つづき
2015年07月30日
◆いちごの生産者だった夏
石岡 荘十
私はいちごの生産者の端っくれだった。
敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ~」のあの寒村だ。
生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。
ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。
間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。
夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。
取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。
草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。
何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。
それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。
高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。
高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。
70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。
それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。
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2015年07月16日
◆蕪村の父が死んだのは新型インフル
石岡 荘十
<主宰者:畏友石岡荘十氏のタイトルは「新型インフルで死んだ法皇」であったが、偶然にも大阪俳人与謝蕪村の父親(庄屋主)が死んだのも、この新型インフルだったので、タイトルを変えて掲載させて頂いた。>
では、石岡氏寄稿の「新型インフルで死んだ法皇」本文に戻る。
インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と、首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。
南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。
「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1000年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため、死亡したと書かれている。
ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。
これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。
さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。
天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。
そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。
感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。
「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。
スペイン風邪については、明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。
つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。
スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。
「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10~13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。
アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないので、ここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。
40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。
1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。
2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。
ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。
これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。
「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。
過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。
政治の威圧ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。
(2014年12月16日掲載)
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2015年07月14日
◆万能ではないAED
石岡 荘十
自動体外式除細動器、AEDがようやく世間に知られるようになってきた。普及のスピードもたいしたものだ。しかし、その機能は必ずしも正確には理解されていないような気がする。
最近のケースとしては、例の、秋葉原の無差別連続殺傷事件関連の記事である。
産経新聞。記事は<事件当時も応急措置に活用されたAEDを(中略)設置しようと募金活動を始めた>という趣旨だが、本当だろうか。
疑問は、本当に事件のとき、「応急措置に活躍した」のか? という点だ。
AEDは最悪の不整脈である心室細動に抜群の威力を発揮するマシーンだが、車にはねられて重症、あるいは即死状態で心肺停止した人に使っても意味はない。
AEDは心室細動患者に対してだけ威力を発揮するもので、出血多量やひどい打撲で停まった心臓を再稼動させる機能は持ち合わせていない。刺されて出血多量で瀕死の被害者に対しても同様だ。
車ではねられた瞬間、または刺されたとたんに、心室細動を起こした被害者が居て、AEDが「活躍した」というならともかく、そんな偶然はとても考えられない。記者はそこまで確認して記事を書くべきだった。
記事で、募金活動をしていた人の「もっとAEDがあれば、ひとりでも多くの人が救えたはず---」という談話を載せている。
大勢の人が押し寄せる商店街に、1台でも多くのAEDがあれば、それだけ安心・安全な街になることは間違いないが、なんとかとはさみ、いや、AEDも使いようなのである。機能を誤解して期待するのはケガのもとである。
もうひとつ問題の記事は、本マガジン「話の福袋」で紹介された千葉日報の記事だ。
それによると、<16日、千葉県船橋市のプールで、授業中に泳いでいた
6年生の女児が突然意識を失い、一時心肺停止状態となった。
(中略)女児は約30秒間水面にうつぶせで浮かんだ状態だったが、プールサイドの教員が気付き救助。ただちに救命措置を行い、119番通報で駆けつけた。救急隊員がAEDを使用したところ脈が回復した>そうだ。めでたしめでたしという記事だが疑義がある。
「救急隊員がAEDを使用したところ脈が回復した」、つまりAEDが役立ったとすると、少女は、子供には極めて稀な心室細動だったことになる。
しかも救急隊員が現場に駆けつけるのに要する時間は、平均で6分。3分以内に心室細動にAEDを使えた場合でも救命率は50%といわれる。
記事では救急隊員がAEDを使うまでに何分かかったのか、脈を回復した少女の容態はその後どうなっているのかをリポートしていないからなんとも言えないが、この事件が報道どおりだとして、その後少女が順調に回復しているとしたら、この少女は極めて稀な強運の持ち主だということになる。
AEDは、正常な拍動をしている心臓・完全に停止している及び心房細動を起こしている心臓に対してはAEDの診断機能が「除細動の必要なし」の診断を下し通電は行われない。
つまり心臓が停まった人や停まりかかった人になら、誰にでも万能ということではないのである。
所詮、AEDは機械なのだから、葵のご紋の印籠のように、都合のいいときにぱっと現われて万能を発揮するわけではない。過信は禁物である。
(ジャーナリスト)
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2015年07月09日
◆いまどき「飲み、食い合せ」
石岡 荘十
昔、上州の田舎の高校卒業後に上京するとき、喰い合わせにはくれぐれも気をつけるよう母親から戒められたことがあった。曰く、
・うなぎと梅干
・鮎とごぼう
・熊の胆とかずの子
・蛸と梅の実
などなど。「一緒に食べないように」と。本当かどうか分からないが、いってみれば、言い継がれた「おばあちゃんの智恵であった。その後、そんなこと、思い出しもしなかったが、ある“事件”で、いまどきの“飲み喰い合せの禁手(きんじて)”があることを思い知らされることとなった。
・抗血液凝固剤と納豆
・降圧剤とグレープフルーツ・ジュース
これを知るきっかけとなった事件というのは、16年前の心臓手術である。この飲み食いあわせは医学的に「禁忌」とされている。親譲りの大動脈弁が不具合を起こし、人工の機械弁に取り換えた。
が、人工弁は人の肉体にとって「異物」であるから、血流が異物に触れると小さな血の塊、血栓が出来る性質がある。この血栓が大動脈を経由して脳に流れ着くと、脳の血管を塞いで脳梗塞を起こす。
そこで、手術後、血栓が出来にくくする、つまり体内の血液をいつもさらさらに保つ必要がある。それが抗血液凝固剤で、その代表的なものがワルファリン(商品名:ワーファリン)だ。
心臓手術に先立って行われたインフォームドコンセントでも、「一生飲みつづけなくてはならなくなりますが、いいですね」とダメを押されていた。
毎日1回決まった量のワーファリンを飲むのも煩わしいことだが、つらいのは食い合わせに禁忌食品があることだ。納豆である。
理由を理解するためには、血液が凝固するメカニックを学ばねばならないが、複雑すぎて手に負えないのでここでは省く。
要するに、納豆は体内で大量のビタミンKを作る。すると、ワーファリンが効かなくなる→血液が固まりやすくなり、最悪、脳梗塞を起こす恐れがある、ということだそうだ。
永年、朝食に納豆を欠かしたことのない年寄り(私)。ある日、耐え難くなってかみさんが買いだめしてあるヤツを盗み食いした。
翌日、かかりつけの循環器内科の医者にこのことを、ぽろっと洩らすと、大騒ぎになった。
自覚症状はなかったが、血液検査では明らかに薬の血中濃度が低下している。脳梗塞に危険が高まっているのだ。あわててその場でいつもの倍のワーファリンを飲まされ、さらに翌朝も倍。お陰で、その日の午後には、危険水域を脱したことが血液検査で確認できた。
薬はすべて毒である。が、過不足なく処方することで薬としての効能を発揮する。しかしその効能を阻害するもの(この場合納豆)を摂取するとバランスが崩れ毒に戻る。血栓が出来やすくなるのである。
患者が納豆を盗み食いして脳梗塞になったのでは、洒落にもならない。担当医にとっても沽券にかかわるということだった。医師があわてるはずだ。
「出先で災害にあったりすると大変だから、いつもポケットに余分に持っていてください」と女医さんにたしなめられた。
歳をとると高血圧患者が増え、降圧剤が処方される人が多くなる。
ところが、1991年、英国の医学雑誌「ランセット」に、「フェロジピンまたはニフェジピンとグレープフルーツ・ジュースとの相互作用」という論文が発表になり大騒ぎとなった。
2つともよく使われている降圧剤だが、これをグレープフルーツ・ジュースと一緒に飲むと、降圧剤がスムースに体外に排泄されなくなり、血液の中に滞ってしまう。
結果、薬の血中濃度が異常に高くなり、血圧が下がりすぎる、という論文だったのである。
降圧剤を飲んでいる人は何十万人にも上るが、このことを知っている人はどのくらいいるか。
ジュースがやばいのは分かった。ならばグレープフルーツの実はどうか。
大丈夫そうだがまだ最終的な、科学的な結論は出ていないそうだ。
因みに、脳梗塞予防のために処方されたという抗血液凝固剤「プレタール」もグレープフルーツ・ジュースと「相互作用」を起こす薬だ。
副作用を起こす恐れがあるとされている。
医者の中には、そんな説明をしないやつも居る。薬局で渡される注意書きは伊達ではない。
小さい赤字で書いてあるが、よく読まれるようお薦めする。
筆者も、プレタールを飲んでいる。
したがって、ワーファリンの関係で納豆、プレタールの関係でグレープフルーツ・ジュース、この2つはここ暫く摂取していない
ジャーナリスト「石岡荘十」
2015年07月03日
◆インフルエンザの常識・非常識
石岡 荘十
正直言って、「インフルエンザとは何か」、関心を持って集中的に学習し始めた。
まず気がついたのは、今までインフルエンザに関して持っていた知識・感覚、“常識”が、いかにいい加減で、非常識なものだったかということである。
と同時に、専門家の話をきいたり本を読んだりすると、ことによると国家を滅亡させる引き金ともなりかねないほどの猛威を振るう“身近な”病についていかに無知であるかを思い知らされる。
まず、
・病名について、である。
「インフルエンザ」はなんとなく英語のinfluenceから来たものと思っていたが、その語源はイタリア語の「天体の影響」を意味する「インフルエンツァ」であった。
中世イタリアでは、インフルエンザの原因は天体の運動によると考えられていたからだそうだ。
・「スペイン風邪」は濡れ衣
歴史のなかでインフルエンザを疑わせる記録が初めて現れるのは、もっとずっと前の紀元前412年、ギリシャ時代のことだったという。
その後もそれと疑わせるインフルエンザは何度となく起こっているが、苛烈を極めたのは1580年アジアから始まったインフルエンザで、全ヨーロッパからアフリカ大陸へ、最終的には全世界を席巻し、スペインではある都市そのものが消滅したと記録されている。
より詳細な記録は1700年代に入ってからで、人類は以降、何度もパンデミック(世界的大流行)を経験している。
なかでも、史上最悪のインフルエンザは「スペイン風邪」である。
というとスペインが“震源地”、あるいはスペインで流行ったインフルエンザだと誤解されがちだが、発祥は、じつは中国南部という説とアメリカのどこかで始まったという説がある。
が、確かなことは1918年3月、アメリカ・デトロイト、サウスカロライナ州、そして西海岸で姿を現したということだ。
その頃世界は第1次世界大戦の真っ只中にあり、アメリカからヨーロッパ戦線に送られた兵士を宿主としたウイルスがヨーロッパ席巻の端緒を開いた。大戦の当事国は兵士が病気でバタバタ倒れている事態を隠蔽し続けたといわれる。
ところが参戦していなかったスペインでは情報統制を行わなかったため、大流行がことさらフレームアップされ伝わったのではないか、と推測されている。「スペイン風邪」はとんだ濡れ衣なのである。
・第二波の毒性をなめるな
スペイン風邪の猛威は、その後2年間、第2波、第3波---と毒性を強めながら津波のように襲い掛かり、猖獗を極めた。
第2波の初期、アメリカ東海岸から公衆衛生担当者が国内担当者に送ったアドバイス。
「まず木工職人をかき集めて棺を作らせよ。街にたむろする労働者をかき集め墓穴を掘らせよ。
そうしておけば、少なくとも埋葬が間に合わず死体がどんどんたまっていくことは裂けられずはずだ」(『アメリカ公衆衛生学会誌』1918)
積み上げられた死体の山を「ラザニアのようだ」と表現するほどだった。
毒性が弱い新型インフルエンザの場合はこんなことにはならないと言うのが今の見方だが、少なくとも秋口と予想される第二波がこの春よりはるかに強烈なものとなる可能性は否定できない。これが常識である。なめてはいけない。
・「寒い地域の病気」はウソ
つい先だってまで、インフルエンザは寒いところで流行るもの、と思い込んでいた。
ただ、それにしては夏になってもじりじりと患者が増え続けるのはどうしたことか。そこで、先日「ウイルスは季節に関係なく拡散しているのではないか、と疑わせる」と根拠もなく書いたが、最近の定説は私の山勘どおりだった。
インフルエンザは熱帯地域でさえ年間を通して穏やかに流行っている。
だが熱帯ではマラリアやデング熱など、臨床症状がインフルエンザに似ているので、インフルエンザと診断されなかった可能性が否定できないという。人口当たりの死亡率は温帯・寒帯地域より高いという報告さえある。
新型インフルエンザの蔓延を経験した兵庫県医師会は、「兵庫県においても、初期規制の徹底で一旦ゼロとなったものが、再 び5月を上回るレベルになりつつあり、全数調査の全国的中止
にもめげず、可能なPCR検査実施による確定数は増え続けています」と報告している。
日本では、新型インフルエンザは冬であるオーストラリアなど南半球に移っていったという一服感が支配的だ。世界中で笑いものになった日本のあの“マスクマン”も見かけなくなった。マスコミもあの騒ぎをお忘れになってしまったようだ。
しかし、ウイルスは日本だけでなく北半球のイギリス、ドイツでも決して衰えてはいないとWHO(世界保健機関)に報告している。
いまや新型インフルエンザは「地域の寒暖に関係なく1年を通して穏やかに流行している」というのが常識である。
最近の厚労省の報道リリースを見ても緊張感はない。
記憶に新しい水際検疫作戦は、世界の非常識だったことを最近になってしぶしぶ認め、方針転換に踏み切ったが、日本国内の企業は秋口に備えてマスクの買いだめに走っている。
やはり、この際の世界の常識は、WHOのホームページで確認するしかないと私は考えている。
ジャーナリスト「石岡荘十」
2015年06月29日
◆傷だらけでやっとたどり着いた傘寿
石岡 荘十
「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」。つまり、わが身体は両手・両足から毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から頂戴したものである。それを大切に守っていわれもなくいたみ傷つけないようにする。それが孝行の始めなのだ、と「孝経(孔子)」は謂う。
そこで、振り返ってみると、小さいころはよく悪ガキどもと喧嘩をして頭から血を流して帰ってきたり、柿ノ木から転落してウデを骨折したりして生傷の絶えることはなかった。
しかし幸いなことに、父母の存命中には入院するような大病もせず、30歳で母を、50歳で父を失った。その後、一度も医療保険の世話になるような大病もせず、還暦に達した。
ところが64歳のとき、心臓にある4つの弁のうち、全身に血液を送り出す最後の扉とでも言うべき大動脈弁の不具合が見つかった。手術は喉元から鳩尾まで胸骨を24センチ、真っ二つにのこぎりで縦割りにして胸板を観音開きに---。心臓を露出、大動脈弁を切り取って、代わりにチタンとカーボンで出来た人工の弁に置換するという怖い経験を強いられた。このとき初めて、遺言書を用意した。両親ありせば、親不孝もいいところだ。
そして14年後の78歳のとき(一昨年)、今度は心臓の中の血液の流れでいうと大動脈弁の川上にある僧帽弁に不具合が生じた。これまた人工弁に取り替える手術が必要となった。二度目の心臓手術も胸骨を縦割り。
インフォームドコンセントでは、手術で1ヶ月以内に死ぬかもしれない確率(予測死亡率)40%、つまり10人のうち4人は死ぬかもしれないというリスキーな手術だった。
手術前夜、病室のベッドの中で2度目の遺言を書いた。手術は10時間、入院は70日に及んだが、よく耐えた。ただ麻酔覚醒まで丸々4日間かかった。そのせいで、しばらく“麻酔ボケ“が残った。
一般病室に戻ってテレビをつけると見覚えのある女優さんが写っていた。だが、名前が出てこない。見舞いに来ていた妻に「だれだっけ」と訊くと、「なに言ってんの?あなたの大好きな吉永小百合さんでしょ---」
長期の入院で足が萎えていた。体重は14キロ減。退院直後から、歩行訓練開始。5000歩歩けるようになるまで、3ヶ月の苦しいリハビリだった。それなのに親不孝はまだ続く。
傘寿を2ヶ月後に控えた3月はじめの深夜、腹痛で目が覚めた。息子をたたき起こして行き着けの病院へ駆け込んだ。CT検査の結果をPCで見ると、胆嚢にそらまめ大の2つの白い影(胆石)が写っている。
その上,胆嚢そのものも相当化膿して、周辺臓器と癒着している。で、そのまま入院。出来るだけ早く胆嚢摘出手術を、とのご託宣である。
胆嚢は動物性の脂肪を消化する胆汁を蓄えるいわば倉庫であり、大量の肉を食った後などに十二指腸に分泌され、消化を助けるということになっている。
しかし、これを摘出しても、必要なとき肝臓から胆汁が分泌されるから問題ない。盲腸(虫垂)が役立たずのなくてもいい臓器だということは若いときから知っていたが、胆嚢もまた無ければ無くともいい臓器であることを、思い知った。10人に1人は胆石を持っているといわれ、毎年20万人が胆嚢摘出手術を受けている。
手術は、鳩尾から臍まで縦に16センチの開腹。喉元から測ると心臓手術の傷とあわせて、臍まで真直ぐ40センチの手術痕が残った。これで、帝王切開をやれば,マージャンでいう「一気通貫」---だが、これはあるまい。
それにつけても、還暦後3度の大手術、トータル120日の入院で、髪や皮膚どころか内臓まで切り刻む満身創痍---それでも、しぶとく大手術に耐える生命力を授けてくれた両親に、改めて感謝しながら迎えた傘寿である。20150620
ジャーナリスト「石岡荘十」
2015年06月23日
◆いちごの生産者だった夏
石岡 荘十
「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が掲載した「いちごの話」を読んで、思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。
敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ~」のあの寒村だ。
生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。
ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。
間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。
夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。
取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。
草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。
何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。
それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。
高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。
高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。
70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。
それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。
ジャーナリスト「石岡荘十」
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