大層なタイトルを付けましたが、実際に私は生まれてから今まで同じものを食べたことはありません。ご飯、パン、お味噌汁、野菜にお肉、数えればキリがありませんが、とにかく同じものを食べたことはありません。

 

 同様に皆さんも同じものを食べたことはありません。言い換えれば、同じものを食べられないようになっています。あるレストランで出される、カレーライスは果てして「同じ」なのでしょうか?

 

確かに「同じ」の定義を変えれば如何様(いかよう)にもなり、私が言っていることが「そうか。」という同意を得られるものに成ることもあるし、「そうじゃない。」と同意を到底得られないものに成ることもあります。

 

 私の言う、「同じもの」というのは、同じメニューであっても、素材がそもそも違う、というところから端を発します。〇〇寿司で出されるネタ、例えばマグロを取ると、同じマグロは〇〇寿司で一年後に食べることができるでしょうか?

 

 答えは否。同じマグロを食べることはできません。極端な話ですが、切り身を一年後に残しておいたら、それはそれで口腔から大腸に至るまでの何処か、或(ある)いはその全てが大惨事に見舞われるのは、想像に難くないでしょう。

 

また、同じマグロは存在しません。人間に同じ人間が存在しないのと同様です。同じ海で獲れたマグロだと言っても、似ているかもしれませんが、全くの別な存在です。同じ家に住んでいる住人なら似ている程度のことはあるでしょうが、それでも親子や兄弟姉妹までで、全く同じ人間が存在するということはありません。

 

 これがわかってくると、食は瞬間の美学なのだと思えてきます。私自身、これを感じるに至った経緯は、寿司屋さんに行くようになってからです。「今日の〇〇は美味しいですよ。」というのは、確かにセールストークも入っているかと思います。しかし、「この前の〇〇が美味しかったので、また〇〇をください。」と言っても、同じ〇〇は出てきません。

 

 寿司の職人さんは、美味しいものを安定して出せる知識を持っています。良いものを卸してもらえるように、卸業者さんとの人間関係を密に保っているかもしれません。気分良く味わってもらえるように高級な器を用意しているかもしれませんし、安価でも凝った器を用意しているかもしれません。

 

そういった直接的なものもさることながら間接的なものも同様です。職人さんのコンディション如何で握られた寿司の味も変わります。何かプライベートで気になることがあれば、いつもの寿司じゃないかもしれません。

 

 寿司は手で握りますから、そのような漁の事情や職人さんのコンディションといった要因が如実に味に現れます。分かりやすかったので、寿司を例にしましたが、味の差というものは、料理するものが何であっても、そしてどうしても生まれます。

 

 笑い話ですが、とある会社で出されたお茶について、「今日のお茶はうまい!」と言ったことがありました。聞いてみると、その会社のお茶はボタン一つで出てくるサーバーのお茶でした。そうすると、正しくは「今日のお茶もうまい!」というふうになるのでしょうが、「今日のお茶”は”うまい!」と、そう感じたというのは、応接室にお茶を持ってきた受付の方が違ったということもあるでしょうし、そもそも私のコンディションも違うわけです。

 

 このように考えてみると、同じメニューの同じものを口にしていると一言で言っても、素材がそもそも違いますし、素材を料理する人も違います。そして食べる人の気分や空腹度合いも変わってくるとなれば、同じ味わいというものは、在りそうでないものになります。

 

 味は瞬間の美学、というのは、やはりいささか行き過ぎた表現かもしれません。しかし、多分どの料理人も味による瞬間の美学を日々探求し、お客様をもてなす準備を日々しているのだと考えれば、味による瞬間の美学を探求していきたいというのは、至極自然なことかもしれません。

(担当:会田)