先週豊島区染井を水源とする藍染川放水路の暗渠を辿ったが、本流は上野の不忍池に注ぐ池の水源となっていた。
そうなると気になるのが不忍池から先の部分。
調べると忍川という川が池の南側から流れ出て、江戸時代には武家屋敷の堀として使われたりしながらいくつかのルートで隅田川に注いでいた。途中からは鳥越川と名を変えて。
まずはスタート地点として不忍池を目指す。
水鳥もまだいる。
恐らくは町の形成と同時に作られた人口河川と思われる。そして明治時代には暗渠化されているから恐らく痕跡は無いだろう。暗渠化された跡に関東大震災や東京大空襲を経て現在の街並みが作られたのだから。
個人的な考えでは地下に水流が残されている暗渠では無く埋め立てられたのでは、と思う。だから厳密には暗渠でなくて川跡なのだろう。
だから参考になるのはかなり古い地図でないと。そう考えると一番わかりやすいのは江戸時代の絵図か。
明治時代の単色の地図でなくて色の付いた絵図の方がむしろ川を見つけるには見やすい。
という訳で今回は江戸時代の絵図を参考にする。(江戸時代の絵図は人文社刊、江戸東京散歩を写してます)
江戸時代の江戸の絵図の特徴は西が上になっている点、恐らく皇居のある京都を上にしているのかと。
そして武家屋敷や寺院は正門の方角が上して名前が書かれている点。だから西が上なのに文字の向きがバラバラなのはその為。
※なお、見やすいように掲載のものは北を上に向きを変えてます。
スタート地点は上野の絵図。
広大な寛永寺(今の上野公園の場所)の南側、不忍池より流れ出てる一本の川、これが忍川。
注ぐ場所は幕府の米蔵のあった辺り。
その蔵があったから付いた地名が蔵前。
この絵図と現在の地図を見比べながら見当をつけて忍川跡を辿る。
ちょうど不忍池から流れ出た流れの辺りには下町風俗資料館があり、その前に上野広小路にあった三橋と忍川が復元されているのだが工事中で入れず。
代わりにその写真があった。
その三橋があった場所はこの辺り、上野広小路の中央通りの部分。
寛永寺の門前、忍川を渡る3つの橋があり、真ん中の橋は徳川将軍と寛永寺の門跡の輪王寺宮(皇族)しか通れなかった。
その三橋の名前を今に伝える甘味処みはし。
今日は例を見ない位の並びだったから素通り。
忍川はアメ横センタービルにむかう道の部分。
アメ横センタービルを突き抜けアメ横へ。
忍川はアメ横センタービルを越えた辺りでアメ横沿いに南下。
中田商店前で折れ曲がり東方向へ。
JRの高架橋に忍川の名前が。
人の多い上野の街を抜けるように直進、昭和通りを越える(実はこの道は間違えだった)。
越えた先がキムチ横丁、在日朝鮮人達の飲食店が点在する。
せっかくなので昼飯はこちらで。
ここで来た道が忍川でない間違えた道と気づく。先程のJRの高架橋の辺りまで戻る。
この左側に伸びていた道に行ってしまったが、この喫茶店の右側の道が正当。
昭和通りに向かって。
昭和通りを渡る。
急に人出が無くなり静かに。
絵図によるとこの辺りから先に柳川藩主立花家の上屋敷があり、その堀となって右側に折れ曲がる。
そして立花家上屋敷の南側の堀となる、今は春日通り。
その柳川藩主立花家上屋敷の痕跡は全く残ってないが、春日通りから少し入った東上野1-23番地に太郎稲荷神社が残っている。
立花家上屋敷に祀られていたもの。
そして春日通りに戻って東に向かって歩く。新御徒町駅を越えた辺り、この辺りでは秋田藩主佐竹家上屋敷があった場所。
その堀の水も忍川の水か?
そして佐竹家上屋敷の名残は商店街の名前として残っている。
佐竹家上屋敷はこの道清洲橋通りの右側。
少し南側の清洲橋通り左側にはかつては三味線堀という堀があった。その堀もまた川の流れの一部。三味線の形をしていたそうだ。
かつてはこの住所表示の右側に三味線堀の案内板が貼ってあったのだが撤去されている。恐らくこの建物が取り壊されるからだろう。
南下していく途上にはおかず横丁。
流れは直角に曲がり蔵前橋通りに。
蔵前橋通りを東へ。
この辺りで南側に折れ曲がる。
この辺りでは鳥越川と名前を変えている。
さらに東方向に折れ曲がる。
その先の交差点は左衛門橋通りとの交差。
名前の通り左衛門橋という橋があった。
甚内橋という橋のあった場所。
江戸通りを越えると間もなく隅田川なのだが、榊󠄀神社の前でクランク状に折れ曲がる。直進すると幕府の米蔵があるからか?
南方向へ。
クランク状に東方向へ。
この先が隅田川。
工事中のこの先で隅田川に合流して終わる。
隅田川テラスに出てみた。
スカイツリーが目の前に。
江戸時代風。
この水門は位置的には鳥越川では無いと思われる、が、何の流れだろうか。
左側は両国国技館がある。
先の橋はJR総武線。ちょうど両国方面に電車が走っていた。