「先生」 | 小田春人オフィシャルブログ「先人に学ぶ 産業と教育の復活」

「先生」

 議員諸公がお互いを呼びあうのに『先生』と敬称して言うのを私はいつも聞き苦しいと思う。
 特に、第三者のいる中で……特に自分らより年長の人もいるのに‥‥若い議員が敬語をもって先生、先生と呼びあうのは不遜にさえ感じられて愉快でないばかりか、ときに「こ奴、馬鹿か」とあきれる思いである。
 議員を呼ぶのに先生と敬称しては、すべての場合おかしいかと言えば、そんなことはない。
 年齢も高く、経歴も古く、世間的に尊敬されている政治家に対して、若い後輩政治家や一座する者たちが、先生と敬称をつけて呼ぶのは、見ていてむしろ奥ゆかしいし、そう呼ばれた政治家が、いよいよ謙虚に振る舞えば、先生という敬称の重さがさらに増して耳に響くし、心にしみる。
 どうして政治家を先生と呼ぶのだろうと親戚の中学生から聞かれたことがあった。
 彼はこう言うのである。
 「学校の先生や、お医者さまなら先生と言っておかしくないと思うけど、政治家や小父さんをよその人が先生と呼ぶのは何故でしょう、小父さんは何の先生なんですか」
 これには困った。
 「実は小父さんも先生と呼ばれることに不思議を感じているんだ。君の言うことは正しいと思うけれど、これには何か理由があるはずだから調べてみよう」
 そう答えていろいろな人に聞いたり、本を読んだりした。そして得た知識を次に披歴するが、これが定説と言えるかどうか、それはわからない。
 明治維新の革命は、それまでの士農工商の身分階級を根底から覆した。薩摩や長州の若い武士が同志となって活躍したのだが、同じく武士と言っても家老の伜もいれば、足軽の伜もいる。そこへ農工商の伜も加わるし、血の気の多い博徒なども加わった。
組織的な活躍をするのだから、自ら中心的人物がいなければ、効果的な行動ができない。そこで誰が見ても、この人が中心という人が自然に決まる。それが先生と呼ばれるようになったのだというのである。
 薩摩の西郷隆盛は、武士として軽輩だが、島津藩の若者の中で中心的存在だったので、西郷先生と呼ばれた。大久保利通は、ある一面では西郷を凌ぐものがあったが、先生としての存在ではなかった。
 長州の毛利藩で先生と呼ばれたのは、吉田松陰ただ一人である。高杉晋作も桂小五郎も松陰の弟子であって先生ではない。明治まで活躍した伊藤俊輔(博文)や山縣有朋は足軽から身を起こして位人臣を極めたが、少なくとも長州では先生、とその名に冠されることはなかった。
 政治家が、先生と尊称されるようになったのは、以上のような歴史的理由があるというのである。
 なるほど、それならわかる。
もしそうだとするなら、政治家なら誰でも彼でも、みんな先生ではおかしいのである。
 中央政界で、いま先生と尊称されておかしくない人は誰だろうと考えると、決して数多くはない。地方政界にも先生と言われる人があって少しもおかしくはない。
 しかし、誰でも彼でも先生では、これはおかしい。
特定の先輩には先生の上にもう一つ敬称をつけないとわかりにくくなる。
 だからといって、大先生では、尊敬された気は失せて、馬鹿にされているみたいで、そう呼ばれた人が怒り出すに違いない。
 前にも書いたが、これが定説であるか、どうか、それはわからない。
 でも、理が通っているので、このことをいつか若い議員諸君に教えてあげ、親戚の中学生にも手紙しようと思った。
 そこへ電話のベルが鳴ったので、私が受話器をとった。
 「鯨岡さんのお宅ですか」
 「はい、そうです」
 「先生ご在宅でしょうか?」
 私は、ちょっと戸惑った。でも答えないわけにはいかないので答えた。
 「私です。私が先生です」
 と言おうと思ったが、やめにして普通に答えて言った。
 「私です。私が鯨岡です」