本の表紙 ご本人からいただきました(ありがとうございます!)。よって許諾済です。

 

読んだ本

ICON O GRAPH

Chris KYOGETU

Createspace Independent Publishing Platform

2016.06

 

ひとこと感想

最初にまず、前作「Pangea Doll」と同様、本の装丁、レイアウト、カバーデザイン(上記画像)が何といっても目を引く。中身は、日本語の小説だが、ある意味、日本的ではない。神学や哲学や美学に対する著者の感性によって、不思議な世界がつくられている。本当はもっとまともな感想を書きたかったのだが、純粋に物語の世界に填まってしまったので、以下、あらすじのような形でまとめてみた。

 

***

 

「イコン オ グラフ」すなわち「イコノグラフ」という物語の、あらすじを書いてみる。そして、登場人物のことも整理してみる。そして、ちょっとだけ、感想めいたことを書いてみる。

 

「主人公」に近いと思われる登場人物は、「川村光音(こうね)」である。

 

本作の冒頭は光音の友人である、「倉島真希(まき)」の死からはじまる。しかも真希はこのとき12歳、小学校6年生(2016年という設定)に逝っている。

 

真希の葬儀のことが、おそらく本書における「原風景」すなわち物語の基調音を構成している。

 

光音と真希、この二人の友情的関係は、実はさまざまな意味で危うかった。

 

真希には好きな少年がいた。同い歳の「羽根恍希(こうき)」である。

 

すでに彼らの名前が示しているように、「光」音と真「希」の双方にとって恍希すなわち、小「光」「希」は大切な人物である。

 

もちろん感情は単純ではない。真希は積極的に恍希に対して自分の思いを告げていたが、他方で恍希は光音にさりげなく告白していた。しかし、いずれも若々しい12歳の少年と少女の間では、それ以上に深い思いが交差することはなかった。

 

いや、たとえあったとしてもそれぞれが封印をしていたのだった。

そして、話(人間関係)はこれで終わりではない。真希に対してかなり過剰なかかわりを持っていた人物がいる。それが、当時彼らの担任をしていた「筒井舞衣(まい)」である。

 

舞衣にはその当時から時田という同業の恋人があり、互いに愛し合ってはいたが、結婚には踏み切れていなかった。さまざまな葛藤があったようだ。もしくは、本当のところ、しっくりときていなかったのかもしれない。

 

その舞衣は、実は光音とは異母兄弟であり、そのことは、真希が亡くなる前の病床で語られる。

 

その意味では、本書では、性質の異なる二つの「三角関係」もしくは「三項関係」(トリアーデ)が形成されているということになる。

 

すなわち一つは、一人の男性をめぐる異性愛的なコンプレックスであり、もう一つは、早逝した少女をめぐる同性愛的なコンプレックスである。

 

1)異性愛的コンプレックス

恍希 (に対する)
光音

真希

2)同性愛的コンプレックス

真希 (に対する)

光音

舞衣

このように、いずれにせよ、亡き真希が二つのトリアーデを結び付けていることに注意したい。しかも後者は、姉妹による同性の少女をめぐる葛藤となっており、非常に痛々しさを感じるところでもある。

 

――以上が、前半で描かれる主要人物たちの関係性であるが、真希の「死」はこうした、ある種の安定した(葛藤や緊張関係を維持した)秩序を揺るがした、と言える。

 

後半は、時間的には4年ほど前に進み、2020年のこととして描かれている。舞衣は小学校教師から高校教師となっている。恍希は舞衣の働く高校の1年だが靴作りにおいてすでに将来を約束されている。光音はそれまで別の地域で暮らしていたが、彼らのいる高校に転校してくる。

 

舞衣は、真希と光音が好きだった恍希と恋愛関係に陥っている。恍希も積極的に舞衣のことを思っているシーンも描かれているが、どうも恍希は舞衣の中に真希と光音を見ているように思えてならず、それは意識的なものではない点で、儚気でもある。

 

ただし、むしろ舞衣が強く恍希の存在を求めているとも言える。表面的には舞衣は、恍希のなかに真希の残像を追いかけているだけなのかもしれないが、真希と光音が好きだった少年が小学校から高校生へと成長していくなかで、前述した、同性愛的トリアーデと異性愛的トリアーデが錯綜した形で恍希に託されているような構図になっている。
 

思うに、光音と舞衣は、ある種、二人が別々の人格というよりも、一方が他方の分身であるような存在であるのではないだろうか。もちろん、舞衣が光音の分身という意味である。

 

光音は一方では常に恍希を求めているものの、ある種の禁欲性があり、一定程度以上の距離を取り続けている、その禁欲性を解放してくれているのが、「姉」の舞衣であるとも考えられる。

 

広義における「性欲」に囚われることがないことによって光音は、別の欲望の実現をむしろ望んでいる。別の欲望。これをどう表現してよいのか、非常に迷うところである。

 

具体的には、女優としての道なのだが、単純に、女優として生計をたてるとか、そういう意味ではない。一人の生身の実体ある男性にのみ目を向けるのではなく、実存する自己が多くの他者や社会全体と向き合い、何が表現できるのかということであり、それ以上に、そうした多くの他者や社会全体のさまざまな思いを一身に引き受けたい(表現したい)という欲望なのかもしれない。

 

これは、一般的には自己表現欲求もしくは自己愛のようなものとして受けとめられがちである。しかし作者は巧みにそうした解釈を拒み、むしろ他者全般を愛おしむような、神霊的な情感をそっと提示しようとているのかもしれない。

 

はたしてこういったとらえ方が作者にも読者にも受け入れられるかどうかは定かではないが、自分なりに受けた印象を描いてみた次第である。

なお、役者がすべてそうであるというわけではないかもしれないが、何か、誰かを演じるということは何か、誰かに憑依するということのように思われる。

憑依とはすなわち、一つの「霊」(たましい)のことを「思う」こと、そして「生きる」ことだと私は思う。

 

芝居においては、そうした神秘的な営みがなされているから、観客の心は揺さぶられる。

 

光音がそうした道を選んだ理由は、ここにあるように思われる。

さて、うまく書けない感想であるが、本当は本作の各所に散りばめられている神学、哲学、美学その他、さまざまな知的な「小道具」(たとえば、時計や靴、ワタリガラス、鍵などなど)にもふれてみたいのであるが、残念ながら力尽きた。ぜひとも直接作品と接して味わってみていただきたい。

 

 

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