おはようございます。テツジンです。

ご訪問、ありがとうございます。

昨日、投稿を休み、充電期間を設けさせていただきました。個人事業なので、定休日がなく、効率よくいろいろな仕事をこなしていくようにしています。

 

私事で恐縮ですが、私は中国籍の者で、24年前に留学しに日本にきました。教育学博士号を取得し、今、プロフィールに書いたように、翻訳、語学研修、公開講座の企画・運営に携わっています。

普段の生活と仕事を通して、常に「異文化」と「自文化」の関係性ついて考えています。

本日から、「越境する人と文化」のシリーズのほかに、「異文化理解」について、読書して得た感想を踏まえて、断続的に書いていきたいと思います。

本日は、主に参考するのは、日本ないし東アジアを代表する著名な文化人類学者青木保の『異文化理解』を参考して、筆を進みます。この本は、私が大学院修士課程の入試準備のために購入した本です。今は、よき「先生」であり、よき「友達」でもあります。大体、月に一回は手にとって読むようにしています。

 

 

青木 保(あおき たもつ、1938年10月30日 - )は、文化人類学者、元文化庁長官。大阪大学名誉教授、前国立新美術館館長などを歴任。学者のなかの学者です。なんと大学院生時代、タイのバンコクで半年間、僧修行も体験したユニークな方です。

その体験を基づいて、『タイの僧院にて』(中公文庫、1979年) を書き上げました。その他、興味深い本をたくさん、世に送り出しました。

そのうち、海外で翻訳出版した本もあります。

例えば、『異文化理解』という本が中国語に翻訳されています。

それでは、本日の本題に入ります。

日本人にとって「異文化」といえば、近隣のアジアの文化を指すことではなく、ヨーロッパやアメリカを指すことが多いようです。

青木(2001:190)は、「近隣国の中国や韓国を『異文化理解』の対象として正面から捉えるという視点を、近代日本は持つことができなかった」と述べています。

 

私も異文化理解は遠いところからではなく、身近いところから始める必要があると思います。その理由は、先挙げてきた二つの例で説明できたと思います。中国と韓国は日本と一衣帯水の国でありながら、日本の文化と言葉も生活習慣も大きく異なっています。日本・中国・韓国は相互依存しながら、一番摩擦が多い国同士でもあるため、相互の異文化を理解する必要があります。

 

青木(2001:191-192)によれば「中国語と日本語のひびきの違い、その美しさを互いに味わうことから、異文化理解を通してこの相互信頼への道が開かれるものと考えます。これは時間のかかる気長な努力をしなければならないことですが、教育も含め日本社会が全体として取り組む大きな課題だと思います。そうした『異文化理解』を通して、また『自文化』も見出され、日・中・韓のつながりの深さも認識されることになります。」

 

異文化理解にはいろいろな方法がありますが、異文化の理解から自文化の理解に至るという方法もありますし、また自文化を発見して異文化へ到達する、というやり方もあります。

 

青木(2001:190)は同書で、「多くの場合、世界の文化はどこかで互いに影響しあいながら形成されていますから、特にアジアのように歴史的に古い地域ではどこかでみな交渉しあっているはずです。そのとき自文化を発見するとは、異文化との交流を発見することにほかなりません」と述べています。

また青木(2001:193)によれば、「『自文化の発見』にはもう一つ、自文化と思っているものをもう一度異文化として捉え直すという意味もあります。シェークスピアの文章は若干のいいまわしや古い表現を除けば今のイギリスの中高生ならそのまま読めると言われていますが、日本語は違います。単語や文体や表記法、字体も様変りしましたが、日本の王朝時代の書物はもちろん、明治以前に書かれたものは、大人でもいまやなかなか読めないものになっています。それだけ違ってしまったのは、すでに一種の異文化と言っていいと思うのです。ひいては現在の日本文化についても誤った理解に到達する恐れがあります。

過去の書物の正確でかつ面白い読み方は、それらに対してきちんと異文化として対するところから始まるような気がします。同様に、日本の過去の文化全体に対しても、異文化理解という視点からもう一度見つめ直す必要があると思います。日本の古代や中世と現在では、言語や制度や基本的な文化要素もかなり違います。文章同様、過去と現在と安易に連続的なものとして捉えることは、自国の歴史や自文化についても正確な理解に達せられない部分があるのではないでしょうか」と述べています。

 

私は自文化と異文化は、相反するモノでなく、共通する分母をもっています。それはヒトの生き方という共通分母だと思います。外国の文化を研究するということは、必然的に自国の文化を含むことになり、また、自国の文化を理解するためには、それを映し出す鏡として外国文化を知ることが欠かせません。

 

参考文献

青木保(2001)『異文化理解』岩波新書