5-8 普遍的な価値観 | のこしたいもの

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農耕牧畜生活が人類にもたらした変化は、次の3点に集約されます。

①   集団間の交流が活発化し、集団をより大きくしてゆきました。

②   集団の統合は、分散していた人々に共通した普遍的な価値観を植え付けました。

③   新たな価値観を満たす名誉や地位、金銀財宝など食料以外の有形無形のものが、人々が求めてやまないものになり、【欲望】が顕現しました。

人類は、それらを基盤にして戦争が出来る集団としての体力をつくったことになります。

 

戦争には、宗教(信仰ではなく)が大きな比重を占めている場合が多くあります。
ほとんどすべての宗教は。
一方では生きる活力となっている欲望には善・悪を含めて多種多様な形があり、欲望の実現を目指す生き方が社会に混乱を起こさせないように人々の道徳・倫理観に訴えます。教えに従った生き方をすれば現世での行いを清算して極楽で生まれ変われるが、教えに背くと地獄に落ちると説きます。
他方では、「生きろ!」という心の命令に従った生き方が、その時代の悪政から多くの人々を救うものであっても、彼らが敵を殺し、盗み・嘘をつくことを原則的に勧めません。

争いや戦争の原因は「気の命令」を実行する生き方を数多く作ってしまった農耕牧畜を開始した事にあります。宗教は、社会の現状を作った原因を問わないで、善人・悪人を問わず全ての人々に「幸せに生きてゆける」社会を目指すように仕向けているように思えます。
 

来世とか地獄・極楽などといった実体のないものに幸せな生き方を求める宗教の教えも、文明人が持つ虚像と錯覚の表れの人類つかもしれません。
宗教は「私有財産と階級分化」が生み出した貧困と差別を教義・経典がどう解釈しているのかを説きます。そして、解釈の違いが宗教間、教派間と信者達の争いの原因となっているのが現状のよう思えます。
そう考えると、宗教の目指すところは「教え」を広め信者を増やしたい、という欲望の産物とみることも出来そうです。
宗教者の生き方も気の命令を実行する方法の人類つなのでしょう。


例えば、特定の神を唯一神として崇めるキリスト教・ユダヤ教世界とイスラム教世界との間で行われ続けている戦争があります。宗教者が施政者と社会の支配者層になる、あるいは支配層に留まるために民衆の力を利用し合った結果とみることも出来るように思います。宗教・宗派間の争いも、宗教者の価値観に基づく欲望の表れとも考えられます。

 

結局のところ、様々な宗教が説く人間の生き方も「人間社会の中でしか通用しない欲望」を支えている価値観の表れの人類つ、かもしれません。
宗教とて突き詰めてゆけば、根本的なところで社会を支配する支配者層の思いと合致するところがあるのかもしれません。

 

欲望対象が人々の思いと行動に大きな意味を持つには、社会が「食」の束縛から解放されて様々な価値観をもてる状況になければなりません。
欲望の対象は、社会が大きくなるほど、地球に働く引力のような普遍的価値と意味をもたせるものでなければなりません。そうでないと、その欲望対象物は人々の心に長く留まり続けることが出来ません。

農耕牧畜がもたらした「生を鼓舞する生き方」は必然的に人間集団を、小さく分散しているのではなく、大きな広がりと一体感を持ったものとせざるを得なかったのです。
それが人々が戦争を伴った集団の統合をくり返し巨大化してきた根本的な理由だと思います。

 

農耕牧畜生活を出発点として、敵を「捕食対象であった人類以外の生物」から同じ仲間にしてしまったのが人類なのでしょう。
 

大人の心の実態 「赤ん坊の心」が全ての人間にとって同じであっても「脳」は様々な「大人の心」を紡ぎだし、人々が育つ環境にあわせて気の命令を社会の実態に合わせて翻訳してゆきます。必然的に「生きろ!」という気の命令は、多様な社会条件下で生きる人達の心の黒子(くろこ)となって様々な形で実践されます。それが全ての人間に対して同じであっても、「大人の心」は人それぞれという事です。
極論すれば「他人の事は別にして生きればいい」というのが「大人の心」でしょう。
気の命令を翻訳する脳が回りまわって、命令を翻訳しないで実行しているようなものです。食い殺しはしなくても邪魔者を殺すことに躊躇しません。

※気は全生物が共通して持っているもので、心は生物種ごとの独自性に合わせたものです。そこに翻訳という言葉をあてはめています。

 

個人同士の争いや戦争で人を殺すことができるのは何故でしょうか。
全ての人間の心の核になっているのが「赤ん坊の心」です。繰り返される集団の統合は、人々に、それまでと違った思いと生き方を強要することも多くあるでしょう。「大人の心」は人それぞれなのだから、「気の命令」を忠実に実行していても人を殺す行為が出てくることもある、ということです。
自分の行動を妨げる人々がいたとしても、多くの場合、彼らの行動は、育った社会で認められた生き方をしているはずです。そうすることが彼らにとっては自然な行動なのでしょう。生まれ育った時代と社会の数だけ人々の思いが出来上がっているのだから、お互いが自分の生き方の邪魔をしている存在となるのもも当然のことです。
「赤ん坊の心」が「大人の心」の裏にかくされてしまっているのだと思います。

生き方を模索し実行しようとするのは自分も他人も同じです。それぞれの「大人の心」は違った社会環境で出来あがっているのですから、お互いの生き方が対立することがあっても当然の事です。

 

人を殺しても食べないのは何故か 社会で普通の生き方をしている人々の心には、殺し合うような争いをしても、食料が無くなって飢え死にするような状況でない限り相手を食い殺すということは絶対にありません。生物個体には共食いしないということが鉄則としてあるように思います。第四章「生物」で生物の目的は動くこと(生きること)としています。生物は、共食いしないことを鉄則としていても、それは食料があってのこと。餓死に瀕した場合生きることがこの鉄則より優先されると思います。

 

人々がケンカや戦争をして人を殺すのは、生き方を実行する方法が数多く出来てしまったからであり、相手を殺して食料にするためではないでしょう。

仲間を殺しても食わないのは、食料がないからではなく「生き続けよう」とする本能が食料獲得の戦略として人類の「集団性」に裏付けられているからだと思います。
生物が極限の状態に追い詰められたら「集団の生き残り」よりも「個体の生き残り」の方が強い欲求になって表れるはずだと思うのです。

 

狩猟採集時代、例えば食えない状態が続いたら、生物は生きるために行動するのだから他の生物種を捕食しようとするでしょう。でも、捕食できないこともあるはずです。そんな時に生物個体は死ぬ前に「可能性がある限り生きたい」という欲求が集団性を上回り、共食いは起こると思います。

農耕牧畜の時代になっても、食物がない状態に置かれれば狩猟採集時代と同じで共食いすると思います。とは言っても、共食いした後、食うものが無くなればその生物種は死滅するしかありません。


農耕牧畜を始めて食料を自前で生産するようになった人類、個々の人間は捕食行動をする必要がありません。多くの場合、人々が殺しあう行為は欲望のなせる業であって、食い殺すのが目的ではないでしょう。人殺しは社会に食い物が全くなくなって、飢えて死んでしまわないために取る行為ではないはずです。

※食われてしまえば死体という物にも戻らないので、間違っても報復されることはありません。その点も「殺すこと」と「捕食すること」とは根本的に違っている理由なのかもしれません。

 

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