勘違い | 姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断師 岡田健慈のひとりごと

姓名判断、改名を行っている岡田健慈の日々のひとり言を書いていきます







子供の頃から、云われてきた事が本当に正しいのか、

考えてみて、例えば寺社というのは、信仰の対象ですが

神社は、魂を祭る墓である、個人或いは、複数の柱

詰まり個人の墓、御一柱(おひとはしら)と云うように

個人を祭った場所です。

神社にお参りするときは、誰が祀られているのかが

大切になります。

それが故に、神社では、葬儀は絶対に行なう事は有りません。

個人の墓で、見ず知らずの方の葬儀をしないのと同じです、

一方で寺院は、個人の墓を守る場所ですが、

修行の場所、大寺院などでは、仏教徒の学校でもありますが

実は仏教の教えは、生きる為の哲学なのです。

仏教を考えたのは、釈迦ですが、

生前に弟子たちに、彫刻を刻みそれを拝む様な事は

クレグレモ、してくれるなと、注意していたにもかかわらず、

亡くなって暫く経つと、仏像を刻み拝みだした、

しかも、誰かに相談されたこと、「どうして幸せになれないのか」

と言われて、釈迦が答えた言葉を弟子が聞いていたのを、

釈迦が亡くなった後に書き留めた物を、お経と言いますが、

その経を、やみくもに読む、

これが古代インド語サンスクリット語でやみくもに歌うので

これがご利益があるように錯覚させられてしまう、

よく葬儀などで読まれる、般若心経などは、何を言って

いるのかよくよく調べてみてください、

「この世は空しいものだから始まり

いい時も有れば悪い時も有る汚れてしまうこともあろし

不幸を背負い込むこともある、だからこそ、背負い込んだ

物を気持ちの切り替えで捨てることも出来るハズなんだ、

見えるものにこだわるな、

聞こえるものにしがみつくな、

味や香りは人様々だろうなんのあてにも

ならないものさ、

揺らぐ心にこだわってしまっては、ダメだ、

それが、無というものだ、

人が生きていれば、いろいろなことがあるさ

辛いものをみないようにするのは難しい

でも、そんなもの置いていけよ」など、、、、

これは、生きる為の哲学以外の何ものでもない。

これをいろいろな人が聞いていて、受け取り方が

違う記憶が違うなどで、仏教なかで、色々な宗派が生まれたのです、

そんなもん些細なことで、目くじら立て、俺の記憶が正しい

他は間違っていると、宗派の争いなど「愚の骨頂」

釈迦は、死んだ者に対して送る言葉など一言もいってない、

詰り死者の為のお経など存在しないのです、

今の現状を釈迦がみたら何と云うか、、、、、、。

キリスト教も同じです、

釈迦と同じようなことを言っています、

受け取る方の取り方次第で、大きく変わって仕舞うのが

昔からの常かもしれません。

お経が日本語で読まれていれば世の中は、大きく変わっていたろうにと

思うのは、私だけでしょうか。

むかしから、頭脳明晰なお坊さん方が沢山おられましたが、

ただの呪文に成り下がってしまったお経を元に戻して

日本語で唱えなかったのは、へその曲がった私考えは、

「商売が成り立たないから」と思うのはごく自然ですよね。

ブッタ(釈迦)は、神に成ったのでは無く、

「悟りを開いた」のです。

人が生き抜く為の知恵を考えた哲学者だったのです。


神社仏閣は、むかしから、人はいろいろな魔から逃れる為に

利用してきました、

キリスト教もそうですよね、


ですから、明治に廃仏毀釈をヤル前には、寺院と神社が一体化して

いたのです、魔から逃れる施設だったからです。

神社は山と木が絶対に必要です、

仏教は水と木が必要です、

神社は古墳時代の儀式を受け継いでいます、

仏教は山岳信仰を色濃く取り入れています、

この様に社寺はよくよく研究する必要があります、

昔からしてきたことだから、とか先祖代々行われてきた

ことだかだけで、子孫に残す時代は変わりつつあります。