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小笠原氏
三階菱
(清和源氏義光流) |
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小笠原氏は甲斐源氏武田氏の一族で、家紋は「三階菱」である。『見聞諸家紋』にも「三階菱」が小笠原氏の家紋として記されている。また、『羽継原合戦記』には「三文字松皮は赤松と小笠原」と見えている。いずれにしろ、小笠原氏が菱紋であったことは疑いをいれないものである。
その由来を『寛政重修諸家譜』には、建武の新政で信濃守護に任ぜられた貞宗は、後醍醐天皇のとき、「弓馬を師範したてまつり、叡感の余り王の字を家紋とすべきむね、勅命あり」として「王」の字を受けた。しかし、はばかりのあることとして、ひそかに王の字をかたどり松笠菱の下太と称して家紋にしたと記されている。松笠菱の下太とは、小笠原氏の定紋「三階菱」にほかならない。
【掲載家紋:四つ割菱(武田菱)/花菱/松皮菱】
小笠原氏の本家にあたる武田氏は、「四つ割菱」を用いていた。「四つ割菱」は武田氏の専用なので、やがて「武田菱」の名で呼ばれるようになった。武田氏の「菱」紋のいわれはさまざまに言いならされているが、かなり古くから武田氏は菱紋を用いていたようだ。塩山市にある菅田神社に伝えられた武田氏重代の「楯無の鎧」は平安時代の作とみられ、これに割菱・花菱ともに付いている。これをただちに家紋と断定はできないが、菱文様が平安時代より武田氏に密着した紋様であったことはうかがわれる。
武田氏の一族はこぞって「菱」を家紋として用いたが、宗家武田氏の「四つ割菱」をはばかって、家紋の形を変えている。たとえば、「四つ割菱」の線を太くしたり、「花菱」にしたり、菱を減らして「三つ菱」にするなど、さまざまに意匠を工夫している。その結果として、武田氏の一族一門が増えれば増えるほど、菱紋のバリエーションも増えていった。小笠原氏もはじめは「四つ菱」であったものを「三つ菱」とし、やがて「三階菱」に変化したものと考えるのが自然である。
写真:葵祭走り馬神事の幔幕
ところで、小笠原氏に仕えた溝口氏が著した『溝口家記』に記された小笠原氏麾下の紋をみると、「御家中添文」は、そのほとんどが、松皮菱に別の紋を組み合わせている。「御宿老衆幕之文」は、それぞれ独自な紋を用いていることから、武家における一族・一門、被官の紋のありようがうかがわれる。すなわち、一族・一門は宗家の紋を基本に自らの家紋を工夫し、被官はそれぞれの出自にふさわしい家紋を用いているのである。
【掲載家紋:赤沢氏の松皮に十文字/溝口氏の松皮に井桁/坂西氏の丸の内松皮】
所説 Ⅱ
三好氏
三階菱/三階菱に釘抜 *
(清和源氏小笠原氏流)
*京小笠原松皮菱釘抜とも呼称するとのこと |
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三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族。鎌倉時代のはじめに小笠原長清の子長経が阿波守護に補せられ、その子孫が三好郡に 居住して三好氏を称するようになったのが始まりといわれる。室町時代のはじめ、四国の守護が細川氏であった関係から細川氏の被官となり、 やがて家宰となり勢力を振る打ようになった。
三好氏が畿内に進出するようになったのは「応仁の乱」のときであった。乱にあたり三好氏の主家である阿波守護の細川成之は、 東軍を率いた細川宗家で幕府管領の細川勝元を支援するため京都に出陣した。その時、三好之長が阿波細川氏の中心兵力として従軍した。 これが以後約百年、之長・長秀・元長・長慶・義継の五代が京都・摂津方面で活躍するはじめとなった。
三好氏が全盛期を迎えたのは長慶の時代で、長慶は主家細川氏と対立、下剋上で畿内に地歩を固めた。天文二十二年(1553)、 近江に流浪していた足利義輝を京都に迎え、細川高国の養子氏綱を傀儡管領にすえて、幕府の実権を握った。しかし、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、 長慶が世を去ったのちは内紛を生じ、さらに織田信長の上洛などもあって次第に勢力を失っていった。
> 三好氏は小笠原氏の紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組みあわせた「三階菱(松皮菱)に釘抜紋」を用いた。戦国時代の阿波諸将の 幕紋を記録した『古城諸将記』には、勝瑞之城主三好豊前守義賢は「松皮菱釘貫座也」と記されている。他方、戦国時代のはじめに 三好氏の礎を築き上げた三好之長・元長の画像をみると三階菱の下に釘抜を散らした家紋が描かれ、三好氏歴代の位牌には「三階菱」紋 が据えられている。
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● 三好之長(長輝)画像
(見性寺蔵:東京大学史料編纂所データベースから)
『古城諸将記』は元亀三年(1572)、三好氏に属した諸将の幕に紋を印したもので、もともとは『阿波旗本幕紋控』といわれ戦国時代における紋章の歴史を知る貴重な記録である。 同書には前記の三好氏のものをはじめ、大代・板東・赤澤氏ら阿波小笠原氏流諸氏、川端・新開・佐藤・安養寺・粟飯原氏らの 幕紋が記され、阿波の戦国史を探るうえでも格好の史料となっている。
三階菱(松皮菱)は清和源氏武田氏流小笠原氏の代表紋であり、武田菱から派生したものである。一方の釘抜は座金を紋章化したもので「九城(クキ)を抜く」にかけて、好んで武家が使用した。 『見聞諸家紋』には、近江源氏三上氏の家紋としてもみえている。阿波三好氏は釘抜紋のみを単独に用いることもあったようだ。
『三好系図』によれば、釘抜紋はもと阿波国の豪族江侍の用いたモノを、三好氏もまた用いるようになったとある。江侍とは郷侍のことと思われ、阿波国の武士の多くが釘抜紋を用いていたとも解される。ヒョットして、三好氏は阿波国の生え抜き武家であったものが、清和源氏の名流小笠原氏の家系を仮冒したものではなかったか。 三好氏の「三階菱に釘抜」紋と、系図の記述はそのことを言外に語ったものと思われるのである。
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● 左から、三階菱紋 ・松皮菱紋 ・釘抜紋
その後、わたしのサイトをご覧になられた神奈川在住の京小笠原という方より
「三好氏の三階菱(京小笠原松皮菱)に釘抜は京小笠原の本家を示しており、三階菱とは言わず、 京小笠原松皮菱と言います。また京小笠原一族が江氏(江侍)を討った後に京の町で亡霊が出る事件が相次ぎまして、 京小笠原の家紋松川菱に釘抜座を付けたところ、その亡霊も収まったので、 それ以後は本家がこの前例に習い、ずっと京小笠原松皮菱釘抜としたものです。 阿波守護となったものは実は京小笠原の長男で、その為に小笠原から三好となっても、 この家紋を大切に致しました。呼び名も京小笠原松皮(菱)釘抜と言い、 松皮菱の菱はつけることがありましても、釘抜座の座は付けません。」
という貴重な情報をいただきました。おもしろい話なので、ここに紹介させていただきました。
三階菱 三階菱を食べ物にたとえて「菱餅」、三つ重ねて「松皮菱」といったりする。 この紋の使用家には清和源氏義光流の小笠原氏、同族の武田氏が用いられる。 しかし、武田氏は主に「割菱」、「花菱」を用い、「三階菱」は小笠原氏代表の紋と見ても良いです。 発祥は甲斐国中巨摩郡櫛形町小笠原で、世に言う「甲斐源氏」。 全国に広がる著名な大姓。 そのほかこの紋を使用しているのは、清和源氏義家流の細川氏、同氏義光流の林氏、菅原氏流の矢野氏、藤原秀郷流の高林氏ほか。
戦国時代にあらわれた長慶によって京畿に覇をとなえた三好氏は、清和源氏小笠原氏の子孫と伝えられている。『足利希世記』には、三好氏は「阿波の小笠原の惣領」であると記されており、三好氏が小笠原氏の子孫とするのは諸書一致するところである。
小笠原氏は甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したことに始まる。文治元年(1185)、長清は頼朝の推挙で信濃守に補任され、源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を浸透させていった。この小笠原氏が阿波と関係をもつはじめとなったのが、承久三年(1221)に起った承久の乱であった。
鎌倉時代のはじめ、阿波守護職は佐々木氏であったが、佐々木氏は承久の乱で宮方に味方して没落した。そのあとに、幕府方で活躍した小笠原長清が阿波守護職に補任され、阿波国に入部したのである。のちに六波羅奉行に任じられた長清は、子の長経を守護代として阿波の支配を委ねた。長経は阿波麻殖保をめぐって平清基と争論したことや、土佐に配流される土御門上皇を阿波に迎えたことなどが『吾妻鏡』にみえている。その後、長経は弟長房に阿波守護職を譲り、みずからは信濃に帰っていった。長経の子孫は、代々信濃守護職に任じられて戦国時代に至っている。
かくして、長房の子孫が阿波守護職を世襲して鎌倉末期まで続き、阿波国内に小笠原一族が繁衍した。『古城諸将記』によれば、長房の代の文永四年(1267)、三好郡の領主平盛隆が謀叛を起し長房はこれを征圧した。その賞として幕府から、三好郡を与えられ岩倉山に城を構えた。これが、小笠原氏が三好郡に入るきっかけとなったのだという。『阿波小笠原氏系図』によれば、長房のあとは長久-長義-義盛とつづき、鎌倉末期の阿波守護は長義の弟頼久であったといわれる。
阿波小笠原氏の盛衰
元弘元年(1331)に起った元弘の変後の動乱で鎌倉幕府が滅ぶと、後醍醐天皇の親政による建武の新政が開始された。しかし、建武二年(1335)に起った中先代の乱を契機として、足利尊氏が謀叛を起したことで新政はあっけなく崩壊した。以後、時代は南北朝の争乱へと推移した。
足利幕府を開いた尊氏は、配下の諸将を中四国に配し、阿波には細川和氏・頼春兄弟が派遣された。阿波には鎌倉時代以来の足利氏の所領秋月荘があり、阿波に入った細川兄弟は秋月荘を拠点として、漆原・小笠原ら阿波の在地武士を掌握し尊氏の幕府創業に尽力した。南北朝の対立は武家方(=北朝)の優勢に推移したが、やがて、尊氏と直義兄弟の対立から観応の擾乱が起り事態は渾沌の度を深めた。
擾乱の影響は阿波にも及び、小笠原一族は南朝方に転じたようで、小笠原宮内大輔頼清、小笠原一宮長宗らが細川氏と対立したことが記録から知られる。南北朝の争乱のなかで、阿波小笠原氏の嫡流とみられる頼清は没落し、小笠原一宮氏は正平十七年(1362)阿波守護細川氏に降伏している。そして、明徳三年(1392)に行われた相国寺供養に際して、幕府管領細川頼元が従えた武士のなかに一宮氏がみえており、一宮氏は細川氏の有力被官となっていた。かくして、阿波小笠原氏は細川氏の麾下に属したといえよう。
さて、三好氏である。先述のように三好氏は小笠原氏の一族とみられているが、その系譜に関しては諸説があって一定しない。通説によれば、小笠原頼久のあと頼氏-頼貞と続き、頼貞のあとの義長のとき三好を称したという。一方、義長は京都小笠原長興の子で、阿波小笠原長隆の養子となり、三好郡芝生に住したともいわれる。
三好氏が確実な文献にあらわれるのは、寛正六年(1465)、三好式部少輔宛の阿波守護細川成之の奉行人奉書である。ついで、文明四年(1472)に同じ三好式部少輔が守護細川氏から、阿波三郡諸領主に対して犬神を使う輩を探索し処罰するように命じられた文書がある。式部少輔は三好・美馬・板野の三郡の徴税や検察を委ねられ、細川氏の被官として有数の国人領主であったようだ。そして、三好式部少輔は義長の子ないし孫ではないかとみられている。
三好氏の登場
三好式部少輔の時代に京都を中心に応仁の乱が起り、阿波守護職の細川成之は宗家で幕府管領の地位にある細川勝元に味方して上洛、勝元を援けて大活躍した。三好式部少輔も子の之長(長輝)とともに成之に従って参陣、これが三好氏が畿内に進出するきっかけとなった。
之長はなかなかの型破りな人物であったようで、当時の記録には「三好は往年の白コ(手ヘンに古)の賊なり、土一揆と与同して大将となる」とある。文明十七年(1485)、之長は徳政一揆の張本人として、幕府所司代の追捕を受けているのである。同年、阿波で反乱が起り、守護細川成之・政之父子は京都から阿波に帰国した。之長もそれに従って阿波に帰り、乱が鎮圧されたのちも阿波に留まっている。
応仁の乱を契機として世の中は、確実に下剋上が横行する戦国乱世となった。細川宗家の勝元は乱の最中に病死し、そのあとは政元が継いで細川宗家の家督となったが幼少であったため、幕府管領職には畠山政長が就いていた。やがて、畠山政長と対立するようになった政元は、明応二年(1493)、政長が将軍足利義材とともに河内に出陣した留守をねらってクーデターを起した。「明応の政変」と呼ばれる乱で、進退窮した政長は河内正覚寺で自害し、足利義澄が新将軍に擁立された。
かくして、政元は管領に就任し義澄を傀儡として幕府政治を掌握、「半将軍」と呼ばれる専制体制を確立した。ところが、政元は修験道に凝って生涯女性を寄せつけなかったため実子はなかった。そこで、関白九条政基の子を養子に迎えて澄元と名乗らせた。これで細川氏の後嗣も決定したかと思われたが、文亀三年(1503)、阿波守護家の細川義春の子を養子に迎え澄元と名乗らせたのである。ここに細川家中は澄之派と澄元派に分かれ、不穏な空気が漂うようになったのである。
そのような永正三年(1506)二月、三好之長は澄元を擁して上洛した。政元は澄之に丹波を、澄元に摂津をそれぞれ分割継承させた。このとき、三好之長は摂津半国の守護代に任じられている。澄元を擁する之長の実力は政元も認めるほどのもので、澄元が細川宗家の家督になれば之長が権勢を振るうことを危惧した澄之派の香西元長・薬師寺長忠らは、翌年、入浴中の政元を暗殺するという挙に出た。ついで、之長・澄元を襲撃、危うく邸を脱出した之長と澄元は近江に奔った。
こうして、香西元長・薬師寺長忠らに擁された澄之が細川宗家の家督となったが、これに反発した細川高国・政賢・尚春らの細川一族は澄元に味方したため、一ヶ月足らずで澄之は自害という結果となった。晴れて細川宗家の家督となった澄元は将軍に拝謁し、摂津・丹波など四ケ国の守護となった。ここに三好之長の権勢はおおいに揚がったが、之長に対する反発も強まっていった。
細川氏の内訌
政元が死去したのちの細川氏の混乱によって、永正五年(1508)、政元に追われ周防に逃れていた前将軍義稙が大内義興に擁されて入京してきた。このとき、高国が義稙支持に転じたため、澄元は之長とともに近江に奔り、将軍義澄も近江に逃れた。その後、義稙が将軍に返り咲き、高国が管領職に就き細川宗家の家督となった。わずか三年の間に細川宗家の家督は、政元から澄之、澄元、そして高国へと目まぐるしく変わった。そして、この細川氏の内訌は「両細川氏の乱」と呼ばれ、京畿を戦乱の坩堝にたたきこんだのである。
永正六年六月、三好之長は近江から兵を進めて山城の如意嶽に陣をはったが、細川高国・大内義興に敗れた。ついで、八月、之長は嫡男の長秀とともにふたたび京都に迫ったが、またもや敗北を喫し、澄元を擁して阿波に帰った。このとき、伊勢に逃れた長秀は、北畠氏に攻められて自刃している。
阿波で兵を養った之長は播磨の赤松氏の支援を取り付け、永正八年(1511)、大軍を率いて京都に攻め上ると細川高国・大内義興らを丹波に奔らせた。ほどなく高国・義興が反撃に転じると、之長は細川政賢らとともに船岡山で一大決戦を試みたが、大内軍に大敗を喫し政賢は戦死、之長らは阿波に逃げ帰った。以後、阿波に雌伏して兵を養い、義稙・高国・義興政権打倒の機会をうかがった。
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応仁の乱、永正の乱における激戦地となった船岡山、山腹には空堀跡が残る。 |
永正十五年(1518)に連合政権の一翼を担っていた大内義興が帰国、高国と将軍義稙との間も円滑を欠くようになった。京都の情勢を睨んでいた之長は、翌十六年、海部・香川・安富氏らを従え兵庫に上陸した。そして、翌年二月、高国を近江に奔らせて京都に入った。澄元は将軍義稙の支持を得て家督に返り咲いたが、ほどなく六角定頼の助けを得た高国が反撃に転じた。
一戦に敗れた之長は百万遍で自害、子息長光・長則らも捕えられて殺害された。澄元は播磨を経て阿波へ没落、ほどなく失意のうちに死去した。ふたたび管領職に復活した高国は将軍義稙と対立、義稙は阿波に逃れたため、前将軍義澄の子義晴が将軍に擁立された。
元長の活躍
之長、澄元らが死去したのち、三好氏の家督を継いだ元長は、澄元の子晴元と義稙の養子義維を奉じて再挙を図った。
・肖像画:左=之長像/右=元長像 (東京大学史料編纂所データベースから)
大永六年(1526)、高国は一族細川尹賢の讒言を信じて、有力部将香西元盛を殺害した。元盛の兄弟波多野稙通・柳本賢治らはこれを恨んで、晴元に通じて反旗を翻した。この高国政権の混乱をみた三好元長は、一族の勝長、政長、細川澄賢らを先陣として進発させた。翌年、勝長、政長らは柳本賢治と連合して、高国の軍と桂川で戦い大勝をおさめた。高国は将軍義晴とともに近江に奔った。
かくして、三好元長は足利義澄の子義維と晴元を奉じて堺に上陸、義維を擁立して堺公方府を設立して高国方と対峙した。享禄元年(1528)、元長は高国と晴元の和解を図ったが、かえって賢治らの讒言によって晴元との間に溝を作ってしまった。その結果、元長と賢治の抗争となり、晴元の態度にも嫌気をさした元長は阿波に帰っていった。
一方、高国は各地を流浪して再起を狙い、ついに備前三石城の浦上氏の支援を得て、享禄三年(1530)、兵を挙げると晴元方の軍を破った。この事態に焦った晴元は、阿波の元長の渡海を望み、たびたび催促の使者を送った。ついに出陣を決した元長は、享禄四年二月、堺に上陸した。これに続いて、阿波屋形の細川持隆も晴元を支援するために堺に到着した。五月、高国方と晴元方の決戦が摂津天王寺行われ、浦上村宗は戦死、敗走した高国は捕えられて尼崎で自害した。
ここに晴元が細川宗家の家督となり、三好元長の権勢はさらに振るうようになった。ところが、元長の戦功を妬んだ一族の三好政長が、畠山氏の家臣木沢長政と結んで、晴元に元長を讒言した。これを信じた晴元は元長を排斥したため、窮地に陥った元長は阿波屋方細川持隆の取りなしで弁解につとめたが、晴元はこれを許さなかった。晴元の姿勢に怒った持隆は阿波に帰国していった。
長慶の登場
この事態に際して、天文元年(1532)元長方の諸将が木沢長政の拠る飯盛城を攻撃、晴元はこれを救うため一向一揆と結び、飯盛城を後詰めした。戦いは元長方の敗北となり、元長は一子千熊丸を阿波に落すとみずからは堺に残った。そこへ木沢・一向一揆勢が攻め寄せ、元長は足利義維とともに防戦につとめたが多勢に無勢で、ついに元長は顕本寺において自害、義維は淡路に逃れ去った。
元長の戦死によって三好氏は一時勢力を失ったが、本領阿波は従前のままであり、千熊丸は持隆の庇護を受けて勢力の回復を図った。
元長を討ったあと、晴元政権はつかの間の安定をみせたが、一向一揆の激化、高国残党の蜂起がつづくと、阿波の千熊丸を召して事態の収拾を目論んだ。この晴元の身勝手さは驚くばかりだが、当時の大名というものは家来の受けた痛みに思いをはせるということはなかったようである。かくして天文二年、千熊丸は大坂に上陸し、本願寺と晴元の間の講和を仲介した。そして、このころ元服をしたようで利長(のち範長、長慶)と改めている。
翌三年、父を死においやった木沢長政の斡旋で、これも父を死にいたらしめた晴元と和睦し、以後、晴元の被官として畿内で活動、次第に失地を回復していった。天文十年(1541)木沢長政は三好長慶・政長を除こうとして細川晴元と敵対した。翌天文十一年、晴元は木沢討伐のために河内に出陣、長慶もその一翼をになって河内大平寺の戦いにおいて仇敵木沢長政を倒した。翌天文十二年(1543)、高国の養子氏綱ら反晴元党が挙兵すると、長慶はその掃討に追われた。
長慶には三人の弟がおり、すぐ下の弟は之康(義賢)を名乗りのちに実休と号した。次ぎの弟冬康は安宅氏を継いで安宅水軍を率い、末弟の一存は讃岐の名族十河氏を継ぎ鬼十河として勇名を馳せた。この三人の弟が、それぞれ本拠である阿波・讃岐・淡路を固め、長慶の京畿における活躍を支えたのである。天文十六年、之康は氏綱に大勝をおさめ、翌年、長慶は氏綱と和睦して三好氏の勢力はさらに拡大した。
長慶の台頭は、ともに晴元政権下で重きをなす一族の三好政長との対立をひきおこした。そもそも政長は長慶の父元長の仇の一人であり、晴元に政長排斥を願った。しかし、晴元はそれを容れなかったため、長慶は氏綱を擁して晴元に背いた。かくして、晴元=政長と長慶の抗争が始まり、天文十七年、摂津江口の戦いで十河一存が政長を敗死させた。晴元は将軍足利義晴を奉じて京都を脱出、長慶は氏綱を奉じて京都に入ると、事実上畿内を征圧下においたのである。
●中世、阿波・畿内要図
・徳島県史から転載
三好氏の全盛
天文二十一年(1552)、長慶は足利義輝を京都に迎え細川氏綱を管領職とし幕政の実権を掌握した。ここに約五十年にわたって続いた両細川氏の乱は終熄した。翌年、義輝が晴元を召し返そうとしたため、これに怒った長慶は義輝を追放した。ついに、文字通りの下剋上によって、長慶は幕府を思いのままに動かす権力者にのし上がったのである。
その後、長慶は丹波八上城に波多野氏を攻め、さらに芥川城を包囲攻撃、芥川城を落したのち長慶は芥川城を居城として摂津国人衆を勢力下に置くようになった。かくして、摂津を含む畿内は三好長慶の支配下となり、長慶は三好氏の全盛時代を現出したのである。さらに弘治元年(1555)には東播磨を侵食し、同三年には丹波を半ば征圧した。
阿波を本国として畿内から丹波・播磨まで支配下においた長慶であったが、その政権は安定しなかった。永禄元年(1558)、流浪の将軍義輝は六角義賢、晴元残党らの支援をえて京都奪還の兵を挙げた。長慶はこれを迎撃したが、戦いは思うように展開せず、ついに義輝を京都に迎え入れる結果となった。ここに幕府は復活し、長慶は相伴衆に列せられ、三管四職に準じる待遇を与えられたが、京都から締め出されることになった。京都支配をあきらめた長慶は大和・河内・和泉の領国化に専念するようになり、戦国大名への途を歩み出した。
永禄二年、長慶は畠山高政を援けて河内に出兵、高政に反する安見直政の拠る高屋城を落し、ついで飯盛城を落すと高政を高屋城に入れた。ところが、 |