一昨年の元旦、母が喉にお餅を詰まらせ事故死しました。
そして昨年5月、父が約5ヶ月間の闘病の末、他界しました。
その後、親戚、兄弟で亡き両親の想い出話しをする中、過去に犯した様々な悪行が発覚し、結果母の死因が、父の言葉とは少し食い違いがあるのに皆が気付いたのです。
ということは、信じがたい話ではありますが、「父が母を殺したのでは?」ということになるのです。
もしかすると私は、殺人犯の娘になったのかも知れません。

私は母が他界する半年前に、10年ぶりに再会しました。
場所は京都の母が入院していた病室でした。
持病の糖尿病が悪化し、認知症の疑いがあるとのことで検査を兼ねての入院だったようです。
何の知らせも入れず突然病室に現れた私の姿を見た母は、一瞬驚いたようでしたが昔となんら変わることなく、頭の回転も80歳とは思えぬほど切り替えが速く、上手く対応してきました。
昔と違うところは、私には勝てないととっさに察したようで、私の機嫌を損なうようなことは一切口には出しませんでした。
母なりの皮肉は十分含んではいましたが、それが母との今生の別れになりました。

その後母は検査結果も良く、1ヶ月も経たないうちに退院し自宅に戻ったそうです。
しばらくして母の姉が見舞いを兼ねて会いに来てくれたようですがその時に、父に対する50年間の不満を嫌がる姉を無視して一気にぶつけてしまい、その瞬間、突然脳の血管が切れて救急車で運ばれ、再び入院したそうです。
それから数ヶ月、少しずつリハビリを繰り返したおかげで大きな障害も残さず完治し、その年の大晦日に久しぶりに自宅に戻ってこれたそうです。
翌日の2010年元旦には父にお雑煮を作ってもらい、お餅は食べやすいように小さく切ってあったそうです。
その一つを口に入れた瞬間、お餅が喉に詰まって数分で息絶え、父が兄を家に呼びつけそのあと救急車で病院に運ばれた時には完全に、心肺停止状態だったそうです。
その日家には父と母の二人しかいなかったそうです。
勿論、警察も事故死と殺人の両方から父と兄を疑い警察で取り調べをしたそうですが、結果、事故死と判断したそうです。
母の死後父が「せめてもの救いは、苦しむことなく一瞬で死ねたことはとても良かった!」と何度も繰り返し私に言っていました。
それと同時に、「今だから言えるが、母の死によってとても気持ちが楽になった」といい、それまで父も4つの癌で苦しんでいたようですが母の死後、その癌が全て消えたと喜んでいたのです。
私は勿論、「虐待の原因」がこの世から去ってくれたことで、本当に楽になり涙とは無縁でむしろ喜びが込み上げてくるぐらいでした。
この気持ちは決して一般の人には理解できるものではありませんが、私のような環境に育った人ならばよくよく理解できる感情だと思います。
それほどまでに私は母に苦しめられてきたのです。

このような日が来ることを予想できた私だったからこそ、母に少しでも良い死に方をして欲しいと思い2000年に自伝「みにくいあひるの子供たち」を出版して、自分が娘にどれだけ酷いことをしてきたか?ということを自覚し改心してもらおうと勇気を出して「最高の親孝行」をしたつもりでしたが、残念ながら娘の思いは伝わらず、反対に逆切れされ、出版差し止め請求を出され、10年の親兄弟との戦いが始まりました。
そこまでしても母は自分の行いを認めたくなかったのですが結果、私の思いは届かず母は地獄に落とされてしまいました。

父と兄が警察の事情聴衆を受けている間、義姉が医師に呼ばれ死因を聞いたそうです。
医師の話では、大きなお餅が二つ母の喉に詰まっていたそうです。
その後父が皆に話す死因と医師の話とが食い違うために、彼女は怖くなり、父が死ぬまで医師の話は誰にも話しませんでした。
もし父が母を手にかけていたのならば、これも自業自得だと思います。
母の女性に対する嫉妬心は幼少期に実の姉に始まり、その後義姉に移り、私になり、私と疎遠になってからは、父の死因を聞いた義姉とその娘に変わり、彼女達が寄り付かなくなると、父に対象が変わっていったのです。
神様からは本当に何度も警告があったにも関わらず、無視し続けたために最後は「夫に殺されるみじめな妻」となってこの世を去っていきました。