大草城(知多市)

 

大草城(中日)

 

  大草城は、室町期に一色義遠によって築城されたとする説もあるが、確かではない。現在見られる遺構は、織田信長弟の織田長益(後の有楽斎)によって築かれた。天正12年(1584)頃、大野城主であった佐治一成が退去した後、その所領と家臣団を受け継いだのが長益であった。

 江戸期に記された地誌類によれば当初大野城を居城とした長益は、水源が十分確保できないとして新たに大草城を築いた。廃城時期は明らかではないが、天正18年(1590)の織田信雄の改易時に求められるのではないだろうか。

 

 現在、城跡の主要部は大草公園となり、堀・土塁がほぼ良好に残っている。江戸期に描かれた名古屋市・蓬左文庫所蔵の絵図によって、失われた遺構の詳細も知ることができる。

 

 

大草村   大草町縄張

 

 主郭Ⅰは全体が正方形に近いが、北側の塁線は折れ曲がっている。元は曲輪の四方を土塁が囲んでいたが、南側と西側は削り取られて幅を減じている。北側の土塁は基底部こそ残しているが、高さを減じている。ほぼ完存する東側の土塁は、高さ約6メートル、下幅15メートル前後である。上部はほぼ平坦で、上幅も6メートル前後ある。曲輪内部には、昭和54年に建設された天守風の展望台が建っている。

 主郭Ⅰの南は台地端部となっている。台地の崖面の高低差を利用するが、台地裾にも水堀ABを設けている。水堀に挟まれたⅡ部分には、かつて枡形状の曲輪が存在し、Ⅰ郭と台地裾を連絡していた。現状は破壊を受け、わずかに痕跡を止める程度である。主部Ⅰ郭からⅡ郭東側にかけては水堀が巡る。台地端部には小堤防を設け、水を溜めている。

 Ⅰ郭西側にも水堀が巡らされていたが、埋められて宅地となっている。主部Ⅰから西側へ抜ける道は後世の破壊道だが、Cは堀の水を溜めていた小堤防を踏襲している。Ⅰ郭北側、Ⅱ郭とを分ける堀はもともと空堀であったようだが、かなり浅くなっている模様である。

 Ⅱ郭は副郭と言うべき存在である。Ⅱ郭は東西に細長くなった方形で、主郭Ⅰ側以外の三方を土塁で囲んでいる。Ⅱ郭の土塁の規模は主郭Ⅰに準じたものになっているが、西側土塁は上幅が約15メートルに及ぶ。さらに土塁の内側には平坦面を伴っている。北西隅は、あたかも天守台の如き形態となっている。

 Ⅱ郭北側では低くなった土塁をまたぐ位置に虎口Dがある。虎口Dの前面には小土塁が張り出し、外枡形状となっている。Ⅱ郭の南東隅、Ⅰ郭側のEも虎口跡である。土塁の一部が削り取られているため、構造が今一つはっきりしない。

 Ⅰ・Ⅱ郭の北・西・東側には外郭部Ⅳが存在する。かつてFGH部分に堀が巡らされ、その内側に土塁が併走していた。J部分には高さ約4メートルの土塁が平成17年まで残っていた。土塁Jはコンクリートの如く固くたたき締め、極めて入念に築かれていたのが明らかとなった。恐らく主郭ⅠやⅡ郭の土塁も同様の工法で築かれていると考えられる。発掘調査後、土塁Jは均され、跡地は宅地となっている。ただ子細に観察すると、堀跡の内側にあたる畑地や宅地には、わずかな高まりや段差を認めることができる。これらは外郭の土塁や切岸の痕跡である。

 外郭内部は家臣の屋敷が存在したと考えられる。地割にも屋敷跡を思わせる方形区画が認められる。道が不自然に折れ曲がるK部分は、枡虎口の名残である。

 主郭Ⅰの西側、Ⅴ付近は尾張藩重臣の山澄氏在所屋敷跡である。ほぼ江戸期を通じて古城となつた大草城跡に隣接して屋敷を構え、その維持・管理を行っていた。織田信長一門による織豊系城郭ながら、石垣を用いない点が特徴的である。土の技術を駆使して、石垣に劣らない防御性を高めている。                        
愛知の山城から)