フォーク・ソングを殺したのは誰? その4 | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――


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それは今朝のこと
通りを歩いていたら
牛乳屋さんに郵便屋さん
おまわりさんにも会ったよ
あっちの窓にも こっちの戸口にも
今まで気付かなかった人がいた

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

ぼくは見たんだ
南部から 北部から
強大な軍隊のように
あの人たちがやってくるのを
それは 王者にふさわしい
素晴らしい再会
人間が物質主義にずーっと勝ることを
その時ぼくは悟った

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

もっと沢山の人たちが 
あっちこっちでみんながね
己を捨てて人のために動くなら
悩み事や心配事は消え失せて
気づかい合いの灯がともる
社会不安や争いごとも無くなって
互いに理解し助け合うだろう

(Up With People 意訳)

1965年の東京のキャンパスでモダン・フォーク・カルテットはとにかく大変な人気者だった。麻田浩、眞木壮一郎、重見康一、渡邊かをるの4人の大学生によるフォーク・グループ。キングストン・トリオの凡百のコピーバンドから一歩も二歩も抜きん出て、ピート・シーガーやジェシー・フラー、レッドベリーなどの隠れた名曲を演奏する彼らは、真摯にフォーク・ソングの精神を追求する研究者であると同時に最新のアイビールックを恰好良く着こなし男性ファッション雑誌のモデルを務める華やかなファッション・リーダーでもあった。ステージでは、端正な顔立ちの麻田と眞木に人気が集中した。麻田がウッドベースを弾きながらヴォーカルを取ると“麻田派”の女性ファンは割れんばかりの歓声を上げ、眞木がバンジョーを奏でながら甘い声で歌い出だすと“眞木派”の少女達は負けじとキャーキャーと黄色い声援を送った。

そんな幸福なライブに明け暮れていたある日、――もう半世紀以上前の事で、記憶も混沌としているが、もしかするとそれは、4月に厚生年金会館で行われたスチューデント・フェスティバルの楽屋だったかもしれない。演奏を終えた彼らに「よ、お疲れ」と声をかけてきた若い男がいた。肉付きのよい逞しい体格に眉毛の濃い人懐っこい丸顔。彼らの後輩で共通の友人である和田良知である。本名、ロバート・良知・和田。19歳。日本人の父とオーストリア人の母を持つこの青年は「ロビー和田」と呼ばれていた。ロビーは、少年時代をアメリカンスクール、ドイツ学園と国際色豊かな環境で過ごし、英語、ドイツ語、オランダ語など語学に堪能であり、玉川学園高等部では、バスケットボール部のキャプテンを務めながら、青山学院高等部の眞木と「ファイアーサイド・ボーイズ」というフォーク・グループを結成していた。運命が大きく動いたのは高校2年の時。MRAから「音楽劇に加わって世界を回らないか」と誘われたのだ。受験勉強に浮き身をやつす高校生活に嫌気がさしていたロビーは同意し、高校を中退。ギターケースを抱え、MRAのグループと共に、インド、セイロン、台湾などアジア各国を回る音楽放浪の旅に出た。そして、帰国したロビーは、抜群の歌唱力と卓越した作曲能力を身に付けた優れたミュージシャンとしての顔と、反共宗教団体MRAのオーガナイザーとしての顔を併せ持つ童顔ながらもしたたかな「大人」の男になっていた。

「MRAを知っているか?」。ロビーは、麻田、眞木ら4人の前に座って、少し勿体付けて話し出した。後輩のくせに態度が大きいのはいつものことだ。4人は顔を見合わせた。キングストン・トリオの軽快なナンバー「M.T.A」なら知っているが、MRAなど聞いたこともない。訝し気な表情の麻田らをよそにロビーは口を開く。「道徳を通じた平和運動をしているアメリカの団体だ。夏にミシガン州のマキノ・アイランドで世界大会をやるのだが、そこに日本からバンドを1つ招待したいと言ってきている」。一拍置いてこう続けた。「僕は、君たちモダン・フォーク・カルテットを推薦したいと考えている。どうだ、行かないか、アメリカに。」
1ドル360円の時代である。海外旅行など政治家や財界人など一部のセレブ以外には夢のまた夢、貧乏学生にはとても手の届くものではなかった。それを何とタダで招待してくれるというのだ。しかも、尊敬するシーガーやディランを生んだフォーク・ソングの本場アメリカに! ロビーの誘いに対する彼らの答えは一つしかなかった。「行くに決まってるじゃないか、ロビー。是非推薦してくれ!」

7月末に羽田からアメリカに発った4人は、飛行機、汽車、フェリーと乗り継いでミシガン湖のずっと北、カナダとの国境近くにあるマキノ・アイランドのMRA訓練センターに到着した。バス・トイレと清潔なベッドが備え付けられた綺麗な宿泊施設、食事は、ジューシーなビーフパイ、肉厚のサーモンステーキ、デザートの甘いファッジ等々日本では食べたことのないものばかり。どれも美味い。世界中から集まった若者たちともすぐに仲良くなった。ヒューロン湖に囲まれた緑豊かな島の景色もこの上なく素晴らしい。いやがうえにも気分は高揚する。誰からともなく叫ぶような声が上がった。「歌おう! 叫ぼう! アメリカ中にぼくらの声を響かせよう!」。4人はMRAの選抜メンバー150人で構成された「Sing Out‘65」に加わり、アメリカを横断しながらの演奏旅行を体験することになる。その時のことを麻田と眞木は次のように証言する。

「僕らはアメリカに行って、すぐ帰ってくるはずだったんですが、『Sing Out '65』というショーで日本の曲を演奏することになり、3ヶ月くらいアメリカ中を回ったんですよ。これは凄く良い経験になりました。(中略)ただ、そのツアーは『道徳再武装運動』っていうくらいですから、男女の交際はダメとか色々厳しかったんですけど(笑)、それでも面白かったですね。若い子たちが100人くらい一斉に車に乗ったり飛行機に乗ったり、アメリカ中、いわゆるショーをして回るわけですよ。」
(注1)
「一番感動したのはケープ・コットという東海岸の避暑地のショーボートで演奏したときです。ぼくたちの歌が終わると、まわりにいたヨットやモーターボートが、拍手のかわりに汽笛を鳴らして、いっせいに集まってきた。ぼくたちはそこで、40カ国以上の国の若者たちと語りあったんです。」(注2)

「Sing Out '65」で演奏するモダン・フォーク・カルテット(左から、重見康一、麻田浩、眞木壮一郎、渡邊かをる)

モダン・フォーク調にアレンジした「こきりこ節」とジェシー・フラーの「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」を演奏した。どこに行っても大いにうけた。ワシントンでは、ヒルトンホテルの豪華な舞踏場で共和党議員、外交官、財界のエスタブリッシュメントらを前に演奏し、ニューヨークでは世界博覧会、ハリウッドではハリウッドボウルにつめかけた3万人の観衆から割れんばかりの拍手を浴びた。戦後20年、日本人がギターを弾いてフォーク・ソングを歌っているというだけで珍しかったのだ。一方で、彼らの中にこんな感情も沸き上がってきた。
「すごい拍手を受けた。でも寂しかった・・・。『よくもまあ遠く日本からワザワザ、キングストン・トリオのマネをしにきたネ』・・・このようにその拍手は受け取れた。」
(注3)
アメリカのフォーク・ソングの物真似ではなく、拙くても「自分の歌」を歌いたい。特に眞木の中で、その思いが日に日に強くなっていった。
「日本ではフォーク・ソングという言葉はわりと新しいものだ。僕は高校の初めから興味を持ち、ごく一部の仲間の間で歌ってきた。また、自分では人のあまりやらないフォーク・ソングに早くから目をつけたことに、変なエリート意識を持っていた。だから、あまり多くの人に知られたくないと思っていた。ミーチャン、ハーチャンとは違うんだと思っていた・・・。大バカヤローのコンコンチキだ。そんな自分を今考えるとゾッとするくらいきらいだ。こんなチッポケな小児病は捨てよう。牛乳屋さん、おまわりさん、給仕さん、お医者さん、運転手さん、みんなみんなが歌ってこそフォーク・ソングなんだ。」
(注4)
麻田も思いは同じだった。しかし、眞木がMRAでの体験をストレートにそのまま歌にしたいと考えていたのに対し、麻田はもっとそれらの体験を咀嚼し自分のものにしてから歌にすべきではないかと感じていた。そのためにも、大好きなアメリカの音楽をもっともっと勉強する必要があると思った。大体、このMRAという団体は窮屈すぎるのだ。酒もダメ、遊びもダメ、男女交際などとんでもない?歌っている内容も、尊敬するガスリーやシーガーとはまるで違う。次は一人でアメリカに行くんだ。そのためにも帰国したら働いて金を貯めなければ…。

10月、わずかばかりのすれ違いを抱えたまま帰国した彼らは、月末にグループを解散。麻田は、大好きなミシシッピ・ジョン・ハートに会うことを目標に、旅費稼ぎのアルバイトに精を出した。残念ながらジョン・ハートは翌1966年暮れに亡くなってしまうが、麻田の再度のアメリカ行きは1967年に実現する。アメリカ大陸を1年間バイクで放浪し、デビュー前のジョニ・ミッチェルやジャクソン・ブラウンとも知り合いになった。それが後のTom's Cabinにつながっていく。
一方、眞木は、帰国後、早速「自分の歌」、すなわち、オリジナルのフォーク・ソング作りにとりかかった。曲作りのパートナーに選んだのは、数歳年上の気の置けない友人“ターちゃん”こと日高義(ただし)であった。そして自らのステージネームを少年時代からのニックネームである「マイク真木」に改めた。(つづく)


(注1)  Musicman-NETー LIVING LEGEND シリーズ ー【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩 インタビューより(https://www.musicman-net.com/focus/63655)
(注2) 週刊明星(1966年5月)「フォーク・ソング『バラが咲―いた』で人気爆発!マイク・真木の不敵な青春」
(注3)(注4)「マイク真木・フォーク・アルバムNO.2」(1966年9月)ライナーノーツより

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