先日(7/12)の中央オモニ大会。
西東京中部支部のリレスピーチ、スゴヘッスンミダ!!
この日のために準備、練習、スゴハショッスンミダ!!
今回、時間に厳しく、リレースピーチが制限時間すぎるとカットされるというちょっと残念な事態が・・・
(西東京は幸い練習の成果もあってか時間内に収まりましたが。)
きっと、新報に出るだろうと思いきや、やっぱ出ました。
東の大会で気になったのは、長野のオンマのスピーチではないでしょうか・・・
全校生18人中3人の寄宿舎生、その3人がわが子という話。
朝鮮新報のウェブ版にも出ています。
最後まで聞きたかったな~~と思ってたヨロブン、どうぞ♪
<朝鮮新報 2009.7.24>←ココをクリック
(引用もしておきますね↓ もう一回泣いてください・・・)
3人の子どもを寄宿舎に入れて~新潟・金玉順さん
私には中級部1年と初級部6、3年生になる愛する3人の子どもたちがいる。
子どもたちは新潟朝鮮初中級学校で学び、同校の寄宿舎で生活している。
全校生18人中、3人がうちの子どもで、寄宿舎生3人もみんなうちの子どもたちだ。
先生たちの愛情あふれる民族教育の中で、子どもたちはみな勉強も良くでき、朝鮮語も使いこなす。娘は舞踊部に属し、学校生活を本当に楽しく過ごしている。
「アッパ、オンマが傍にいなくても、私は絶対に日本学校には行かないよ!」という子どもたち。何よりも私たち夫婦が願っている「異郷に可憐に咲く朝鮮のつぼみとしてかわいらしく育っていること」は、このうえない喜びだ。
しかし、私がこのようにウリハッキョで学ぶ子どもたちを何の心配もなく送るようになるまでには、並々ならぬ自身との闘いがあった。
7年前、長男が学校に上がるとき、ウリハッキョに送るか、近くの日本学校に送るか、悩みに悩みぬいた。
入学し2カ月が過ぎたある週末、家に帰ってきた息子が食事の支度をする私にしがみつき、ワンワン泣き始めるではないか!
「学校はおもしろいけど、オンマ、アッパと離れて暮らすのは嫌だ。他の友だちは家に帰ってオンマたちと暮らしているのに、僕もそうしたい」と、息子はいつまでも私の傍を離れず、泣き続けていた。
「この子は、今まで私たちに心配をさせまいと耐えてきたんだ。どれだけ淋しかっただろう」。何も言わずに息子を抱く私の目からもとめどなく涙があふれ出た。
そして、息子を落ち着かせて順々に話した。距離が遠くて家からウリハッキョまで通学できないこと、なぜ遠くにあるウリハッキョで学ばなければならないのか、しっかりとした朝鮮人として育つためにはウリハッキョに通わなければならないこと、学校でオッパ(お兄ちゃん)が一生懸命勉強したら、妹たちの良いお手本になり、妹たちもウリハッキョに行きたいと言うはず…。
このとき息子に話しながら、強いオモニにならなければと、私自身にも言い聞かせていた。
固く決心した私だったが、3人の子どもたちがみなウリハッキョに行くことになり、今度は私が子どもたちのいない生活に耐えられなくなった。末娘が入学するとき、子どもたちに日本学校に転入しないかと泣きながら言ってしまったことがあった。すると、「日本学校には絶対に行かない。アッパとオンマがいないのは淋しいけど、それは心配ないよ。寄宿舎の生活は楽しいし、先生も一緒に遊んでくれるから大丈夫だよ」という子どもたち。その言葉に、自身の弱い心を責めるしかなかった。
しっかりしなきゃ。
こんなに子どもたちが頼もしく育っているじゃないか!
うれしくもあり、悲しくもあり…オモニは、子どもたちからたくさんのことを学び成長するというが、まさにその通りだと思った。
これからも、日本で子どもたちを朝鮮人として育てていく過程で、さまざまな問題が生じるかもしれない。
けれども、私は子どもたちが大きくなって、なぜアボジとオモニが遠く離れた寄宿舎で生活させながらウリハッキョに送ったのかを、きっとわかってくれると信じている。
[朝鮮新報 2009.7.24]より
子どもたちは新潟朝鮮初中級学校で学び、同校の寄宿舎で生活している。
全校生18人中、3人がうちの子どもで、寄宿舎生3人もみんなうちの子どもたちだ。
先生たちの愛情あふれる民族教育の中で、子どもたちはみな勉強も良くでき、朝鮮語も使いこなす。娘は舞踊部に属し、学校生活を本当に楽しく過ごしている。
「アッパ、オンマが傍にいなくても、私は絶対に日本学校には行かないよ!」という子どもたち。何よりも私たち夫婦が願っている「異郷に可憐に咲く朝鮮のつぼみとしてかわいらしく育っていること」は、このうえない喜びだ。
しかし、私がこのようにウリハッキョで学ぶ子どもたちを何の心配もなく送るようになるまでには、並々ならぬ自身との闘いがあった。
7年前、長男が学校に上がるとき、ウリハッキョに送るか、近くの日本学校に送るか、悩みに悩みぬいた。
入学し2カ月が過ぎたある週末、家に帰ってきた息子が食事の支度をする私にしがみつき、ワンワン泣き始めるではないか!
「学校はおもしろいけど、オンマ、アッパと離れて暮らすのは嫌だ。他の友だちは家に帰ってオンマたちと暮らしているのに、僕もそうしたい」と、息子はいつまでも私の傍を離れず、泣き続けていた。
「この子は、今まで私たちに心配をさせまいと耐えてきたんだ。どれだけ淋しかっただろう」。何も言わずに息子を抱く私の目からもとめどなく涙があふれ出た。
そして、息子を落ち着かせて順々に話した。距離が遠くて家からウリハッキョまで通学できないこと、なぜ遠くにあるウリハッキョで学ばなければならないのか、しっかりとした朝鮮人として育つためにはウリハッキョに通わなければならないこと、学校でオッパ(お兄ちゃん)が一生懸命勉強したら、妹たちの良いお手本になり、妹たちもウリハッキョに行きたいと言うはず…。
このとき息子に話しながら、強いオモニにならなければと、私自身にも言い聞かせていた。
固く決心した私だったが、3人の子どもたちがみなウリハッキョに行くことになり、今度は私が子どもたちのいない生活に耐えられなくなった。末娘が入学するとき、子どもたちに日本学校に転入しないかと泣きながら言ってしまったことがあった。すると、「日本学校には絶対に行かない。アッパとオンマがいないのは淋しいけど、それは心配ないよ。寄宿舎の生活は楽しいし、先生も一緒に遊んでくれるから大丈夫だよ」という子どもたち。その言葉に、自身の弱い心を責めるしかなかった。
しっかりしなきゃ。
こんなに子どもたちが頼もしく育っているじゃないか!
うれしくもあり、悲しくもあり…オモニは、子どもたちからたくさんのことを学び成長するというが、まさにその通りだと思った。
これからも、日本で子どもたちを朝鮮人として育てていく過程で、さまざまな問題が生じるかもしれない。
けれども、私は子どもたちが大きくなって、なぜアボジとオモニが遠く離れた寄宿舎で生活させながらウリハッキョに送ったのかを、きっとわかってくれると信じている。
[朝鮮新報 2009.7.24]より