まず申し上げなければならないのは、現代人と近い将来の人びとが、自分は過去の時代の偏見、幻想、迷信からはるかに遠くまで来ていると信じているとしても、まったく幻想にとらわれている、ということです。他の時代よりもはるかに、特定の世界秩序の重要な諸事実について、幻想にふけっているのです。ですから現代の混沌の中には、-だからこそ混沌なのですが- まさに幻想が、幻想的な表象が支配しているのです。

 

今、まさに人びとは、さまざまな意見、さまざまな党派制の中で、幻想に陥っています。リベラルな世界観、人生観の持ち主は、物質界に特定の制度を設けようとしています。そしてその制度が実現されるなら、地上は天国になる、と考えています。

 

社会主義者も、各人がそれぞれ自分の思うとおりの快適な生き方をすることができるような社会制度を作ることができると考えます。こういう人が物質界の未来を思い描くとき、そこは常に、非常に美しい天国的な世界なのです。こんにちのさまざまな社会主義政党の諸計画を検討してみて下さい。

 

しかしこういう地上天国的な考え方は、他の分野でも見てとれます。教育者はどうでしょうか。もちろんどんな教育学者も教育評論家も、考えうる最上の教育制度、教育原則を打ち立てることを意図しています。

 

こういう努力に反対する人は愚か者としか思われません。この世に最上のものを実現しようと望まない者は、心が歪んでいる、としか見做されないのです。

 

そう考えざるをえないことは、よく分かります。しかし悪意からではなく、私なりの現実認識から、こういわざるをえないのです。-地上に完全な制度を実現させうると信じるのは、幻想にすぎない、と。三角形の内角の和が180度である、というような法則と同じ意味での完全な社会法則が地上に通用する、というような主張に対しては、大胆に、おそれずに、その主張の本質をしっかりと見据えなければなりません。

 

こういう主張、こういう幻想が姿を現すのは、唯物主義的な立場に立つときです。こんにち多くの人が、自分は物質存在以上の何かを信じている、と語るとしても、それは言葉上の主張にすぎません。多くの人にとって、言葉そのものが単なる言葉、空虚な響きでしかないのです。

 

人間の無意識の中には、唯物主義的に思考しようとする傾向が居すわっています。物質以外の何かを信じているふりをしているとしても、そういう幻想が生じるのは、そもそも物質界しか信じていないからにすぎません。そうなのです。物質界しか信じていない人、周囲に物質界以外の何かがあるとは信じられずにいる人にも理想があるとすれば、その理想は、この物質界においてしか天国は生じない、すべては物質界の出来事でしかない、という理想以外にはないのです。そうでない理想は、すべてナンセンスなのです。

 

唯物主義者にとって、今はこの物質界での理想の現実がまだ不完全なものでしかないとしても、この不完全さが終わって、完全な状態がいつかはやってくる、という幻想に従う以外、-もしこの世がナンセンスでないというのなら-、それ以外の可能性は存在しません。