年が改まりましたが、みなさん、何処でどんな新年を迎えていらっしゃいますか。

今年は、北海道らしく、しんしんと雪が降り積もる中での年明けとなりましたが、穏かなお正月を過ごしています。

 

年末は、新しい出会いがあり、きっともう2度と会えだろうと思っていた人たちとの予想外の再会もあって、生きているといろんなことがあるものなのだなあという思いを噛み締めるような機会がいくつかありました。

時間というのものには、やはり不思議な作用がありますね。

 

予想外の再会と言えば、以前、私のカウンセリングを受けてくれていたMちゃんのことを記事にしたことがあったのですが。

その彼女が今回、カウンセリングの体験談を書いてくれました。

 

 

 

Mちゃんと再会したのは昨年春で、Mちゃんから突然連絡があり(ちょうど同じ頃に私も彼女のことを思い出していて、メールを書きかけていた時でした。シンクロ??)、会って数回お話をする機会がありました。

 

その時、Mちゃんと話をしながら、彼女から「暗い淵」が消えた訳ではないけれど、彼女の中にそれ以外の世界が存在することをはっきり感じて、どうしようもなく込み上げてくるものがありました。

 

Mちゃんが書いてくれているように、誰かに生きることを求め続けるということが、その人にとって、重い『足枷せ』にしかならないということは、やはりあったりするものです。

私が痛みや無力さを覚える度に、彼女はいっそう苦しんでいましたし、かと言って当然治ってあげることも出来ない訳で、当時は、そうやって、不変に感じられる時間がただただ過ぎていったように感じられていたかもしれません。

 

良いとか、悪いとか、そういうことでは括れない、それくらい、生きることがただただ重く、それだけで世界のすべてが埋め尽くされてしまうような時もあったり、それもまた生きることの一側面である場合もあったります。

 

 

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「暗い」状態の人を「明るく」しようだとか、「ネガティブ」より「ポジティブ」であるべきだとか、「頑固」なのは良くないから「柔軟」になるべきだとか、そういうゴールにすべき理想的な人間像が私にはあった。


私は、ネガディブで泣き虫、人の顔色を伺うくせに妙な頑固さをもつ子どもだった。

そして、そんな自分に対し、「こんな自分はダメだ、変わらなくてはいけない」と思っていた。

「変わらなくてはいけない」は、つまり現状の否定であり、「私なんて存在しなければよかったのに」という思いにしばしば変換された。

なんの不足もない家庭に育ったにもかかわらず、物心ついたときには、「死にたい」と思っていた。


先生との出会いは、十年以上前になる。

死にたい気持ちを抱え、「変わる」ということが数字ですぐに表れるダイエットにのめり込み、摂食障害の真っ只中にいた高校生の頃である。
学校に行けなくなり、担任のすすめで心療内科に行き、主治医となったその病院の医師にカウンセリングをしてみたいと自ら告げ、たどり着いたのが先生のもとだった。

カウンセリングが何のかもよくわからないまま、それでも「分かってほしい、伝えたい」という思いが当時の私にはあった。


結論からいうと、当時のその思いは達成されなかった。

私は「分かってもらえない」「伝わらない」という思いを深めるばかりだった。

 

当時の私は、死の淵の本当にギリギリのところにいて、先生に怒られることもあったし、先生を泣かせることもあった。

母親を何度も泣かせたし、私自身の身体はボロボロでほぼ毎日泣いていた。

三日間ベッドから起き上がれないというようなこともよくあった。

この日々を描写すると一万字を超えてしまうので割愛するが、今も私の願いと希望はこの年齢の自分にある。

私は、この年齢の頃に感じたこと、大切にすると決めたことを言葉にするため、理解するためにその後の道を進んでいった。


さて、生きながらえてしまった私は、その後、美術系の高校から流れで美術系短期大学に進学し、四年制大学の人文学部に編入した。さらにそののち、大学院に「入院」し、長い時間をかけて博士号を取得することになる。

これらの選択はすべて自分で行ってきた。
 

両親にも、先生にも、ほとんどのことを決定稿で伝えてきた。

自分で決めたことは曲げられない頑固ちゃんは、なんだかんだたくましく死の淵を歩いてきてしまった。
 

先生のもとには、頻度はまちまちだったが博士号を取るまで通っていた。

私は正直、先生に何かを変えてもらったとか、そういうことを感じていない。

先生は私にとって、「生きていてくれたらうれしい」と言ってくれる人のうちのひとりで、死のうとしているときには足枷のひとつだった(自分でカウンセリングしたいと言っておいて、不義理な奴だ)。


私は、ネガディブで泣き虫、人の顔色を伺うくせに妙な頑固さをもつ子どものまま、ただ生きながらえ、社会が分類する「大人」になったのだった。

死にたい気持ちも、強迫的な思考も、外見内面ふくむ自己認知の歪みも、治っちゃいない。
 

生きてしまい、たどり着いたのは、しかし、ここで、この現状だ。

 

つまり、私は治らないままで生きているのである。

 

視点を変えれば、私は、何かを治さなくていいし、そのままで存在してよいのだろうということだ。

理想的な人間に変わらなければ生きていてはいけない、なんていうことはないのだ。

自分への厳しさは、ときに他者への抑圧となり、不寛容な社会を作る要素にさえなってしまう。

これは私の専門とする学問領域に触れ、私になりに「そうなのだろう」と導き出した結果である。
 

そして、変わらないまま生きている私を、後方から見ていたのが先生だった。
私は、何かしらの感動物語にカウンセリングを収束させねばならないと思っていた。

ゴールは、「先生のおかげで私、変わったの!」「生きるって素敵!」と感謝を告げる、健康的で明るくポジティブな人間。

クライエントとして、病を有する者として、それを求められているのだと十数年前は決め込んでいた。
 

そんなこと、求められていなかったのだとやっとわかった。
 

博士号を取得して以降、ひとりで歩いてやるぞという気持ちが強くなり、先生には一年半ほど連絡していなかったが、今年の2月頃に思い出したようにメールをした。

断片的に私のことを知る人との付き合いが増えてゆく中で、長期的なスパンで私を見守ってくれていた人に近況を伝えたくなるものらしい。

「大丈夫です!」と走り続けてしまうからこそ、調子が悪いときを知っている人がいてくれることが、なんとなく心強い。
 

世にいうポスドク問題の当事者となり、お金もなく、人間関係もごたごたで、死にたさを抱えたまま、相変わらずスマートに生きられない。

けれど、まぁそれでいいのだろうと思う。

そうすることしかできないのだし、これが私なのだから。

そのままでいたとしても「生きていてくれたらうれしい」と言ってくれる人がいるということは、生きている理由のひとつになるのではないだろうか。


だから私は、無責任に言う。あなたがあなたのまま生きていてくれたたらうれしいと。

 

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私は、カウンセラーと名乗っているけれど、彼女にとって適切な?治療者であることはついぞありませんでした。

生きる手本となることなどもちろん出来るはずもなく、彼女に重荷から自由になっていいよと許すことも出来ないままに(それが治療者として正しいことであると、専門家から諭されたことも何度かあります)、思い返すと、無力で冴えない大人の代表のようにして、おろおろと、ただただ彼女のそばに存在していました。

 

それはとても無責任なことかもしれないけれど。

でも、あなたがあなたのままで生きてくれていたら、私はそれがうれしくて。

それを迷ったことだけはただの一度もなかったと思っている。