前回までのお話はこちら( ・ω・)

 

 

当時の司法試験は、

5月に憲法、民法、刑法の3科目の択一式試験。

それに合格すれば7月に憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法の6科目の論文試験。

さらに論文試験に合格すれば、10月に最終の口述試験(憲法、民事法、刑事法)という一年がかりの試験スケジュールだった。

 

僕が合格した2004年の司法試験でいえば、

択一受験者が約7万人くらい。

論文受験者が約6000人くらい。

口述受験者が、最終合格の1500人弱より少し多いくらいだったと思う。

 

択一が最初の壁。

論文が選ばれた者たちの激戦。

口述がミスをしないようにというところだろうか・・・

 

まあ、とにかく、当時の司法試験は合格率2パーセント代。

しかも、受験者の多くは、東大、京大等の国立大や早稲田、慶応、中央等の優秀な人たちで、まさに難関中の難関の国家試験だった。

 

白鴎大学でそれまでに合格した人は一人もいなかった。

合格者の多い名門校であれば司法試験受験サークルや指導してくれる先輩なんかもいるかも知れないが、まさに

 

右も左もわからない状態からのスタート。

 

その心持ちは、

 

道など、我が通った後にできるのじゃ!!!

 

といったところだったろうか。

 

委員長をやった3年時の白鴎祭が終わった後の11月。

ローンを組んで、高田馬場にある早稲田セミナーという司法試験予備校に通ってみた。

デバイスという名の教材も一通り買った。

 

ちなみに、大学卒業後は、受験浪人するつもりでいたが、大学の教授の勧めと、当面の生活費として奨学金を借りるという不純な動機から、白鴎大学大学院法学研究科に進学した。

 

 

学部の頃は、いろいろアルバイトをしていたが、この頃になると、アルバイトは、塾講師一本にした。

時給が良かったし、春期、夏期、冬期のそれぞれの夏期講習でまとまって稼げたので(ーー;)

 

ちなみに、僕は、白鴎大学大学院法学研究科を3年かけて(1年留年)卒業(修了)している。

そのため、最終学歴は、「白鴎大学大学院法学研究科修士課程修了」というのが正しい。

 

だが、僕は、これを自分の公開された「学歴」に書いていない。

書くと、法科大学院(ロースクール)出身と誤解されそうなのと、

「修士論文」が、僕にとっては今なら絶対書かない「黒歴史」な内容だと思っているから(ーー;)

 

 

話を戻そう( ・ω・)

 

 

予備校に通ってはみたものの、僕にはどうも予備校は合わなかった。

 

この論点は、合格者の自説は、○○説。反対説は○○説。

 

それを効率よく暗記していく人には、とても予備校の講義は効率が良いと思う。

事実、ほとんどの合格者は予備校に通っていただろう。

 

しかし、子どもの頃から、かけ算の九九についてまで、「なんで?」を考えていた僕には、どうも効率よい勉強法というのが合わないようだった。

 

 

 

予備校は途中で通わなくなってしまい、もっぱら大学の図書館で勉強するようになった。

2000年5月の初受験は、まったく歯が立たず敗退。まあ、そんなもんや( ・ω・)

 

 

僕の勉強方法は極めてシンプルだった。

基本書(学者先生が書いた教科書のことを受験生は「基本書」と呼ぶ)を読む。

 

暗記はしない。

ノートも作らない。

基本書に書かれている「流れ」を読む。

基本書は、なんども繰り返し読んだ。

 

よくわからないところや、自分の理解でよいのか確認したいところは、

 

白鴎大学の先生方の研究室に行って、質問をしまくった。

 

当時の白鴎大学には、今は、他大学の教授になられている方が多いが、新進気鋭の若い学者先生がそろっていた。

授業に出たことが無い先生の研究室も含めて、いろんな先生の研究室に入り浸った。

 

もちろん、予備校の出しているコンパクトにまとまった教材も「ノート代わり」に何度も繰り返し見ている。

 

繰り返す

 

これ大事( ・ω・)

 

日中は、大学院の講義があるときは大学院の講義を受け

(大学のときとちがって、一度もサボらなかったぞ( ・ω・))

講義の無い時間は、図書館で勉強。

時間を見つけて憲法、民法、刑法、民訴、刑訴、商法の各先生の研究室に質問(雑談ともいう)に行く。

夜は、塾講師の仕事をして、帰ったら、布団で、寝るまで基本書を読む。

そんな日々だった。

 

 

2001年5月の択一に向けて、3月頃から、択一試験の過去問を解きまくる。

(ちなみに、3月下旬から4月上旬は、塾講師の春期講習もやってます。)

間違えた問題は解説を読み、また過去問を繰り返す。

 

そして、2001年5月。

二度目の受験で初めて択一式試験に合格。

合格発表の日は、法務省の掲示板まで合否発表を見に行った記憶がある。

 

うかっとる

初の択一合格は、もちろん、うれしい。

 

だが、この択一の合格発表。

見に来ていた人がたくさんいた記憶。

当時の自分よりかなり年齢が上に見える人たちがたくさん、

目に涙をためて悔しそうに日比谷公園のあたりを通っていく・・・

 

人生をかけた試験・・・

みんな努力している。

普通の試験なら確実に合格できるだろう努力をして、それでも択一で落とされる。

・・・それが司法試験。

 

2001年7月の初の論文試験に向けて、塾講師のバイトでためたお金を使って、早稲田セミナーの論文直前答練(答案練習会)を通信講座で受講。

このときは、これが「年中行事」になるとは、まだ思っていなかった・・・

 

答練の成績はまあまあ良かった。

憲法などは、上位の成績になることもあった。

もしかして、いけるんじゃないか?

まだ司法試験の本当の怖さを知らなかった「実質」初受験のころ。

しかし、ここからが、地獄の始まりだった・・・

 

初の論文式試験を終えて、なんか合格できたんじゃないかと思えていた自分。

論文の発表までは受験から数ヶ月ある。

その間、夏休みは、塾の夏期講習の仕事に専念。

大学院の修士論文のための研究や、時間のあるときは、「信長の野望」なんかのゲームをしたりもする。

 

そして、迎えた秋の論文式試験の合否発表。

論文の合否発表には、自分が何位くらいの「層」にいるかの成績もついていた。

 

憲法E(;・・)

 

できたと思った科目が成績が悪く、あんまりできてないかと思ってた科目が成績Bだったりした。

成績Aの科目は無かった。

 

この自己評価と現実の成績のギャップは、この後2年続くことになる。

いわゆる「ホームラン答案」じゃないかと思っていた刑法が最低ランク(FだったかGだっか、とにかく一番下)の成績で

書けてないと思った民訴法が成績Aのときなどもあった。

 

論文試験の評価わかんねー

 

予備校の答練の成績ともちがう、なにかがある。

 

 

2002年2月15日 父が死んだ・・・

肝臓がんだった。

 

白鴎大学への進学を勧めてくれた父・・・

 

 

「ほんまは、公務員になってほしかった。」

と、僕に安定した生活をしてほしいと望みながら、司法試験の応援をしてくれていた父。

この世で、たった一人の父ちゃんが死んでしまった・・・

 

2002年5月の択一式試験。

再び合格。

九割を超える正解率の上位合格。

そして、2002年7月。

二度目の論文式試験。

 

死んだ父ちゃんの墓前に報告するためにも、

絶対にうかってみせる!!!

 

秋の論文式試験の合否発表。

また落ちた・・・

勝負は勝負。

しかたない・・・

 

父が亡くなった瞬間も塾講師の授業をしていた。

(亡くなる前に、一度、帰省し病室で会ってはいる。)

 

父の残してくれた生命保険・・・

翌年は、アルバイトをやめて、受験生活だけに専念した。

 

そして、2003年5月。当然のように択一式試験には合格。

2003年7月の論文式試験。

直前答練での成績は良い。

今度こそ、行ける。いや、これで合格しないでどうする!

 

秋の合否発表。

結果は・・・合格者の中に自分はいない・・・

 

これでも、届かないのか・・・

もう無理なのか・・・

 

もう生活が続かない。

淡路島の実家に帰ることにした。

 

淡路島に帰り、田舎の実家で基本書を読み、

過去問を解き、

犬のクロベー(故犬)の散歩をする。

そんな一年間を実家で過ごした。

 

今年ダメだったら、もうあきらめて就職探すか・・・

 

2004年の司法試験。

自分が受験する最後の司法試験と決めて望んだ試験。

それまでは、早稲田大学で受験していたが、今回は、淡路島から関西大学の受験会場で受験する。

 

問われたことを答えるのみ

 

もう結果のことは考えなかった。

ただ、目の前の問題で問われていることに、自分の知力をつくして答える。

択一は、例年より点数が低目での合格(受かればそれでいい!)。

論文は、各科目2時間2問の問題を、無心の境地で書いた。

 

2004年秋。

論文式試験の合否発表。

郵送で結果が届く(発表はHPで見て成績が郵送だったかも知れんが・・・)。

 

合格

 

うかったー

 

ついに論文式試験を突破した!!!

4度目の挑戦で、やっと論文式試験に合格した。

 

やればできる!

 

 

2004年10月。

僕は、東京で泊まった安い宿から移動し、ディズニーランドのある舞浜駅に降り立った。

司法試験最後の試験。

口述試験のためである。

 

なお、口述試験のために上京した東京駅の地下街で地震の揺れを感じる。

新潟で発生した中越地震があった。

(被害状況等については、内閣府の防災情報のページにアップされているのでそちらを。)

 

 

また、ちょうど淡路島を離れていた間に、淡路島は、台風24号に襲われていた。

 

 

話を戻そう( ・ω・)

 

ミッキー、ミニーの耳をつけた人たちと同じ電車に乗って、口述の試験会場のある舞浜駅へ。

そして、受験生ばかりが乗った会場までのバスで試験会場へ。

 

口述への発射台

 

司法試験の口述試験で自分の番を待つ間の待機時間はそう呼ばれる。

択一、論文、特に論文試験は、合格しなくても当たり前の試験・・・

口述試験は、受験者のほとんどが合格する。

 

逆に、緊張する(ーー;)

 

結果は無事に合格。

試験会場で会った新潟出身の人も、無事に、後日、司法研修所で再会した。

 

択一5回。

論文4回。

口述1回。

 

やっと、司法試験に最終合格できた。

父ちゃん、オラ、やったよ。

 

しかし、司法試験の合格。

それはゴールではなく、始まりに過ぎなかった。

 

ここから、弁護士 岡本卓大の弁護士人生はスタートに立つ直前に到達した。

(次回へ続く。)

 

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