仕事と休み、その他の活動について、
人々が持っている感覚や、
取り組む時のモードは様々。
オンとオフを明確に分けたい
人もいるだろうし、
切り替える感覚を
必要としない人もいるだろう。
あるいは、
常にオンの状態を続ける人の中には、
オフになってしまった時に
自分がどうなるのかわからなくて怖い、
という人もいると思う。
最近、とあるチームで
仕事の時に仮面をつけて立ち振る舞う必要はない
という話題の記事をシェアした。
そうすると、メンバーの一人から
「ちょうど、別のメンバーと、
『仕事では多少は演じることが必要』って
話していたんですよー!」と
コメントが!( *´艸`)
これは面白くなってきたぞ!
このままスルーしたり、
「いやいや、演じたら無理が生じます」って、
反論することもできるかもしれないけれど、
経験や思想など背景の違いについて
お互いの理解なしに
意見を押し付け合っても
建設的な話にはならない。
そこで、
「○○さんにとっての”演じる”ということを
もっと聞きたくなりました!」と
返事をすると、
出てくる出てくる!
あんな場面やこんな場面で
こんなことは許されないからこうする。
こう思われたくない、、、などなど。
だから演じるのだと。
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昔の正義主義の自分だったら正直、
うわぁ、これって、、、
本来の自分を認めていないことの表れで、
仕事をするのに、こんなに苦労していたら
いつまでたっても、仕事が楽しくならないよ。
そうすると、周りの人にも苦労を求めて、
苦しいことの循環が生まれてしまうよね。
なんて思ってしまっていたと思う。
けれど、今回は
その人がどんな気持ちで書いてくれたのだろう、
どんな気持ちでその人の言う「演じる」をしているのだろうと想像してみると、、、
なんて健気なんだろう。
と思えた。
ちょっと上から目線かもしれないけれど。
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仕事では、スイッチを入れて
演じているのだとしても、
本来の自分が、どこかにちゃんと
存在することができていれば、
少しずつ、居場所が広がってくのかもしれない、とも思えた。
「演じている○○さんにも、
演じていない○○さんにも、
心地よい椅子(居場所)がありますように💛」
そうお伝えしてみて今思うのは、
演じることそのものが、
自分を拡張できる手段としても使えるのではないか。
(こんな自分もいるんだと気づく)
それに、演じているのがわかるということは、
演じていない自分も意識できる可能性が
あるということだとも言えるのではないか。
演じていることが悪いわけではない。
必要な場面で演じるのかもしれないけれど、
関係構築のどこかのタイミングで、
本来の自分同士で繋がることができればいい。
そんな組織やコミュニティーが
増えたらいい。