カウンセラーという仕事についていると、親の宗教で悩む子どもと会うことは多々あります。
そもそも宗教とはなんでしょう。本来は、人を癒したり支えたりするものであるはずです。
でも日本では「宗教、恐いよね」というセリフをよく聞きます。
逆に外国への修学旅行等で、先生たちは「無宗教と書いてはいけない」と指導します。「無宗教」であるとは、自分が拠って立つものがない、倫理の無い人と思われ、極端な場合は強制送還されることもあるとか。
日本の宗教観は独特であることが分かります。
といっても、お坊さんや牧師さんが「恐い」と思われることはなく、「宗教、恐い」は大抵、いわゆる新宗教と呼ばれるものです。
こうした新宗教に入信するのは、家族全員とは限りません。家族のだれか(大抵、妻)が入信し、それに引きずられて他の成員も入るか、あるいは家族抗争になるか。
子どもも、親の信仰儀式に連れられ、若年層用の集まりに入り、活動している場合もあれば、親の宗教を知らされていない場合もあります。
思春期になり、宗教2世の子どもたちは、どうも自分の置かれている環境は、他の家庭とは違うようだということに気づいてきます。一番の問題は、これを他の人と共有できないことです。なんとなく、言ってはいけないことが分かっているのです。
言えない秘密を抱えることは、人を孤独にし、孤立させます。宗教は人の根源に関わるようなものですから、ここをまるで悪いことをしたかのように秘密にしなくてはならないのは、大きな負担です。
また家族の中でお母さんだけが入信していると、母親不信になったり、ネグレクト(十分な養育を受けられない)になったりします。
以前は、新宗教のターゲットは40代、50代の主婦層でした。子どもの不登校やひきこもり、親の介護など、家族の問題に悩み、それを一人で抱えて苦しんでいる人たちが入信しやすかったのです。
でも今は、大学生がターゲットになっています。サークル活動を隠れ蓑にし、いつのまにか宗教活動へと移行されてしまいます。
カウンセラーとしては、つらいとき、苦しいとき、訪ねていくのがカウンセラーではなく、こうした宗教であることに、残念さを禁じえません。スピリチュアルなものが、癒しになることは否定しませんし、カウンセリングよりもそちらの方が役立つことがあることも承知しています。
悩める時に、何を求めるのか。主体的に求め、判断することが大事です。カウンセリングの目的は主体性の回復です。主体性を奪われるようなものであれば、それは危険なのです。