またやってしまった。前回の投稿をして「ここからは頻繁にブログを」と思い日々の文章を書き始めたのだが、投稿せぬままに溜まってしまった。ヴィンテージになればなるほど気安く手を出しにくくなるのはワインも文章もそうだ。でも、かと言って廃棄もなんだ、と、リアルタイムで公開すれば「フレッシュだね」とちやほやされるはずだった文章たちを、「今更!?」と迫害が待っていそうな場に投げる。かわいそう。



生まれてきたからには「友達100人できるかな」と言うモチベーションはなんだかんだあるのだと思う。


実際問題、何人いるんだろう?友達。


現代人アーーーチストとしては「僕には友達なんかいない」というニヒルな雰囲気を醸し出したいところだけれど、残念なことに夥しい数いる気がする。友達であることを示す免状や証明書がある話ではないけれど、一方的にであれ、「このひとは友達」とすぐに思ってしまうところが自分にはある。小さい頃からそうな気がする。友達だと思っている仕事の相手に馴れ馴れしくして「友達かよ」と言われてガーンとなったこともある。

 

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初めて出会うひとのプロフィールはインターネットで調べすぎないようにしてる。会話しながら知っていくのが幸せだから。今回は座組が大きくて、稽古も、有能な演出助手により無駄のない分散稽古が組まれてた。さらには、感染症予防もしっかりしていて、マスク着用稽古!飲み会禁止!であった。とても理にかなった素晴らしい現場だったけれど、共演者との交流をもっとしたかったと、座組が解散する直前のいま、思ってはいたりする。

 

これは昨今おぼんろであっても決して変わらぬ事実で、現場中、仲間たちとぐだぐだ語らう時間というのはほとんどない。学生時代のように、やたらとお酒を飲んだりする非効率極まりない演劇活動が懐かしく感じもするけれど、そんなことしてる場合じゃないのも事実だ。創りあげたいもののクオリティが上がってしまったが故に、暇さえあれば準備に費やしたくなってしまった。

 

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2月1日

劇場入り。草月ホールの場所がうろ覚えで間違ってカナダ大使館に入って「楽屋口どこですか?」と聞いて警備の人たちに警戒された。

 

結構ちゃんと、警棒のようなものチラチラ見せつけられ怖いくらいに警戒されて、「あー、今回の共演者のみんな、そんなに人気なのか」などと思ってた。



劇場入りの翌日から本番という強行気味なスケジュールだが、場当たりが全て終わった。演出助手の青地洋とがとてもがんばってくれた。洋は、数年前にポップンマッシュルームチキン野郎という劇団にゲスト出演したときに会って以来の再会。嬉しい。どんな哀しみも、喉元過ぎさせて熱さを温もりと言い換えて大切にする僕らのたくましさに感謝する。ポップンでの思い出を、自分は一生大切にしていくと思ってる。


2月4日

千穐楽。伝えたいことは作品で伝えたように思うので無粋な追記は避けたいと思いつつ。参加してよかった。答えがわからないという答えがわかってしまった後の時代に生まれた僕らは、間違っているかもしれない戦いを恐れてる。考えないことの方が潔く美しいかとも思う。間違った戦いが人を傷つけるかもしれないことも知っているから。信じるものを信じたい。そして間違いたくない。そうビクビクしながらも、守るべきものを守るために命をかけていたい。そこに危険が潜む。物語という凶器を振り回す職業の自分たちにとって、目を背けてはいけない堂々巡りな問い。



出会いに感謝。ひとつの共演が永遠の縁になることもある。大切にしていきたい。



打ち合わせのときに、会社に呼ばれることが増えた。のだけど、こんなとき気になるのが、恥ずかしいんだけど「飲み物出るのかなあ」てことだ。極めて控えめな集中力しか所持していない自覚はあって、座って話し合うのがそれなりにちゃんと苦手で、落ち着かないからいろいろと飲んだりしてしまいがちだ。なので、コーヒーやお茶及び炭酸水を携えていたいのだけど、これらを用意してくださっていることがよくある。そんなときは買ってきたものをサッとカバンに隠す。でも、用意されてるだろうと思って買っていかないでいくと、用意されていないこともある。まさか「飲み物出ますか?」と先に聞くわけにもいかない。「ミーティング※飲み物付き!」と書いてあるといいなぁ、書いてたら変でおもしろいなあ、なんて思いながらミーティングに向かうなう。

 

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母に、「木綿豆腐を買ってこい」

と言われた。

木綿ね?

木綿よ。

おーけー、木綿。

 

5分後、絹を買ってしまった。

 

わからないだろうか。

耳で聞くと、木綿のほうが「ざらざらしてそう」とちゃんと思うのだ。

 

だけど、スーパーの棚には

「もめん」「絹ごし」

 

とおいてある。なんとなく、「もめん」のほうがツルツルしている気がしてしまうんだ。

 

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削除されるためだけに送られてくるダイレクトメールたちのかなしさによりそいたい。


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壊れかけた古い自転車を自転車屋に持って行き「捨てるのは悲しいからどうしても直して欲しい」と言って、叱られたことがある。もう限界を越えてるものを無理矢理長引かせる方が残酷で可哀想なことだ、と。そのときは自転車屋のおじさんにムカッ腹をたてて泣いたけど、でもなんかわかってもいる。


物や命、活動、人との関係、どんなに尊きものにも、与えられた時間があり、終わりがある。そこに生まれるのは、別れだ。すべてのものは変化していくし、そうあるべきだ。とすれば、いつまでも同じ世界にいれないのは当たり前のこと。しっかり悲しみながらも、不幸ではない感情で受け入れられるようでいたい。受け入れられないものを受け入れられるようになるために、物語を創っていくのだと思う。それは、鉛筆で曖昧にデッサンの線を描き倒して、どうにか正しい清書すべき正しい一本を探ろうとするのに似てる。


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チクッた奴がボコされる世界なんて嫌だ。中学校じゃないんだから。人間誰しも後ろめたいこととか、自分だけの秘密にしておきたいことはたくさんあるし、あっても仕方ないとは思う。でも、「世間様に恥ずかしいことはするんじゃないよ」という昭和っぽい言葉はなるほど然りで、人の口に戸は立てられない。「神様」とか「極楽浄土」という制度はそういう意味でじょうずに機能していたのでしょうね。神様なんてとっくに死んじゃったこの国で、僕たちはどう生きてくか。自分なりの神様にすこしは緊張しながら生きていたい。汚いところがあっても人間だもの、なんて開き直りはどうかしないでいれたらいいな、と、ちゃんと汚いところがある身としてそう思う。


執筆とトレーニングと打ち合わせに明け暮れてる。


三國志のために改めて明治座の下見に行ったり、台本も、改稿、改稿。スタッフやプロデューサーとの打ち合わせも重ねる。二千年前の中国という、時代も地理も離れた場所に思いを馳せるのは不思議。三國志にまつわる研究ってまだまだ現在進行形で、いまだに新たな遺跡が見つかってしまったりしているそう。だけど、当時の人の心だけはやっぱり、永遠にわかんないのが不思議。なにか書物があったとしても、それが本人の嘘じゃない心なのかはわからない。だってきっと、本人だって自分の本心なんてわからない。そう思うと、いま僕やあなたの中にある気持ちや心っていうのは本当に、いまここにしかないんだな。数千年後のひとには想像もできない自分であると思いながら、数千年前のひとびとの心の中を勝手に想像する。

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おぼんろ第24回本公演も情報をいよいよ色々と解禁する。とてもやりたいと思える物語を考えることができていて、まだ劇団員にも話していないのだけど話すのが楽しみ。絶対にウケなさそうな、美しくともなんともない世界に僕らはどう目を凝らせるのだろうかと、怒られるかもと思いながら心を決めた。初めましての出演者にも会ってきた。よかった。公演のテーマカラーも決めてみた。


良き時間を過ごせますように。

なんであれ、あなたの幸せを願っています。

ほんとだよ。