8月15日を凝視すると―対米戦争開戦の責任―
8月15日を凝視すると―対米戦争開戦の責任―
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加瀬 英明
毎年暑い夏が巡ってくるたびに、日本が先の戦争に敗れた記憶が、まるで昨日の出来事のように甦る。
今年で先の大戦に敗れてから、68年がたった。戦争が始まった昭和16年から、かりに68年遡ると、明治7年になる。日清戦争の21年前だ。
先の戦争について振り返れば、多様な見方と、異なった記憶が存在するはずなのに、終戦記念日になると、毎年、なぜきまったように、「二度と戦争は戦いません」という、まったく同じ「記憶」が蒸し返されるのだろう
かと、思う。
テレビも新聞も、日本が悪かったから、戦争になったという、たった一つの見方によって、支配されている。「日本がなかったらよかったのだ」という、日本の存在を否定するものだ。
先の大戦を招いた責任について、アメリカと日本のどちらの方が、大きかったのかといえば、アメリカが責められるべきである。
私と『ニューヨーク・タイムズ』紙の初代東京支局長をつとめた、ヘンリー・S・ス
トークス氏との共著『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(祥伝社新書、平成24年)を、お読みいただきたい。
8月15日の記憶
敗戦の年に、私は国民(小)学校の3年生だった。
父を東京に置いて、長野県に疎開していた。夏休みがなく、級友と日本の必勝を信じて、毎日、炎天下で軍馬の秣(まぐさ)狩りに動員されていた。
8月15日の記憶といえば、幼かったから国が敗れるという意味を、深く理解することができなかったために、どうして母が「これから日本男子として、頑張るのよ、日本を立て直してね」と、嗚咽(おえつ)しながら私を繰り返して諭したのか、分からなかった。
10月2日に、母寿満子とともに東京に帰った。上野駅に降りると、見渡すかぎり焼け野原だった。四谷のわが家も、焼失していた。
父俊一は外務省北米課長を兼ねていたから、アメリカ占領軍との折衝で忙しかったために、四谷信濃町にあった借家に遅くなって、戻ってきた。
父はその1ヶ月前に、横浜沖に浮ぶ戦艦ミゾリー号の艦上で行われた降伏調
印式に、重光全権に随行して出席していた。
私は父に会うと、子供心に「東京がこんなに壊されてしまったけれど、日本はどうなるの?」と、たずねた。すると、父は「アメリカは日本中を壊すことができるが、日本人の心を壊すことはできない」と、いった。私はこの父の言葉を今日まで片時も忘れたことがない。
母も、凛としていた。母は32歳だった。母が遺した日記が、手元にある。
9月14日に、「二、三日前の新聞より毎日の様に戦争犯罪者としてリストをあげて大変だが、同じ日本人としてお気の毒だ。益ゝ壓迫を受け、しっかりとした心の準備が必要と思ふ。唯ゝ勝つ国勝てなかった國、人の魂まではアメリカでも裁判出来ぬ。
アメリカは日本人を再教育せねばならないと盛んにとなえてゐるが、第二の国民がつまらないアメリカ気風にかぶれたら、大変だ。私共の指導する責任は重い」と、書き込まれている。
ミゾリー号の降伏調印
父は新島襄のアムハースト大学と、ハーバード大学で、母もイギリスで学んでいたから、私はアメリカが田舎者の国で、日本より劣っていると聞かされて、育った。
中学に進んでから、ある日、父にミゾリー号の降伏調印に列席した時の心境を、たずねた。
すると、「重光(全権)も、ぼくも、日本が戦ったことによって、西洋の植民地支配を受けて、数百年にわたって自由を奪われて、苦しんでいたアジアの人々を解放した。戦いには敗れたが、日本が歴史的な大きな使命を果したという意味で、この戦争に勝ったのだという誇りをいだいて、甲板を踏んだ」という答が、戻ってきた。
映画『ムルデカ』制作の志
12年前に、私は東宝から先の大戦に当たって、日本がインドネシアを解放した、劇映画『ムルデカ』(インドネシア語で独立)を、製作した。
日本の敗戦後に復員せずに、2千人の日本兵と残留して、インドネシア独立軍に身を投じた青年将校の主人公が、独立戦争最後の戦闘に勝った時に、オランダ軍の流れ弾に当たって、インドネシア人の恋人の腕のなかで、息を引きとる。
私は恋人に、「タケオ(主人公の名)死なないで! 日本は国家として敗れたけれど、民族として勝ったのよ!」という、台詞を叫ばせた。
父は「歴史を振り返れば、戦争に勝ったり、負けたりするものだよ。優れている者が、負けることだってある」と、教えてくれた。日本が劣っていたから、負けたと思ったことはなかった。
8月15日前後になると、テレビは終戦の特別番組を放映する。
今年も、そうだった。80代終わりか、90代になる下級将校や兵が、戦 争を回想している。将官や佐官であれば、戦争を大局的に回顧することができるが、下級兵となると、与えられた狭い任務の範囲でしか、述べることができない。
当然、悲惨な体験に限られる。勝ち負けを問わず、戦場は苛酷だ。なぜ、先の戦争を俯観することが、できないのだろうか。
『フーバー回想録』の真意
一昨年、アメリカで『フーバー回想録』が出版された。ハーバート・フーバーといえば、ルーズベルトの前任者として、大統領を1期だけ務めたが、任期中に世界大恐慌に見舞われたために、ルーズベルトに1931(昭和6)年の選挙で敗れた。
フーバーは回想録のなかで、ルーズベルトの対日政策を詳細に検証して、ルーズベルトが一方的に日本に対米戦争を強いたと、説いている。
フーバーは戦後占領下の日本を訪れて、マッカーサーと会い、ルーズベルトを日本に戦争を仕掛けた「狂人だ」と呼んでいる。回想録によると、マッカーサーも同意した。
8月15日の敗戦をきっかけとして、日本国民の大多数が、先人たちが営々として築いてきた偉業を、まるで擦(す)り切れた草履(ぞうり)のように捨ててしまった。敗戦の日までは、誰もが日本を固く信仰していたというのに、国民のほぼ全員がそれまでいだいていた信条を、棄ててしまった。このようなことは世界に他に、まったく例をみないことである。
日本は精神を疎かにして、自立することをやめて、アメリカに従属してきた。歴代の政府は全方位外交ならぬ、全方位謝罪外交を繰り返してきた。
講和条約を結ぶことによって独立を回復したはずなのに、精神を喪失してきた。
今日の日本では、食料自立、エネルギー自立といえば、全国民が喝采するのに、精神の自立といっても、誰も振り向かない。
「戦争を二度と戦ってはならない」というのは、国家の独立を否定することに通じる。
ときには国を護るためには、矛(ほこ)をとって戦うことも必要である。
それがなければ、独立国家を営むことはできない。
8月15日になると、靖国神社に参拝して、平和を想い、「不戦の誓 い」を立てるというのも、敗戦による平和を受け容れるようで、違和感を 覚える。
首相が参拝するのであれば、春秋の例大祭のほうがふさわしいと思う。
小泉八雲として1890年代に日本に帰化した、ラフカディオ・ハーン が多くの日本人にとって信条は、「サイコロジカル・コステューム」(心 理的な衣装)のようなもので、流れが変わると、脱いだり着たりすることができると、揶揄(やゆ)している。
明治の文明開化によって日本人が一変したことを観察したものだが、きっと敗戦をきっかけにして、ふたたび御一新がもたらされたのだろう。