読んだ本
ストーカー
A&B・ストルガツキー
深見弾訳
早川書房
1983年2月
原著
Пикник на обочине
Roadside Picnic
Арка́дий Струга́цкий
Бори́с Струга́цкий
1972
ひとこと感想
タルコフスキーの映画とは完全に別な作品。映画版も良かったが小説版もおもしろかった。ただし小説版は、映画版ほど「核」を主軸に置いておらず、「ゾーン」は「異星人が来航した痕跡」であった。「放射能」特に生まれる子供への影響は共通していた。
***
目次
ピルマン博士のインタビュー記事の抜粋
1 レドリック・シュハルト。23歳。独身。国際地球外文化研究所ハーモント支所所属実験助手。
2 レドリック・シュハルト。28歳。既婚。職業不定。
3 リチャード・H・ヌーナン。51歳。国際地球外文化研究所ハーモント支所勤務。電子機器納入業者監督官。
4 レドリック・シュハルト。31歳。
***
本作では、映画と異なりいくつかのテーマが展開されている。
とりわけ映画にはなかったもので、興味深いのは、異星人の「来訪」に関する議論である。
一般的に、「未知との遭遇」ものは、「人間以上の知性や文明をもっている」ことが前提となり(遠くから向こうがやって来るので必然的に)、そのうえで、以下の二つのバリエーションがある。
1)平和的接近
2)攻撃的接近
しかし本書には、第三の可能性が提示される。
3)無関心
そう、原題の「路傍のピクニック」とは、異星人が、特に目的をもたず(すなわち何らかの知性体とのコンタクトを目的とせずに)、地球に、道すがらのピクニックでもするかのように、訪れているという可能性もある、ということである。
そして彼らのピクニックの「痕」が、「ゾーン」であり、その「ゾーン」には、さまざまな「ゴミ」が残されていて、それらを見つけ出しては売り飛ばす稼業をしているのが「ストーカー」、これが本作の基本的構成である。
***
目次をみて分かる通り、レドリック・シュハルト、通称「レッド」という一人の「ストーカー」が中心人物で、彼が21歳、28歳、31歳のときのことが語られている(リチャード・H・ヌーナンはレッドが「不在」のあいだをつないでいる)。
映画版に近いのは、このうちの「31歳」の部分ということになるが、それは一人の男の「ストーカー」とその妻、娘がおり、「ストーカー」が「ゾーン」へ人を連れてゆく、というだけで残りは大半が異なっている。
たとえば小説版には原発のシーンは出てこない(小説では「熱風炉」(132ページ)というものが「ゾーン」内部にあるが)。
小説版では、決定的な記述はないものの、「ゾーン」と「原発」は関連づけられておらず、「疫病汚染街区」(34ページ)と呼ばれる一方で、「超文明をもつ異星人が残した痕跡」ともされ、いずれにせよ、「ゾーンは悪魔の誘惑だ」(71ページ)とみなされている。
共通するのは、その場所にかかわるのはきわめて危険で、命を落とすおそれがあるということであり、また、そこにかかわる者の子どもの心身に大きな影響を与える「汚染地区」となっていることである。
これは、少なくとも、目に見えないが、放射能のようなものがこの界隈には蔓延しているということを意味している。
すなわち、「原爆」や「原発」などに特定はできないが、何らかの放射性物質が関与していると考えられる。
それゆえ、映画版では「ゾーン」に侵入する際に、特に防護をしていなかったが、小説版では、「特殊保護服」(30ページ)を着ており、小説版のほうがこの点については「リアリティ」がある。
また、両者に共通するものとして、いずれも「ナット」を使って進行方向を探っている(ただし映画版はこの「ナット」に白布を縛りつけて放り投げていたが小説版は布はない)。
なぜ「ナット」なのかはよく分からない。
また、放射能に関する記述としては、「ゾーン」にもともと住んでいた人たちが、小説でも映画でも、いずれも心身に何らかの支障をきたしている。
小説版では、多くの人が失明したというが、彼らは閃光にやられたのではなく轟音にやられたという説明がある(35ページ)。
これもやはり、地球上では知られていない放射性物質もしくは核分裂(または融合)反応の結果を表わそうとしているのかもしれない。
「ゾーン」にある、さまざまな「仕掛け」も、小説版の方が多彩である。
通常の地上の生態と異なるさまざまな事象が発生しており、「重力が他より高い場所」が「蚊の禿」と呼ばれ、「乱流」が「浮かれ幽霊」と呼ばれるなど、いろいろと想像力が掻き立てられる。
唯一共通しているのは「肉挽き機」である。
これはもう、ネーミングだけで、充分。
ストーリーや設定以外にも、こうした「小道具」が、本作の魅力の一部となっている。
放射能の影響を受けて生まれた「レッド」の娘の描き方に関しても、映画版と小説版では大きく異なっている。
映 画版では、よく観ると冒頭とラストシーン両方で登場しており、放射能の影響で心身に影響を受けたことが示されているが、小説版ではかなりあいまいにするこ とによって、得体の知れなさを表現しており、たとえば、娘に対して「もう人間じゃない」(212ページ)と医者が診断したという説明がある。
また、「ストーカー」が「ゾーン」に行く目的が、映画版の方が狭くなっている。
小説版では、異星人の残した「ゴミ」に、いろいろな名前が付けられており、ストーカーはその「ゴミ」を拾いに「ゾーン」に入る。
「ゴ ミ」とは、たとえば、「コロイドの気体」である「魔女のジェリー」、かなり重たく一人では運ぶことのできない「空缶」(46ページ)、生命過程の刺激を与 える「ブレスレット」、玉に光線をあてると光を反射する「黒い飛沫」、「ゼンマイ仕掛けの小熊の玩具」である「族烏のディック」、生物ロボット「ゾン ビー」など、さまざまな名称が次々と登場する。
武器のような役目を果たしたり、奇妙な効果があるものもあるが、いずれにせよ、それらのもつ意味は充分には理解されていない。
これらをみると、地球外の文明というものを想定せざるをえない。
そして、これらの「ゴミ」は高く売れる。
これらの「ゴミ」を「ゾーン」の外部に持ち出すとき、人間もそうだが、必ず消毒(除染)する。
一方、映画版では、そうした「ゴミ」は登場せず、「ゾーン」に行く目的は、「何でも願いがかなう」ということに収斂させている。
誰もが自分の願いがかなえられる「願望機」もしくは黄金のタマ」というものがあるが、これが映画版では、「ゾーン」のなかにあるとある建物の「部屋」に入る、ということに転じられている。
・・・以上のように、映画版は、「原発」と「放射能」そしてその影響としての心身の変化は密接に関連していたが、小説版は、強いて言えば、「原発」のかわりに「未知の放射性物質」が原因とされているという違いがある。
その結果、小説版が純粋な意味での「SF」であるのに対して、映画版はある種の「リアリティ」に支えられているという意味では「ホラー」となっているという違いがあるように感じられた。
ストーカー
A&B・ストルガツキー
深見弾訳
早川書房
1983年2月
原著
Пикник на обочине
Roadside Picnic
Арка́дий Струга́цкий
Бори́с Струга́цкий
1972
ひとこと感想
タルコフスキーの映画とは完全に別な作品。映画版も良かったが小説版もおもしろかった。ただし小説版は、映画版ほど「核」を主軸に置いておらず、「ゾーン」は「異星人が来航した痕跡」であった。「放射能」特に生まれる子供への影響は共通していた。
***
目次
ピルマン博士のインタビュー記事の抜粋
1 レドリック・シュハルト。23歳。独身。国際地球外文化研究所ハーモント支所所属実験助手。
2 レドリック・シュハルト。28歳。既婚。職業不定。
3 リチャード・H・ヌーナン。51歳。国際地球外文化研究所ハーモント支所勤務。電子機器納入業者監督官。
4 レドリック・シュハルト。31歳。
***
本作では、映画と異なりいくつかのテーマが展開されている。
とりわけ映画にはなかったもので、興味深いのは、異星人の「来訪」に関する議論である。
一般的に、「未知との遭遇」ものは、「人間以上の知性や文明をもっている」ことが前提となり(遠くから向こうがやって来るので必然的に)、そのうえで、以下の二つのバリエーションがある。
1)平和的接近
2)攻撃的接近
しかし本書には、第三の可能性が提示される。
3)無関心
そう、原題の「路傍のピクニック」とは、異星人が、特に目的をもたず(すなわち何らかの知性体とのコンタクトを目的とせずに)、地球に、道すがらのピクニックでもするかのように、訪れているという可能性もある、ということである。
そして彼らのピクニックの「痕」が、「ゾーン」であり、その「ゾーン」には、さまざまな「ゴミ」が残されていて、それらを見つけ出しては売り飛ばす稼業をしているのが「ストーカー」、これが本作の基本的構成である。
***
目次をみて分かる通り、レドリック・シュハルト、通称「レッド」という一人の「ストーカー」が中心人物で、彼が21歳、28歳、31歳のときのことが語られている(リチャード・H・ヌーナンはレッドが「不在」のあいだをつないでいる)。
映画版に近いのは、このうちの「31歳」の部分ということになるが、それは一人の男の「ストーカー」とその妻、娘がおり、「ストーカー」が「ゾーン」へ人を連れてゆく、というだけで残りは大半が異なっている。
たとえば小説版には原発のシーンは出てこない(小説では「熱風炉」(132ページ)というものが「ゾーン」内部にあるが)。
小説版では、決定的な記述はないものの、「ゾーン」と「原発」は関連づけられておらず、「疫病汚染街区」(34ページ)と呼ばれる一方で、「超文明をもつ異星人が残した痕跡」ともされ、いずれにせよ、「ゾーンは悪魔の誘惑だ」(71ページ)とみなされている。
共通するのは、その場所にかかわるのはきわめて危険で、命を落とすおそれがあるということであり、また、そこにかかわる者の子どもの心身に大きな影響を与える「汚染地区」となっていることである。
これは、少なくとも、目に見えないが、放射能のようなものがこの界隈には蔓延しているということを意味している。
すなわち、「原爆」や「原発」などに特定はできないが、何らかの放射性物質が関与していると考えられる。
それゆえ、映画版では「ゾーン」に侵入する際に、特に防護をしていなかったが、小説版では、「特殊保護服」(30ページ)を着ており、小説版のほうがこの点については「リアリティ」がある。
また、両者に共通するものとして、いずれも「ナット」を使って進行方向を探っている(ただし映画版はこの「ナット」に白布を縛りつけて放り投げていたが小説版は布はない)。
なぜ「ナット」なのかはよく分からない。
また、放射能に関する記述としては、「ゾーン」にもともと住んでいた人たちが、小説でも映画でも、いずれも心身に何らかの支障をきたしている。
小説版では、多くの人が失明したというが、彼らは閃光にやられたのではなく轟音にやられたという説明がある(35ページ)。
これもやはり、地球上では知られていない放射性物質もしくは核分裂(または融合)反応の結果を表わそうとしているのかもしれない。
「ゾーン」にある、さまざまな「仕掛け」も、小説版の方が多彩である。
通常の地上の生態と異なるさまざまな事象が発生しており、「重力が他より高い場所」が「蚊の禿」と呼ばれ、「乱流」が「浮かれ幽霊」と呼ばれるなど、いろいろと想像力が掻き立てられる。
唯一共通しているのは「肉挽き機」である。
これはもう、ネーミングだけで、充分。
ストーリーや設定以外にも、こうした「小道具」が、本作の魅力の一部となっている。
放射能の影響を受けて生まれた「レッド」の娘の描き方に関しても、映画版と小説版では大きく異なっている。
映 画版では、よく観ると冒頭とラストシーン両方で登場しており、放射能の影響で心身に影響を受けたことが示されているが、小説版ではかなりあいまいにするこ とによって、得体の知れなさを表現しており、たとえば、娘に対して「もう人間じゃない」(212ページ)と医者が診断したという説明がある。
また、「ストーカー」が「ゾーン」に行く目的が、映画版の方が狭くなっている。
小説版では、異星人の残した「ゴミ」に、いろいろな名前が付けられており、ストーカーはその「ゴミ」を拾いに「ゾーン」に入る。
「ゴ ミ」とは、たとえば、「コロイドの気体」である「魔女のジェリー」、かなり重たく一人では運ぶことのできない「空缶」(46ページ)、生命過程の刺激を与 える「ブレスレット」、玉に光線をあてると光を反射する「黒い飛沫」、「ゼンマイ仕掛けの小熊の玩具」である「族烏のディック」、生物ロボット「ゾン ビー」など、さまざまな名称が次々と登場する。
武器のような役目を果たしたり、奇妙な効果があるものもあるが、いずれにせよ、それらのもつ意味は充分には理解されていない。
これらをみると、地球外の文明というものを想定せざるをえない。
そして、これらの「ゴミ」は高く売れる。
これらの「ゴミ」を「ゾーン」の外部に持ち出すとき、人間もそうだが、必ず消毒(除染)する。
一方、映画版では、そうした「ゴミ」は登場せず、「ゾーン」に行く目的は、「何でも願いがかなう」ということに収斂させている。
誰もが自分の願いがかなえられる「願望機」もしくは黄金のタマ」というものがあるが、これが映画版では、「ゾーン」のなかにあるとある建物の「部屋」に入る、ということに転じられている。
・・・以上のように、映画版は、「原発」と「放射能」そしてその影響としての心身の変化は密接に関連していたが、小説版は、強いて言えば、「原発」のかわりに「未知の放射性物質」が原因とされているという違いがある。
その結果、小説版が純粋な意味での「SF」であるのに対して、映画版はある種の「リアリティ」に支えられているという意味では「ホラー」となっているという違いがあるように感じられた。
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