速読したわけではないんだよ、ハニー。もちろん斜め読みしたわけでもありませんが、意表を突く意味でも、突然の更新です。
さて。
またしても、読んでしまったものしょうがないではないか、昨日明日といったのはまた明日だ。というと、これまた御不興を買いそうだし、いろんな意味も込めて、臨時にアップだ。コレがまた読後感想文だけは、読んだらその場で書いて揚げる、というルールになっては私もしんどいので、そこら辺は曖昧にしつつ、でも不満のある方は、ぜひ、このブログ へ行けばいいじゃないさぁ。
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ケンさんを追いかける、と決めたのは、実は意識的に、だった。本を読む、ということに疎かった私は、ある日突然、本を読む、という魅力にとりつかれ、でもどういうものを読んだらいいのだろう?と迷うのは、いつものこと。何か指針を持って、そこから枝葉を広げてゆく、という方法論は、実はおざなりになったゲームの話とも関わるので、覚えておくんだよ、ハニー。
そこで、ケンさんに目を付けて、この人の作品をどこまでも追いかけよう、と決めたのだ。つまり、私が好きな作家はケンさんです、と言いたかったのだ(笑)。好きなアーティストは?好きな漫画家は?好きな女優は?と同じレベルであるので、ケンさんには大変申し訳なく思っています。
何故、ケンさんだったのか?今となっては、良く覚えていません。タダ、それは二十歳になった直後だったような気がするので「ロックス」とか読んでいた後だった気がする。そして、そう決めた自分に強く自信を持ったというか、確信したのは「さよならの挨拶を」を読んだ時。こっからもう離れられなくなったのね。
とはいえ、昔は今みたいに新刊情報、とかって簡単に知ることも出来ず、そういうルートもあるにはあったんだろうけど、あくまでも私にとっては音楽の次だった。なので、現実は、時々離れるというか、そういえば最近読んでないよな、って感じで思い出したように本屋に探しに行ってみたり、という感じだったので、そのことに関してもケンさんにとっては良い読者ではないのをお詫びしておきたい。
新刊が出る度に購入し、古本屋を漁り、ブログを読み、あろう事か読後感想文までもひけらかそうとするようになったのは、ここ最近四、五年ほどのことではないだろうか。以前話した、STONESに託けてケンさんに会いに行ったよ、という頃は、HPのBBSにSTONESの情報を集めに行っていて、という感じでまだまだ、熱心な読者ではなかった。まぁ、実際に逢って、より深く、ケンさんを身近に感じた末に、今こうなった、というのもある。
前置きが長くなったが、ケンさんの著作は何でも読もう、やっぱり慣れているから読みやすいんだよね、という気持ちでいる中で、この作品というか、このエッセイというかは、鬼門。実は、避けていた一冊だったのね。
それは、正直に告白すると、私は文章を書く、ということには長らく親しんできた。今だから言いますが、幼い頃は新聞記者になりたかった。理由はちょっと歪なんだけど、それは置くとして、書くことは単純に好きだったから。小学生の頃は、友達とお話を原稿用紙に書くのが面白くて、良くそうやって遊んでいたし、その後も創作ノート的な、日記のような、そういうものを書き連ねていた。
まったくのしま♪さん黒歴史に入っているが、一度はあの天下の新風舎から自費出版をしたこともある。エレクラのテキストは必ず私が書いていたし、歌詞もそれ相応に書いている。
ただし、これらの過去は、一度全部捨ててしまった。エレクラ崩壊大騒動の時に、先日の「さくらの唄」の時に話したように、自分の中にある過去を象徴するものを、ほとんど捨ててしまったのね。その時にどうしても捨てられなかったのが、ケンさんの本なんだけど。
そしていろいろあって(笑)、そのいろいろあった経験をストーリーにすると共に、このブログを始めた。私にとって、言葉を連ねる、というのは、当たり前のことであり、たぶん、音楽よりも得意なことだと思っているのね。
その結果、なんとなく、自分の中で自分らしい文章が書けるようになって、それを意識するようになったのがこのブログを初めて一年ぐらい経った頃。私は、元来、たくさんのお嬢さんに、キャーキャー言われればお金なんていらないし、何ならキャーキャー言ってくれる人のためにつらい労働も難なくこなす、という趣旨の持ち主なので、コレはキャーキャー言われるに足る面白い自分が出来たぞ、というのは自信にもなり、結構嬉しかったのよ。
自分らしさ、に冠するのが、私の場合エレクラの称号で、いわばようやく私の中の表現のひとつにまで、自覚的に文章というものが昇華した、ってことなのね。
時々、語り口の話 なんかで、そういうことも言って来たつもりだけど、まぁつまりは書くことに関しては、ほっといてくれ、というのが私のスタンスで、確かに常識はずれだろうし、誰も面白いとは言ってくれないだろうし、人気もねーしお嬢さんにもキャーキャー言われないし、ということはわかっていても、あらためて文章教室なんて、という感じだったのね。
更に、それがケンさんの言葉だったりすると、何かを書いている時に、絶対に気にする。ああケンさんがこういうこと言っていたけど、こんなコトを書いていたら怒られるなぁ、嫌われるなぁ、なんて事を普通に思っちゃうのね。そういう迷いは、事実、表現にはやっかいなものでして。
まぁ、でも意を決して買うだけ買ってみた(笑)。読むのはずっと後でイイと思っていて、半ば封印していた。でも、先日読後感想文を話した「日曜日のiMac」に、小説の書き方、みたいなことが書かれてあったのね。それはこの本にも収録されていて、ケンさん自身でバージョン2.0だ、とおっしゃっている。
それがかろうじて、私を威圧するものではなくて、まぁエッセイとして読めるものだったのね。つまり、私と相反する所ではなく、こう言うと誠に不遜だけども、私が培ってきた表現というもの、それは音楽も含めてなんだけど、何かを伝えることの真実、と同じコトだったから、この本にチャレンジすることにしたのよ。流れ的にも、文学つながりということで。
それでもどこかに、もしかしたら、の怖さは残っていたんだけど、読み終えて、安心した。ある意味、私は間違ってない、とちょっと思った。ケンさんの最大の難関クリア、という感じかもしれない。
絵心がない私は、表現として主に音楽に寄り添ってきて、文章はそれとつかず離れず、でもどっちかというと意識的に音楽があって、無意識に言葉の表現がそれを補完する、という感じでずっといたのね。でも、今はどっちかというとこのブログに依存的な、かなり文章表現に特化した毎日を送っている。
それは、敢えて言葉の表現、というけど、それこそが一番ラディカルで、自由だと感じるからなのね。この自由は、規制がない、という意味ではなくて、また、映画や音楽やテレビに較べて、なんだけど。私は機能制限、というものが嫌いで、だからなるべく欲しいものは正規のものを買うようにしていて、どうでも良いものはテキトーに落とすようにしているのね。つまり、このソフトにはあらかじめ出来ないことがありますよ、というのが嫌いなのね。能力の限界が、既に決まっているのは、可能性として乏しい、とモチベーションが下がるからなのね。
音楽なんか特にそうだけど、西洋音楽は特にルールが多い。それはハズれた音、というのが存在するんだけど、間違ってはいないわけ。あっても良いけど、不快だとか、聴く人によっては許せない、ということなのね。そういう意味では、可能性は無限だけど、自由ではない。
それよりももっと、言葉の世界は、自由の尺度が広いし、それだけに他人を傷つけることもあれば、他人を癒すことも出来る。音楽で世界を変えることは難しいけど、言葉なら出来る気がする。そこら辺は、ケンさんとも意見が分かれる所だけど。
自分を表現するのに、どこかに制約があるのは仕方が無いと、大人になるとわかるもので、だったら可能性の大きい方がイイと思うのが人情。それが私には、音楽よりは文章、ということだと思うのね。ただ、表現自体の危うさも感じているけど、それはまた別の話なのね。
私の中で音楽は、やはり音楽でしか伝えられない部分があるし、なにより、文章で伝えることが出来た時の歓び以上に、あのギターソロを弾けた!という歓びの方がずっと巨大で、オシッコだだ漏れ、ぐらいの感動を得ることが出来るから。しかし、そういうのはなかなかやってこないもので。そしてやっぱり、信頼の置ける人間との共同作業、ということに繋がるのかな?
そういう意味では、このブログ、誰かと繋がる機能は備わっていても、繋がることを求めてはいない。私は少しそれを反省している。今年の半分は、お休み、という形を取ったけど、それは前にも言ったけど、怒りにのみ限定されたコンテンツは、刺激的で面白いのだろうけれど、どうもやっている自分自身が荒んでいくことに拍車がかかるような気がして、それで止めたのね。ほとぼりが冷めるまで、冷却期間をおいたのよ。そのトラブルは解決されたわけではないけど、私は落ち着いている。
それと関連して、再開に当たって、この休み中にないがしろにした、誰かと繋がる心、みたいなものを、反省して、ひとつ決めたのが、なるべくコメントを印そう、と思ったのね。別に、尊大なワシは、見る側でなく見られる側なのじゃ、という意識でコメントをしなかったわけではなく、私ごときがするコメントで、せっかくのブログの雰囲気を壊しては申し訳ない、と思っていたからなのよ、コレホントだよ。
それでは何か、申し訳ないというか、やっぱり好きなことは好き、と伝えた方がイイじゃないか、と思うのね。それで、なるべく、このブログにコメントしてくれた方には、相手には知らせずに読者登録をして、そしてなるべくコメントを返そうというか、それでもコメントし辛いブログもあるんだけど、アクセスアップにせめてもの貢献を、と思うのね。
ただ、前にもあったんだけど、私はどうも褒められるのは嫌いではないけど、苦手なのね。媚びを売られているというか、褒められるほど特別なことを言っているつもりもないし。だからといって誹謗中傷を望む、というわけではなく、それはもとよりご勘弁。
それよりはね、寄り添う感じ?
私のブログって、何故か奥様方に人気で、たぶん、ある程度自分の生活基盤というか、寄って立つ位置、というものが確立している中で、一服の清涼剤的な感覚?これからそういう家族、というものを据える方にはちょっと物足りないけど、ちょっと愚痴っぽいというか、そういうのは言うのも聞くのも楽しい人たちに、愛されているのかな?とか(笑)。
まぁ、それはどちらかというと、私の方から、誰かに寄り添っていけるような、そういうコメントを残せるようにしたい、ということなのね。私はともすれば、自分の宣伝で終始しがちなんだけど、ちゃんと記事を最後まで読んで(笑)、ちゃんと考えて、気を遣って、という当たり前に、誰かに寄り添っていけるブロガーになりたいな、と。
だから、そういうコメントを求めているし、そういうコメントを返したいと思う。そういうことを、最近ちょっと思ってる。
長くなったついでだから、たぶんここまで読む人はいないと思うので、最後にもっとヤボーをひけらかしておこう。ケンさんシリーズは、後一冊ポルシェ本があって、それで今回は終わるんだけど、前回の「ロドス」の時とは違って、ケンさんにはお知らせしてないのね。古本屋で買った、という負い目があり、更に最も重要なのは、まったく感想文になっていない、ということ。さらにはこの御時世で、原発容認派、というトンでもないことを言ってしまった手前もある。でも、酒の肴に、というと失礼だけど、こういうことを感じてまっせ、的なことを話してまっせ、的なことは伝わればいいな、と思うのね。
だから、誰か告げ口してくれないかなぁ、とか思う(笑)。こんな輩が、あなたの崇高な作品に、こんなこと言ってますよ、的な感じでもいいから。それでまた、ケンさんがオイオイ勘弁してくれよ、的なコメントとかしてくれれば嬉しいな、なんて。
つまりね、そういうハブ的な存在にこのブログがなるのが理想なのね。もちろん、私の文章なり、エレクラの音楽なりに感動してくれるのも嬉しいんだけど、私を踏み台に、ケンさんの反原発の話に共感したり、また一番嬉しいのは、私もブログを始めてみよう、音楽とかやってみよう、そして、一緒にやりましょう、的な感じが広がるのが理想だな。
表現というものは、誰でも可能だけど、そこから先を見据えるには、きっと、理想とか、自分の可能性とか、そういうものを本気で信じさせる能力にあると思う。為せば成る、ではないけど、それには夢やぶれても山河を駆けめぐるほどに、常に続けていないとね、と思う。
だって私だって、やり続けているんだからさ、ハニー。
なんてね、いつも以上に長い記事を最後まで読めたかなコレはちょっとした挑戦だぜ、って言ってみました。表現に関して言えば、もう一つ大きな課題があって、時々言っているけど、人か?作品か?という問題なのね。それは、今度一度じっくり、話してみたいと思うのよ。それに適したとても分厚い本を手に入れたので、ってコトで。
それでは今日はこの辺で、ごきげんよう。