)に討伐され
ました。
(>v<)         ※ 吉備津(大和朝廷)側の説です。

古代日本の国家形成に貢献した部族として氏姓を与えられた
「備前三宅氏」 とは大違いの運命をたどりましたが、吉備国を
繁栄させた温羅は、吉備津神社の境内「御釜殿に祀られ、温
羅が妻にしたとされる地元神社(神官)の娘(巫女)が、吉備津
神社の神官とともに御釜殿の神事・祭祀を執り行いました。

農作などの吉凶を占いながら、吉備国の安泰・繁栄を祈るとと
もに教化を受け入れた部族・温羅支配地域の人々は、大吉備
津彦命の政事の下で古代製鉄などの殖産をひろめ、吉備文化
の発展に貢献しました。
童謡「桃太郎」
童話「桃太郎の鬼退治」は、この温羅討伐がモデルとされてい
ますが、童謡「桃太郎」は後世の政府・軍部が軍国主義に突き
進む中、1911年(明治44年)に「尋常小学唱歌」として作られま
した。

前述の通り、国家建設の古代から関わりが深かった近隣諸国、
西洋文化を取り入れるための親交を深めた欧米諸国との対話
外交による和平維持を唱え続けられた明治天皇、 昭和天皇の
御意(詔) に反した政府・軍部が軍国主義に突き進む中、近隣
諸国・欧米諸国を一変して「鬼が島」・「鬼」に例え、戦意高揚の
教育に利用されました。

話が飛んで飛んで、児島から鬼が島まで飛んでしまいま
したが・・・
元々は同じアジア大陸の旧石器人であった日本の先住民族と
百済・大陸から渡来、帰化した民族がともに古代国家を形成し、
発展させてきた歴史に触れながら、国づくり神話・童話までも戦
意高揚に利用した戦争の惨劇が生んだ相互の軋轢
(あつれき)
和平を脅かす排他思想がなくなることを祈ります。

岡南富士怒塚山(風景編)

(同一ウインドウで開きます)

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