フォーク・ソングを殺したのは誰? その5 | AFTER THE GOLD RUSH

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1965年の秋から冬にかけて、眞木壮一郎は、盟友日高義が居を構える原宿駅近くの神宮マンション4D号室に入り浸り、オリジナルの日本語によるフォーク・ソング作りに没頭した。眞木とソングライティング・チームを組んだ日高は、新進気鋭のフォーク・ソング研究家であり、独創的なソングライターでもあった(注1)。彼は、2年前の1963年に4か月程渡米し、グリニッジ・ヴィレッジの「ビター・エンド」やサンフランシスコの「ハングリー・アイ」といった最先端のフォーク・クラブ、小劇場でのフーテナニー(hootenanny)など、当時アメリカの若者の間で大きなムーブメントとなっていたフォーク・リヴァイヴァルの魅力と熱気を直に体験していた。帰国した日高は、すぐさま、都内の大学キャンパスで先駆的かつ同時多発的に活動を始めていた学生フォーク・グループに連絡をとり、その年の秋、原宿のセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会(現・ラフォーレ原宿に所在)に集合させた。これが、おそらく日本で初めて開催された“フーテナニー”ではないか(注2)。この「原宿フーテナニー(もしくは「日高フーテナニー」)」には、小室等率いるP.P.M.フォロワーズ、眞木、麻田らのモダン・フォーク・カルテット、後に小室の妻となるのり子の兄が在籍していたキャスターズなどのフォーク・グループが参集した。横のつながりがなく、「日本でモダン・フォークを演奏しているのは自分達だけだろう」と孤独の裡に己の感性の鋭敏さを自負していた20代前半の若者達は、この時初めて、同じ苦悩と喜びを抱えてフォーク・ソングの荒野を突き進む同志の存在を知ることになる。1963年、アメリカでは、夏にワシントン大行進、晩秋にケネディ暗殺という、ニューフロンティアに託した希望が悲嘆そして絶望へと大きく転換した年でもあった。

「ねぇ、ターちゃん(日高の愛称)、覚えてる? 中央教会に初めて集まった頃、ピート・シーガーが日本に来たよね」。眞木がバンジョーを爪弾きながら、愉快そうに話しかける。「あの時、ぼく達MFQのメンバーは、シーガーの楽屋に入れてもらったんだよ。それで、彼に『フォーク・ソングの歌手はどんな格好をしたらいいか』って質問したら、ひどく怒られてさ」。黒縁の眼鏡を押し上げながら楽譜にペンを入れる日高が苦笑交じりで応じる。「そりゃそうだ、彼は、キングストン・トリオじゃないんだからな」。「そうなんだよ。『フォーク・シンガーは歌を聴かせることに徹するべきで、服を見せびらかすようなことをしてはいけない』って言われてね。あの言葉は沁みたなぁ」。陽気に話す眞木は、黒のアルパカのカーディガンとチャコールグレイのスリムなスラックスでさりげなく決めた自らのアイビースタイルを見やりながら、「でも、やっぱり身だしなみも大事だよなぁ」と嘯く
(注3)

眞木と日高は、これまで日本にはなかったトピカル・ソングを作ろうとしていた。ディランやシーガーが、公民権運動やヴェトナム戦争をテーマに歌を作ったように、英米の民謡歌手が古くはタイタニック号の遭難、近年ではケネディ暗殺をも「うた」にしたように――。2人がまず目を付けたのが、この年の秋に大きく報道されたマリアナ海域での海難事故だった。1965年10月7日、南太平洋に出漁中の日本のかつお・まぐろ漁船10数隻が、台風29号の進路を避け、マリアナ諸島アグリガン島の島陰に退避していたところ、予想に反し台風の中心が同島海岸付近を通過。風速70メートル毎秒に達する暴風が吹き荒れ、荒れ狂う大波に飲み込まれた漁船7隻が次々に遭難。209人の犠牲者(死者1人、行方不明208人)を出す大惨事となった。
眞木は、この悲惨な海難事故を次のような詞にした。

マリアナの海遠く
マリアナの空遠く
消えた海の男たち  
静かにねむれ とこしえに

あれは南の海
広く青い海
かつお釣りの白い船
予期せぬ嵐29号

逆巻く荒波に
狂い叫ぶ嵐に
二度と帰らぬ二百余人

追いせまる波と風
逃れるすべもなく
自然のいかりを前にして
力尽きし船
今は木の葉

日高がこれにドラマチックな展開の曲を付けた。タイトルは「マリアナの海」。二人はその出来栄えに大いに満足した。職業作曲家による出来合いの歌ではなく、自分たちが本当に歌いたい歌、すなわち、若者による若者のための“本物のフォーク・ソング”が、今この国で生まれようとしているのだ。眞木は、まるでグリニッジ・ヴィレッジの古びたアパートメントで全世界に向けて歌という武器を投擲せんとするラジカルなフォーク・シンガーになったような、憧れのディランやシーガーと肩を並べたかのような、そんなすこぶる誇らしい気持ちになった。自信が漲り、歌は溢れ落ちるように生まれ出た。11月、国会議事堂前では日韓条約に反対する学生と機動隊が激しく衝突し、ブラウン管からは罵倒し合い掴みあう与野党議員の醜態が映し出され、窓を開ければ、空を覆う灰色のスモッグと道路を掘削するドリルの金属質な回転音、1965年秋の東京の風景が、若い2人の紡ぎ出す初々しい言葉と音符で次々とスケッチされていった。「同じ国に住んで」「君の町」「歌おうよ 叫ぼうよ」…、これらの歌は、年の瀬の12月19日から21日にかけて有楽町の日劇で開催された「フォーク・ソングフェスティバル」
(注4)における新生・眞木壮一郎の重要なレパートリーとなった。モダン・フォーク・カルテット解散後初のソロライブ。グループ時代と変わらぬ女子大生からの黄色い歓声を浴びながら、眞木は、この日、フォーク・シンガー「マイク真木」として新たな一歩を踏み出した。

ちなみにこの時、同じ日劇のステージに立ったのが、芝高校生と立教高校生の4人から成るキングストン・トリオのコピーバンド「オックス・ドライヴァーズ」である。揃いのアイビールックで「グリーンバック・ダラー」やオリジナルのユーモラスなフォーク・ソングを瑞々しくも躍動感たっぷりに演奏した彼らは、会場を埋め尽くしたフォークファンから割れんばかりの拍手を浴びた
(注5)。「やったナ」と特徴あるバリトンボイスでいたずらっぽく笑うのは、リーダーの立教高校3年、細野晴臣。彼もまたアメリカのフォーク・ソングに心奪われた、まだ何者でもない18歳の音楽少年であった。(つづく)

(注1)    日高義氏については、1966年当時の雑誌記事から現在のフォーク解説本に至るまで、元・日劇の演出家の日高仁氏との混同がしばしば見られる。混同例において最も顕著なのが、エリック・アンダーソンの「Come To My Bedside」の訳詞者の名義であり、高石友也「おいでぼくのベッドに」、岡林信康「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」、加藤和彦「ぼくのそばにおいでよ」、これらはいずれも1969年に発表され、訳詞も同一の内容であるが、高石版は日高義名義(高石自身による解説にも「詩の日高義氏は以前、マイク真木君の詞や曲を多く手がけたこともあった人」と書かれている。)であるのに対して、岡林と加藤のバージョンは、日高仁名義となっている。ここから、日高義氏と仁氏は同一人物なのではないかと推測されるが、当時の記録によると、1966年当時、義氏は20代後半の青年であるのに対し、仁氏は35歳と年齢にかなり開きがある。また、仁氏が後に手がけた「星降る街角」などのムード歌謡曲も、義氏の作風とは違いがありすぎる。よって、同一人物説はとらないが、一方で、混同が起こっても権利関係等において問題が発生しない程近しい関係性にあったことは間違いないだろう。名前の類似性(義・ただし、仁・まさし)や両者の容貌の相似形から2人は兄弟ではないかと推察する。真相をご存じの方は是非情報をお寄せいただきたい。

 

(注2)    日本初のフォーク・フェスティバルは、1962年11月に銀座ガスホールで開催された「セアリーズ・ミーティング・ヒア・トゥナイト」(セント・ポールズ・フォーク・シンガーズ等出演)。一方、フーテナニー(フォーク・ソングを次々と歌い続けるスタイル)は、定説では、1963年12月31日に開催されたジュニア・ジャンボリー主催の「フーテナニー‘63」が日本初とされているが、その「フーテナニー‘63」にモダン・フォーク・カルテットを率いて出演した麻田浩氏当人が、「1963年の秋に原宿の教会でフーテナニーが行われるまでは、自分達しかモダン・フォークをやっていないと思っていた。それは、他のフォーク・グループも同じだったと思う。」と証言していることから、本文のように推測した。

 

(注3)    ピート・シーガーとのエピソードは、「平凡パンチ」(1966年4月11日号)の真木のインタビューより。
(注4)    1965年12月17日の読売新聞夕刊に掲載された「日劇フォーク・ソングフェスティバル」の広告は下の画像を参照。構成・演出は、前述の日高仁氏が担当した。
(注5)    当時の音楽雑誌によると、オックス・ドライヴァーズは、「うまさよりも、ワイルドな魅力を全面に押し出したユニークなチーム」で、十八番のキングストン・トリオのコピーのほか、「ヘンな日本語の歌詞のついたコミック・ソング」を演奏して「大いに観客を沸かせていた」らしい。翌1966年に細野が脱退した後は、ギター・バンジョー・ベースという編成の「オックス・ドライヴァーズ・トリオ」として活動した。

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