フォークゲリラを知ってるかい? その2 | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

フォーク・ゲリラとは何者か フォークゲリラがどのようにして始まったのか。当時の文献を読むと、概ね次のようなことが書いてある。1968年冬、大阪の梅田地下街で、北摂ベ平連が「梅田大学」なるものを始め、高石友也や岡林信康らのフォークソングを歌いながら、通行人との対話を試みた。その彼らがギターを肩にフォークキャラバンを進め、69年2月末に新宿駅西口地下広場に登場。そこに合流した東京のヤング・べ平連のメンバー達が、関西の仲間に学ぶ形で反戦歌を歌い始めたー。

 

ぼくもずっとこの定説を信じていたのだが、昨年、知人から「いや、違う。新宿西口のフォーク集会を最初に始めたのは、うたごえ喫茶の歌唱リーダー達で、べ平連はそれに便乗しただけなんだ」という話を聞かされた。半信半疑で調べてみると、確かにとあるブログにこれと同じ説が書かれている。

 

「最初はこうなのです・・・当時新宿の歌声喫茶で歌声リーダーをしていた2人の若者が、1969.2.27土曜の午後ギターの練習を兼ねて西口公演(原文ママ)で歌い始めたのです・・・今でいうストリートライブのようなものです。そこにはまだ、反戦とか反体制とかの思想はなかったのです。そのうちに、歌声リーダーの習性で観衆にも歌の指導をはじめ、週をおうごとに観衆も増え、べ平連が便乗して反戦運動に利用し始め『フォークゲリラ』と呼ばれるようになります。」

 

ぼくは基本的にネット上に浮遊する“諸説”は鵜呑みにしないようにしているのだが、このブログの管理人が、当の歌唱リーダーその人で、かつてDの名で活躍していたフォークシンガーとなると、にわかに信ぴょう性を帯びてくる。さて、こういう場合、どちらかが勘違いしている場合が多いのだが、ぼくは、多分両方とも正しいのだろうと思っている。当時、新宿駅西口地下広場は、学生たちの格好のカンパの場で、代々木系、反代々木系の諸派がカンパ箱を持って集まり、さらに、土曜日には、自然に人が立ち止まり、集まり、あちこちで討論が繰り広げられるなど、自由な気風に満ちた「民衆の広場」だったという。両者の歌声がほぼ時を同じくして、広場に響き渡ったとしても、決して不思議な話ではない(全くの推測ですが・・・)。

 

このようにして69年2月末に始まった新宿フォークゲリラだが、当初はそこに足をとめる人はせいぜい30人程度だったらしい。毎週土曜の夕方に演奏を重ねるうちに、若者を中心にファンが増え、人の輪が大きくなっていったのである。
「4月○日、人が増えてきた。イイぞ、この調子だ。“友よ”はいつ歌ってもいい歌だ。4月○日、警察官がうさんくさそうな目つきでこっちを見る。知るもんか! 大合唱に僕のギターも次第に大きくなる」(吉岡忍編著「フォーク・ゲリラとは何者か」自由国民社、1970年)

 

5月上旬には、500人程の若者が集まり、「友よ」や「勝利を我等に(We shall overcome)」を合唱するようになった。そして、ここから、国家権力のあまりにも喜劇的な弾圧が始まるのだが、その話はまた次回。

フォークゲリラを知ってるかい? その3