劣等感の本当の意味は。
劣等感という言葉を作ったのはアルフレッド・アドラーという心理学者です。今の日本語では本来の意味と離れた意味でつかわれています!!
その後この言葉は袂を分かったフロイト派など心理学の他派でも多用されました。それほど人間の本性を理解したり、分析したりするのに便利な概念だったのでしょう。
ところで、現代の日本で一般的に使われている「劣等感」という言葉のニュアンスが、当初アドラーが使っていた意味とかなりかけ離れていると言うことを知っている人は少ないようです。
たとえば、アドラー心理学ではある障害(劣等性)について劣等感を持っていること自体は何ら問題がないと考えます。
それどころか、劣等感は日々の生活の、そして自分の目的を達成していく上での欠くことのできない推進力だと考えています。
つまり、アドラー心理学では 劣等感を忌諱しないのです。
「劣等感は宝物だ!」とさえ思っているのです。
私たちは生活していく中で、ある種の願望というか目標を持ちます。
たとえば、子どもは
「もっといろんなことが出来るようになりたい!」とか
「もっと体が大きくなりたい!」とか、
女の子だったら「もっとかわいく女の子らしくなりたい!」とか
男の子だったら「もっと強くなりたい!」という目標を持つのです。
人間はみんな、思いっきり抽象的に表現すれば「もっと幸せになりたい!」と常に思っているのです。つまり、現状には常にある種の欠乏感を持っていると言うことになります。
この欠乏感のことを劣等感というのです。
生きていたい、それも健康で満足した状態で生きていたいと願うことすら目標といえば目標です。
毎日の生活、朝歯を磨いたり、ご飯を食べたり、水分を摂取したり、ある人は足らない栄養素をサプリメントでとったり、日常のありふれた行動の一つ一つが全てある種の欠乏感があるからやるのですよね。
つまり、劣等感という欠乏感があるから私たちは毎日生活できているのです。
「劣等感をなくしたい!」なんてとんでもない。
だって、基礎的な劣等感がなくなったら、私たちは生きていくのさえどうでも良くなってしまうんですもの。
さらに言えば、「今の自分よりも未来の自分はよい状態でありたい!」というのは、まさしく劣等感のあるおかげですよね。
劣等感様々!
私たちは劣等感に感謝しなければなりません。
高度な劣等感のおかげで自己成長できるのですから。
じゃあ、なぜ日本では「劣等感」が悪い意味で使われてきたのでしょうか?
それは「劣等コンプレックス」のことを劣等感と勘違いしたからです。
前に述べましたように劣等感は生きていく推進力そのものです。
しかし、劣等感を適切な行動に結びつけることに失敗してしまって、「劣等感を克服する努力」を投げ出してしまうことがあります。
「どうせ、私はバカだから勉強なんかしたって一緒だよ。」といって勉強することを放棄する。
「私は足が悪いんだから。」と言って周囲の人に必要以上に依存する、甘える、自分でできることを増やして自立しようとしない。
病気でいることによる疾病利得(病気であると当然した方がいいいろんな家事とか仕事などを免除されたり、注目を受けることができること)に甘んじて健康になろうとは思わない。
このように「勉強が不得意」「足が悪い」「病気である」などの比較的劣等な部分をことさら強調し、振り回すことで、周囲に依存し、甘えて、自立することを避けようとしたり、共同体に貢献することを避けようとすることを、
アドラー心理学では「劣等コンプレックス」と呼んでいるのです。
この劣等コンプレックスのことを日本人は「劣等感」と呼んだり「コンプレックス」と呼んだりしているのです。
※ちなみに「コンプレックス」という言葉は「心的複合体」と訳されていますがユングが発見した、心的に非常にこんがらがっている部分のことを言います。
私たちは劣等感を建設的に克服していくことによって自分の目標を達成していきます。
ただし、克服の方向性が不適切な場合があります。
たとえば、劣等感をもとに「経済的にもっと豊かになりたい。」という目標を持ったとします。
ところが、その目標を達成するために反社会的な行動をとったらどうでしょうか?
たとえば、空き巣に入る。
強盗をする。
詐欺を働く。
振り込め詐欺を働く。
非常な問題があるし、たぶん「そんなことをして仮に経済的に豊かになっても幸せにはなれない。」でしょう。
なぜならば、アドラー心理学の考える幸せの条件である「貢献感」を高めるどころか、
社会に対してマイナスの貢献をすることによって卑屈な「寄生虫感」が高まるばかりだからです。
自分は卑劣な行動を通して社会からお金を簒奪しているのだという「寄生虫感」が高まると、不幸感が高まります。
いくら、経済的に豊かになっても一切幸せは訪れません。
そのことは、社会には一切貢献しない他のいろんな方法で、財産を殖やしても同じことです。
いくら経済的に潤っても、幸せとは無関係です。
「貢献感」を感じることはないからです。
もちろん、本業でお客様の利益=幸せを常に考えて営業を営むことで 支持されて儲けている人たちは幸せです。
逆に、本業で儲けていても、脱税をしたり、法律の範囲内と言いながら何か卑怯な手を使ったり、消費者に劣悪な商品をつかませたり、途上国の労働者の劣悪な労働環境を踏み台にしたりしていたら元も子もありません。
社会に貢献していることにはならないからです。
このように、「劣等感」を「悪用」するのは不幸に至る道です。