自分を演じる健気なLady | 花よりビール

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お花とビールに、みんなの笑顔があれば、それで幸せな日々。そして、そんな日々の幸せの中で感じたことを言葉にしてみようと……。自由気ままに綴るだけ。そんな日記。

仕事と休み、その他の活動について、

人々が持っている感覚や、

取り組む時のモードは様々。

 

オンとオフを明確に分けたい

人もいるだろうし、

切り替える感覚を

必要としない人もいるだろう。

 

あるいは、

常にオンの状態を続ける人の中には、

オフになってしまった時に

自分がどうなるのかわからなくて怖い、

という人もいると思う。

 

 

 

 

最近、とあるチームで

仕事の時に仮面をつけて立ち振る舞う必要はない

という話題の記事をシェアした。

 

そうすると、メンバーの一人から

「ちょうど、別のメンバーと、

『仕事では多少は演じることが必要』って

話していたんですよー!」と

コメントが!( *´艸`)

 

これは面白くなってきたぞ!

 

このままスルーしたり、

「いやいや、演じたら無理が生じます」って、

反論することもできるかもしれないけれど、

 

経験や思想など背景の違いについて

お互いの理解なしに

意見を押し付け合っても

建設的な話にはならない。

 

 

そこで、

「○○さんにとっての”演じる”ということを

もっと聞きたくなりました!」と

返事をすると、

 

 

出てくる出てくる!

あんな場面やこんな場面で

こんなことは許されないからこうする。

こう思われたくない、、、などなど。

 

だから演じるのだと。

 

 

昔の正義主義の自分だったら正直、

うわぁ、これって、、、

本来の自分を認めていないことの表れで、

仕事をするのに、こんなに苦労していたら

いつまでたっても、仕事が楽しくならないよ。

 

そうすると、周りの人にも苦労を求めて、

苦しいことの循環が生まれてしまうよね。

 

なんて思ってしまっていたと思う。

 

けれど、今回は

その人がどんな気持ちで書いてくれたのだろう、

どんな気持ちでその人の言う「演じる」をしているのだろうと想像してみると、、、

 

なんて健気なんだろう。

 

と思えた。

 

ちょっと上から目線かもしれないけれど。

 

 

仕事では、スイッチを入れて

演じているのだとしても、

本来の自分が、どこかにちゃんと

存在することができていれば、

 

少しずつ、居場所が広がってくのかもしれない、とも思えた。

 

 

「演じている○○さんにも、

演じていない○○さんにも、

心地よい椅子(居場所)がありますように💛」

 

 

そうお伝えしてみて今思うのは、

 

演じることそのものが、

自分を拡張できる手段としても使えるのではないか。

(こんな自分もいるんだと気づく)

 

それに、演じているのがわかるということは、

演じていない自分も意識できる可能性が

あるということだとも言えるのではないか。

 

 

演じていることが悪いわけではない。

 

必要な場面で演じるのかもしれないけれど、

 

関係構築のどこかのタイミングで、

本来の自分同士で繋がることができればいい。

 

 

そんな組織やコミュニティーが

増えたらいい。