1月13日。父が逝った。
75歳だった。
1月18日に葬儀を済ませひと段落した。

体調が急降下した1ヶ月半ほど、怒涛の体験をした。
中国に行き何日も過ごし、医療用ジェットで日本に運び、そして葬式まで普通では体験できないようなことが本当に色々あった。




中国での糖尿病の血液検査で膵臓がんの疑いがあると言われた。そこで検査のため日本の国立病院の人間ドックで膵臓がんのステージ4が発覚したのが2年前。
10月ごろだったと思う。
その時に今年不幸なことになっても驚かないと医者に言われていた。
それでも父は仕事を辞めず、医師にこのまま死ぬまで働き中国で死ぬのだと言っていた。
確かに仕事を取り上げていたら張り合いをなくし2年も持たずに死んでいたかもしれないと今になっては思う。
父は身体に管を繋いだりすることにとても抵抗があるようだった。昔から何かあってもチューブにつながっての延命治療はやめてくれと言っていた。抗ガン剤で一番効果が期待できる治療法として血管に薬剤注入口を付けてそこから定期的に抗ガン剤を投与する方法が良いだろうと言われたがそれを断固として拒否し、2番目に効果があるという点滴での抗ガン剤を選択した。身体に何か付けて数ヶ月寿命が延びても仕方がないと言った。

すぐに生えてきたが抗ガン剤で髪の毛が一時的に抜けた。この時期嫌がらせのようにわかりやすいフサフサの医療用のヅラを付けていた。お客様も気がついていたがまあ、誰も言えなかった(笑)。

昨年の8月、一時は効果があったがいずれ効かなくなると言われていた抗ガン剤の効果が無くなり、医師にこれ以上の積極的な治療法はないと言われた。あとは痛みが出たら痛み止めなど対処するしかないと。
10月にはがんの勢いが増していて今年はなんとかなるだろうが春は甚だ怪しく、夏まで生きていればたいしたものと具体的な死期の宣告をされた。
今は元気に見えるがそのうち痛みが出たり腹水が溜まりだすだろうと言われていた。
もう治療をしないと突き放すとは何事かと怒っていた。中国の医師はがんに関係する症状で目が見えにくくなったりしていたと診断したが、これを日本では目はがんと関係ないと検査もしなかったことに腹を立てていたのもありこの病院はもう嫌だと言っていた。

死期の宣告をされた時に父は本当にまだ元気があり、本人はそう言われても実感がきっとなかったのだと思う。
私がそれを受けて再び「もう仕事を辞めて日本に戻れ」と話をしても激怒して断固として拒否をした。
死ぬまで働く。中国で死ぬのだとまで言った。
樹木希林さんや沖縄の翁長県知事や野球の星野仙一さんのようについこないだまでテレビに出ていたのにあっという間に死んでしまう、がんの末期とはそういうものだという話をしたりもしたが聞かなかった。
それでも受け入れがたいが本人的にもそろそろというのは認めなければならないと思ったのかいろいろ整理を始めたりもしてはいたが。

父の体調は11月の下旬から急降下した。きっかけはがんとは関係のない腸閉塞だった。これで食べ物が食べられなくなり、体力が落ちた。体重も激減した。この時父を見てもう死んでしまうのではないかと思った。回復すべく中国で手術をした。手術の際、最悪の場合は人工肛門を付けて排泄できるようにするという説明を受けたが父はそれにまたも断固として拒否をしてサインをしなかった。仕方なくその選択はしないということで手術をした。手術室に運ぶ途中で新生児室前を通った。死が迫っているであろう父との「命の交代」というのを感じた。
父は今回に限らず病気をしたり入院をしても中国のスタッフに誰にも言うな、家族にも言うなと指示を出していた。しかしながら今回流石にヤバそうだと思ったスタッフから日本にいる私に連絡があった。中国の病室に駆けつけた私になんでくるのだと文句を言った。手術は成功し、これで物が食べられるようになって一時的に回復するはずだった。さすがに父も限界を感じ、一時的に回復したら会社を整理して退任する決意を決めていたようだった。私も手術に立ち会い、ガスも出たので無事に内臓が動いているということで帰国した。しかしそれから数日腹水が溜まりはじめた。がんが勢いを増した。

私と入れ替わりに妹が中国に行ったが日に日に弱っていると報告があった。この間父から電話があり、後述するが数ヶ月前に全て香港と中国の会社から除名したはずの私に会社を引き継げ。話する力がもうないが言いたいのはそれだけだと一方的に話して切る電話があった。

その後家庭の都合もあり数日帰国した妹と母を連れ12月20日ごろ中国に行くことにした。その気配を察知した父はまたもや絶対に来るなと言った。もうこの頃は11月末から食事をしていないので体力が落ち携帯電話を触るのも話すのも苦しい状態になっていたがそれでも離陸寸前や飛行中にもキャンセルしろと電話やメールをよこしていた。
もう骨と皮になっていた父はそれでも病室に駆けつけた家族に来るなと言っただろうともう声にならない声で言った。

すでに自力で立ち上がることはできず、声を出すことも目を開くことも辛いほど体力が落ちていた。
そしてクリスマスの頃、ついに具体的に自分の最後を認めたのか急に日本に帰りたい。大学時代からの友達に会いたいと言った。
すでに中国の医師からはいつ死んでもおかしくないと言われていた。慌ててドクターを付けてのストレッチャーでの日本への移送を検討した。初めは一般航空機の座席を取り外し日本まで運ぶ計画を立てた。費用は250万円程だと言われた。しかしすでに航空会社が登乗許可を出す血液検査の数値を大幅に超えていてこの計画は断念した。
残すは医療用のドクターヘリならぬドクタージェットをチャーターして運ぶ方法しかなかった。台湾から移送の専門医を呼び看護師が2名付いて運ぶ方法だ。病院から救急車で通関して飛行機に乗せ、羽田でも飛行機の下に救急車を付けて運ぶ。値段はだいたい1200万円。帰国しても早くて数日、持って数週間で死ぬという状態でなかなかインパクトのある金額だが本人が稼いだ蓄えがあるので迷わず決断した。
12月28日のフライトが最速でできる見込みだった。そこで友人のツテで有名私立病院に入れてもらえることになった。日本でかかりつけだった国立病院は先述した理由で絶対イヤだと言い、契約していた医療サービス会社が見つけてきた提携先病院は名前も知らないようなところだったので友人に私が頼んだ。
しかし年末で羽田も成田も28日の着陸は許可しないと言われた。通常は医療ジェットは優先されるが繁忙期は着陸スケジュールがパンパンで入れられないと言われた。今にも死んでしまいそうな父にその1日の延長は本当に長く感じた。
そして29日のフライトに決まったが今度はまた別の問題が起こった。病院が年末受け入れるのは28日までだというのだ。医療サービス会社が交渉しても許可が出ず、私の友達がまた頭を下げてくれ、無理矢理受け入れていただいた。
帰国の直前、香港人のお友達や香港の会社のコアスタッフが中国まで最後のお別れに駆けつけてくれた。しっかりと手を握り今生の別れを告げる、言葉もそんなに通じないのにしっかりと結ばれている友情、暖かい心に感動して私は涙が止まらなかった。本当に父に会いにきてくれて感謝した。病気の発覚から葬儀まで、私が泣いたのはこの時だけだった。
帰国してすぐに古くからの友人に会うことができた。聞き取ることはできてももう単語で絞り出して答えたり首を振るくらいしかできないほど弱っていたがそれでも嬉しかったようだ。
面会していただいたご友人は痩せ、弱り、変わり果てていた父の姿を見て涙を流している人もいた。
お取引先には一切内緒ということにしていたが、香港で新年に会うことになっていた方には告げるしかなかった。とても長いおつきあいのあるそのお客様数名は名古屋から新年のお忙しい時に駆けつけてくれた。そんな時でも「これ以上広めないで」と父は言っていた。
死ぬ3日ほど前に医師からは血圧が70台になってきて今週危ないと言われた。毎日夜9時か10時までは病院にいたがその頃から看護師に何かあったらお電話しますと言われるようになりいよいよ覚悟した。
何も食べられない父は1日200kcal程度の点滴しかしていなかった。中国では高カロリーな点滴などもしていたが結局それは吸収されず腹水として溜まるので日本ではもうやらない方法だと言う。確かに中国では1日500ccほど抜いていた腹水は日本に帰ってきてからは溜まらなくなった。しかし緩やかに餓死するよなと思っていた。これが終末期の医療の現実なのだろう。
死亡した当日は血圧が徐々に下降していた。夜になり、今晩は誰か泊まった方が良いと言われた。私と駆けつけていた中国のスタッフが残り母と妹は一度返して眠らせることにした。呼吸が浅くなってきたりして後数時間というのがわかることが多いというので変化があったら連絡することにした。午前1時ごろ見回りの看護師はまだ呼吸に力もあり酸素濃度も100%近くあると言っていた。しかしそれから30分ほどすると今日に息を吐く力が弱くなったように感じた。それでも最後にするという下顎呼吸にはなっていなかった。しかし2時ごろ、見ているうちに呼吸数が急に減った。1分に4回ほどしかしなくなり下顎呼吸が始まる。慌ててナースコールをした。看護師はそろそろご家族を呼んだ方が良いと言った。そして私がすぐに電話をしているときにバイタルチェックをしていた看護師は酸素濃度もまだありますねなどと言いながら血圧を測っていた時に私は「あれ?止まっちゃった?」と聞いた。呼吸がまったくしないようになった。看護師も止まってしまったかもと言った。その瞬間父は一度息を吐いた。それが最後になった。ナースコールしてから15分か20分。あっけなく止まってしまった。母も妹も最後に間に合わなかった。こんなにあっけないものかと涙も出なかった。病院に着いた母と妹に「止まっちゃった」と告げた。ピーク時にはメタボで80キロ近くあったのではと思われる体重は40キロほどになっていた。全てのエネルギーを使い果たし止まったという感じだった。

葬儀は父の意思に従って家族と古いお友達と社員だけで行うことにした。
ただし、先述した入院をお伝えしなくてはならずお知らせしたお取引先にはご参加いただいた。参列は少数でというわがままを聞いてくださった。
どこかで聞きつけ(後で話してしまったとメールをいただきましたが)通夜に駆けつけてくれた元社員などもいたが本当に少数で葬儀を行なった。

父は日本に企画会社、香港に販売会社、中国に生産工場を持っていた。がんが発覚した時に私は父に全ての仕事を辞めて日本に戻るように言った。

父の答えは「死ぬまで働く。中国で死ぬ」だった。
一年ほど前、とりあえず日本の会社だけは完全に抜けてもらい私が引き継いだ。まあ、実際にはもう10年以上私がやっているのだが、少しでも関わっていると数字などを見てイラっとするので負担を軽減させるためだ。

父は多くの老人がそうなるように歳を重ねるごとに頑固になった。人の忠告に耳を貸さず、何かを反論されることを許さなくなった。
中国にいることの多かった父は工場側の思考だった。日本の開発会社に対して能力がないとか仕様変更が多いと不満を持っていた。
父が中国に出ていった30年前と日本の商品開発方法は大きく変化していた。昔はマーケティングリサーチなどなく、販売元のお客様の感覚で商品開発をし、全権を販売元のお客様と開発会社である弊社とで決定できた。しかし時は流れマーケティングリサーチや大手小売店の意見が商品に反映されるようになり、昔はありえなかった工場で金型を掘り出してからの仕様変更も多くなった。
そのような話をいくらしても30年前で止まっている父には理解ができないようだった。
死ぬ半年ほど前だっただろうか、香港と中国の会社の役員から私の名前を外した。中国人でも誰でも良いから跡を継いでくれる人に会社を渡すと言い出した。私としては別に金に執着があるわけでもないので会社を私に譲らないというのならそれで良いと思って反論もしなかった。

がんが発覚してから2年間は私には本当にストレスの溜まる辛い日々だった。
本来のパワーバランスであれば下請けのはずの工場から上から目線で仕様変更が多いとか、社員の能力がないとか、気に入らないからこの仕事は受けないとかそういう主張を父からされ本当に困った。
こちらはお客様から仕事の依頼を受けているため工場がやらないと言っていますなんて言えるはずもなく、また、私も日本の社員を預かっているので下請けから能力が無いなどと言われて黙っているわけにはいかなかった。父の命を削ると心の片隅に思いながらも日本の社長として父と電話で本当に罵り合いをしなければならないことが何度もあった。周りが引くほど怒鳴りあったこともある。電話を切るとストレスを与え父の寿命を削ってしまったと思い手が震えた。
不安で睡眠薬や精神安定剤のお世話にもなった。

父のがんは抗ガン剤で頭髪が抜けたので気がついた人は気がついていた。それでもそのあと元気になっていたので克服したと思っていた人が多かった。
お客様などから「お父さん元気?」とか「体調大丈夫?」と、声をかけていただいた。
私は決まって「大丈夫です」と答えた。
もちろん大丈夫ではなかったが自分に言い聞かせるかのように何度でも大丈夫ですと言った。
何度も何度も心の中では「大丈夫じゃないんです。もういつ死んでもおかしくないんです」と叫びながら笑顔で「大丈夫です」と繰り返した。
今日葬儀が終わったが、つい最近も元気ですと言って嘘をついてしまっている人がいる。誰にも知らせるなという故人の意思なので許してほしい。

葬儀は葬儀会社のマニュアルに従って流れるように終了した。
母が高齢のため私が喪主をした。
ところどころ喪主の挨拶をするところがあるのだが、その内容も定型文が用意してあってこれを読めば良いですと言われた。
せめてもの抵抗というか、結婚式などでもスピーチはいつもアドリブでその場で出てきたことを喋るタイプの私は定型文を一切読まなかった。定型文を読む人が多いのか、葬儀社の人がお読みにならないんですかと聞いてきたがアドリブにした。そうでもしなければまったく血の通わない意味の無い葬儀になってしまうのではないかと思ったからだ。そのため言うべき言葉が足りなかったりご無礼な点があったかもしれないがお許しいただきたい。

葬儀が終わってもまだまだやることはいっぱいある。しかしとりあえず一区切り。
むしろこれから大変なことがたくさんあると思うがそれに立ち向かう気構えをするためにもこのブログを書いて心を整理することにした。