2008-05-21 22:41:47

自虐史観から抜け出してよ~

テーマ:紹介

硬派的題目 ▽▼             by OJIN

☆ 自虐史観から抜け出してよ~ ――――――――― 2008/05/21
日本人と中国人が罵りあいを繰り広げることで有名な某BBSに「チベット人は中国人を殺して欲しい」という題で、(たぶん)日本人と思われる人物からの以下のような投稿がありましたので、その主張の是非はともかく、自虐史観をかなり素直に信じておられるようなので、日本人中国人双方からどういう反響があるだろうか、という期待も込めて自虐史観覚醒を!と一文を投じてみました。しかし残念!罵り合いでは実に盛大な応酬を繰り広げる日・中のどちらからも、1個の反響を得られませんでした。罵り合い掲示板なんて所詮そんなものなんですかね~
┌──────────
チベットの人たちが少しずつ頑張り始めましたね。チベット人は侵略者中国人(漢民族)をどんどん殺して欲しいです。中国人(漢民族)は侵略者なのだから、殺されるのは当然のことだし、侵略者は殺されなければならないと思います。かつて日本は中国を侵略した。だから我々日本人はそのことを反省しなければならないし、中国も我々日本に反省を求めている。このこと自体は正しい。しかし、日本による中国への侵略を非難する一方でチベットを侵略している中国人(漢民族)は頭がおかしいとしか思えない。奴ら漢民族はチベット人にどんどん殺されるべきだと思う。極悪非道な侵略行為を行っているのだから。

しかも中国人(漢民族)が侵略支配しているのはチベットだけではない。ウイグルも奴らは侵略している。だからウイグルの勇気のある人は中国人を殺そうといつも頑張って努力しているのに、中国人(漢民族)はウイグルの独立運動家達をテロリスト扱いする。奴らどうかしている。侵略支配しておきながら、殺されたら文句をいう、こんなおかしな話はない。中国人(漢民族)は内モンゴルも侵略して植民地支配している。さらには満州も侵略して植民地支配している。かつて日本が満州を侵略して植民地支配した。このことを非難すること自体は正しい。

しかし、その非難を行っている中国人(漢民族)自身が満州民族を侵略して満州を植民地支配しているのは欺瞞以外のなにものでもない。
チベット人、ウイグル人たちにはぜひ頑張って欲しい。そして一人でも多くの中国人(漢民族)を殺して欲しい。そしてそのためには北京オリンピックの場でも何でも利用して欲しい。侵略者が殺されるのは当然のことなのだから。
└──────────
侵略者中国人(漢民族)をどんどん殺して欲しいです!」という激越な主張はまあちょっと措いときまして、この投稿には基本的な誤謬が含まれています。
1.「かつて日本が満州を侵略して植民地支配した」
2.「かつて日本は中国を侵略した」

日本がいつ「満州を侵略して植民地支配した」のでしょうか?
ーーーあまり古い時代のことをいっても意味がないでしょうから省いて、清朝の頃から辿ってみます。

清朝の前の明朝の時代、明朝の北方の最大版図は、松花江東部の満州から現在のロシア沿海州一帯にまで及びましたが、万里の長城の北側の地まで直轄統治できる力はなく、朝貢国≒独立国に近い従属国)程度の支配形態でした。そして、さて清朝ですが、
┌──────────「ウィキペディア(Wikipedia)の記述を引用)」
17世紀初頭に、明の支配下で満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ=太祖)が、1616年に明の軛[くびき]を脱して建国した後金国が清の前身である。その子のホンタイジ=太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に、元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元朝の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲と改めた。
順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅亡。
清は、明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に、清は首都を北京に遷し中国支配を開始した。
└──────────
清朝は、漢民族とは異なる満州民族が興した王朝で、中国中原「をも」支配した王朝です。ーーー日本でも朝鮮でもいいですが、別の民族が中国中原を支配して、後に力が衰えたのに乗じて漢民族がその王朝を倒して「独立」した場合日本や朝鮮も、自動的に「独立した漢民族の国」の領土になるのか?
ーーーこれが第一点。

で、その後の経緯は、
清朝は、万里の長城北側の清の故地、満州の地を、満洲族保護のために漢民族の移住を禁止=封禁策)していましたが、19世紀末になってロシアの圧力がかかってくるようになると、領土権の保持と防衛のために禁を解除、漢民族も移住できるようにしました。

しかし、清朝末期の1900年、扶清滅洋[ ふしんめつよう] をスローガンとする義和団の乱が勃発、西太后=清朝政府もこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となる。だが、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は敗北。

この時に欧米列強国軍のひとつであったロシアは満州に兵を進め、戦後もそこに居座って占領を継続、もしその後日露戦争で日本が勝利しなければ、満州は完全にロシア領にされていたでしょう

ただ日本は、日露戦争に勝利したからといって直ちに満州自体を支配したわけではなく、戦勝によってロシアから獲得した大連周辺の関東州と南満州鉄道の権益を収めたに過ぎません。そして満州全土に権力の空白が生まれた空隙を利して、馬賊出身の張作霖が軍閥として頭角をあらわし、満州王と呼ばれるほどの威勢を振るうようになる。
ーーーこの頃、満州民族の国「清朝」が崩壊。

┌──────────「帝国電網省の記事より抜粋引用」
1911年の武昌蜂起に始まった辛亥革命は支那全土に波及し、翌1912年1月1日、孫文が臨時大総統=大統領)に就任、漢民族の国「中華民国」が成立。しかし、成立したとはいえ清朝が崩壊した訳ではなく、かといって民国政府も、発足したとはいえ全土を掌握する実力がある訳でもなく、情勢は混沌としたままだった。こうした中、時の実力者・袁世凱が清朝・民国政府両者を仲介「ある条件」を以て宣統帝・溥儀=ラストエンペラーの「退位」を引き出し、同年2月20日宣統帝が「退位」し、約300年間続いた清朝は滅亡。その「ある条件」とは、一般に『退位協定』と呼ばれるもので、その中に清朝にとっての各種優遇条件があったから宣統帝も退位を受諾したのですが、中華民国政府が清朝と締結した退位協定の抜粋。
┌--------
・大清皇帝=宣統帝・溥儀)は辞位=退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
・大清皇帝は、年金として毎年400万両[テール]を中華民国より受領する。
・大清皇帝は、暫時、紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
大清皇帝の宗廟・陵=墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護
 する。
・先帝・徳宗景皇帝=光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀式も旧制のままとする。
・紫禁城内の各職員は従来通り使用できる。但し太監=宦官)は今後採用できない。
・大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
・禁衛軍=皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
└--------

支那王朝史上、幾多の皇帝・王がその地位を失い、玉座から引きずり下ろされてきました。所謂「廃位」です。そして廃位された皇帝は「廃帝」←但し王朝最後の皇帝は「献帝」「哀帝」「末帝」等、諡号[おくりな]は様々)と呼ばれ自殺した者、殺害された者も多く、生き永らえたとしても「庶人=平民」に落とされ、惨めな生活を送ることとなった者も数多くいた。

しかし、溥儀は確かに「ラストエンペラー」ではありましたが、決して廃帝ではなく、形式上、中華民国政府によって「放伐=支那人の易姓革命観に基づくもので、徳を失った皇帝を討伐して放逐する事」されたのではなく、「禅譲=皇帝が帝位を世襲せずに徳の有る者に譲る事」したことになっていました。溥儀が無理矢理帝位から引きずり下ろされたのならば「廃帝」ということになるわけですが、彼は禅譲したので「遜[そんてい]=帝位を譲った元皇帝」と呼ばれました。そして遜帝であった証拠が『退位協定』における
┌--------
大清皇帝=宣統帝・溥儀)は辞位=退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
└--------
だった訳で、退位後も皇帝の尊号を名乗る事が許され、「皇居=紫禁城」に住み続け、高額の年金を支給され、側近等の使用人もそのまま使い続ける生活をも保証されたのです。中華民国政府にとって溥儀は、新政府に「禅譲」した「先帝陛下」という事になり、その事実からは、中華民国は正に清朝の「後継国家」ということができます。ーーーしかしそれでも中華民国は清朝の「後継国家」ではない。何故、中華民国が清朝の「後継国家」ではないのか?ーーーその答えは、その後の歴史が証明します。『退位協定』締結から僅か2年後の1914年2月、清朝と中華民国政府を仲介し、『退位協定』の締結に深く関与した袁世凱=この時中華民国大総統)が公布した大総統令
┌--------
大清皇帝=溥儀)は、本日を以て永久に皇帝の尊号を廃除し、中華民国の一国民として、法律上一切の権利を同等に享有する。
└--------
によって、いとも簡単に反古にされてしまいました。つまり大総統令は「遜帝」或いは「先帝」である溥儀を「中華民国の一国民=庶人」に落とすと宣告したのです。(満蒙の皇族についても同様) しかも溥儀らに何の相談もなく一方的に――――。
『退位協定』はれっきとした契約であり、契約というものが当事者間の交渉で改定或いは廃棄されることを考えると、これは明らかな「契約違反」です。溥儀らからすれば、到底受け入れることなどできる筈がなく、彼等は民国政府による一方的な契約変更を認めず、『退位協定』を盾に従前同様の生活を続けたのです。ーーー民国政府側は『退位協定』の一方的な変更後、更に輪をかけるような行為を繰り返しました。

1924年10月23日、時の権力者・呉佩孚の部下の馮玉祥がクーデター=北京政変)を起こし首都北京を占領、呉佩孚を追放すると、同年11月5日、馮玉祥は軍を紫禁城に差し向け、溥儀等を紫禁城から追放しました。溥儀等は天津租界の日本公使館に保護されました。しかし、事はそれだけでは終らず、民国政府は主人=溥儀)を失った紫禁城から、清朝皇室の財産を悉く没収し、財宝の掠奪を欲しいままにしたのです。そして更にあろうことか、西太后を始めとする清朝歴代諸帝の御陵にまで軍兵を差し向けて盗掘し、副葬品として埋葬されていた財宝までをも掠奪、それらを売却して軍費に充当したのです。
----この経緯は、現在のチベットにおける北京政府とチベットとの「17ヶ条協定」の締結→反故の推移と全く同じです。


話を中華民国が清朝の「後継国家」であったか否かに戻しましょう。
ここまで見てきたように、中華民国が清朝との間に「退位協定」を締結し、宣統帝・溥儀から「禅譲」という形で政権を移譲されたことは確か。しかしその後、一方的に『退位協定』を変更、協定に明記されていた各種条項を悉く反故にし財産没収・財宝掠奪等の暴挙を働いたのです。つまり、中華民国は清朝から「禅譲」された政権の「正統性」を自ら放棄した=後継国家としての地位を擲[なげう]ったのです。
└──────────「抜粋引用ここまで」

満州の張作霖は、さらに南侵して北京を占領、1926年12月、北京で大元帥に就任し、自らが中華民国の主権者であると宣言したが、蒋介石の国民革命軍との戦闘に敗れて北京を逃れ、列車で根拠地である奉天へ向かう途中、奉天近くの皇姑站で列車を爆破され重体となり、自動車で私邸に担ぎ込まれたが、程なく死亡。
そして関東軍が、清朝最後の皇帝、溥儀を援けて満州族の故郷満州を独立させました。
ーーーこれを例えていうならば、
300年前に日本が中国を征服して天皇が北京に移り、中国も日本も含めて統治していたが、政権衰えて漢民族の革命運動で各地に割拠鼎立状態となっているところに、

「禅譲してくれたら身分も財産も保証しますから」
といわれて契約したら、契約を一方的に破棄されて、身分・財産剥奪、住まいからも追い出されてアメリカ大使館に逃げ込んでいたら、「あなたの昔の故郷の日本を独立させる手助けをしてあげるから、日本に帰りなさい」といわれ、アメリカの助けを借りて日本は独立、天皇に復帰した――――。
ーーーこれと同じことです。?どこが侵略・植民地支配なんでしょうか?
ーーーさてもうひとつ、「かつて日本は中国を侵略した」でしょうか??

中国を巡る当時の状況を、一つ一つの細かい事象はともかく、大まかに俯瞰してみますと、「清朝末期から日中戦争に至るまでの時代背景」は、イギリスがインドからヒマラヤを越えてチベットを勢力下に収め、アヘン戦争で獲得した香港から広東省を、上海から揚子江を遡りながらジワジワと侵蝕、フランスは仏領インドシナから広東省・広西省へと勢力を浸透させつつあり、ロシアは、義和団事件のドサクサに乗じて満州へ兵を送り込み、事件解決後も居座って撤兵せず実質的に支配し、次いでモンゴル・新疆も勢力下に収め、さらに南侵のチャンスを虎視眈々と窺う。そして合わせて朝鮮にも触手を伸ばし遂に日本と衝突して「日露戦争」。それで負けて満州からは撤退しましたが、その段階では日本が満州を支配したわけではなく権力の空白地帯となり、少し経ってから張作霖軍閥が満州を支配した――――。

ーーーこうした状況を、日本が何もせず放っておいたとしたら、その後の推移はどうなっていたでしょうか?

例えば日露戦争を戦わなければ、満州は完全にロシアのものになってしまったでしょうし、朝鮮は、よくて保護領、推移によってはロシア領。ロシアは当然モンゴルや新疆からさらに南侵政策を進めたでしょうから、当時の清朝に抗う力などなく、華北・山東あたりまでが多分ロシアのものとなった・・・・
イギリスやフランスも、もし日本が手を出していなければ、広東・広西、及び揚子江沿いの諸省を支配するようになっていたことでしょう。

こうして引き算してみると、中国などという国がどこに存在し得たでしょう?
そんな弱体の清朝に抗って勃発した辛亥革命!ーーーでもあれだって、最初の武昌蜂起はおっかなびっくりのオットリ刀。欧米列強が思うがままに勢力を伸ばして各地域の分捕り合戦を盛大に繰り広げている状態であったならば、成功することなど可能だったでしょうか?
わたしは無理だったと思います。ーーーかくして中国は列強の分割植民地。そして、そうなってしまえば、四つの島と、日清戦争で得た台湾しかない丸裸の日本も、やがては何れかの国の膝下に組み敷かれることになる――――。

現在だってもしアメリカの後ろ盾がなければ、現代の覇権国家中国によって、尖閣諸島や沖縄県なんてたちまちフィリピン沖の南沙諸島やチベット化の運命が待ち受けているんじゃないのでしょか?

当時の列強による中国植民地化計画(?)は、インドや東南アジア地域のように完整はしておりませんでしたから、現在からみるならば恰[あたか]も独立国であったかのように錯覚してしまいますが、しかしその実態は、まさに呑み込まれてしまう直前の、分割されて完全植民地にされる一歩手前の状態、だったのです。また、天津や北京、上海に日本の軍隊が駐屯していたのは侵略していた証拠、という誤解が蔓延しているようですが、それは間違いです。それ以前の様々な条約によって清朝政府と取り決めした上での駐屯であって、現在の日本に米軍が駐留しているのと何等変わるものではありません。
------在日米軍が日本を侵略している、とは言いませんでしょう。
ーーーどうして日中戦争になってしまったのか?
当時の世界的大不況により欧米が進めていた「ブロック経済圏」に対する日本の「新たなブロック経済圏構想」との衝突が、日中戦争→大東亜戦争の原因なのです。ご存知のとおり、今も昔も日本の経済はアメリカ依存体質です。しかし、当時のアメリカのブロック経済圏の枠組みには日本は入っておらず日本の自立の為には米英と同じようなブロック経済圏を作らなければなりませんでした。その構想は、日・満・支を中心としてアジア全体をひとつの経済圏として確立させることでしたから、その中心のひとつである支那がいつまでも不安定では困るわけです。しかし米英にとっては、逆に日本主導での支那安定では自分たちの権益が失われる可能性があり、容認できるものではありません。ーーーですから、蒋介石が簡単に日本との戦いに負けてもらっては困ることになります。

そして開戦は、中国国民・軍部の反日侮日気分の昂揚日中両国を戦わせて漁夫の利を得んとするコミンテルンの策謀、日本の力を削ごうと、蒋介石政権を経済・軍事両面で支援するアメリカ、さらに他の要因なども絡み合った縺[よじ]れの果てに、蒋介石軍が上海で軍事行動を起こし、応戦した日本軍は上海から南京、北では天津から北京へとズルズルと拡大泥沼化に陥り、引くこともできず8年も戦わざるを得なくなっていったのです。中国での直接戦闘相手は蒋介石国民政府とでしたが(別に和平路線の汪兆銘国民政府があったので区別)その実態は、中国権益を守ろうとするイギリスや、得ようとするアメリカが後援する代理戦争で、実質的には米英との戦争だったのです。中国に対しては、植民地にするためにというのは論外としても、では「侵略」だったのかという見方についても、そんな簡単に断定できるような単純な図式でなかったことは確かです。

当時は「侵略」という言葉の定義すら明確になっておらず、「弱肉強食」いわゆる「帝国主義」時代でした。日本も、のんびりしていたらどのようになっていたか分らない時代だったわけですから、なんと言われようと「日本の国益を優先」するのが当たり前です。ーーーそれを、侵略だから良いとか悪いといえるのは、今の時代だからです。当時は、どんなことをしても国益を守り、広げていくことが「正義」であった時代です。――――日本も、植民地にならないように明治維新を成し遂げ、富国強兵・殖産興業を国是として近代国家に変えなければならなかったのです。「そうしなければ生き残れなかった時代」でした。だから「そのどこが悪いのですか?」「なぜ、反省したり謝罪したりしなければならないのですか?」「侵略」の定義は、1974年の国連において定められましたが、現在でも何をもって侵略とするのかには異論があります。例えば、旧ソ連の「アフガン侵攻」、現在進行形である中国の「チベット及び新疆ウイグル自治区解放という強弁の侵略」ーーーこれらについて、ソ連も中国も「侵略ではない」と強弁しています。

第三者から見て「侵略でしょう」と言っても、現在においても、当事者にその感覚がないのですから、戦前の侵略をどのように定義すればよいかは大変難しい設問です。ーーー参考までに現在の「併合」と「侵略」の定義を添えます。
・併合:国際法上、ひとつの国家が他の国家、またはその領土の一部を自国のものにすること。

・侵略:ある国が、自衛ではなく一方的に他国の主権・領土・政治的独立を侵すこと。

ーーーこの二つの違いは、国際法に則るか、武力によるか、の違いです。= おわり =
~~~~

日本のお姉さんの意見。↓

歴史を学ぶと、漢人は、ウソつきだということです。

契約や約束を守るとかいう

決まりが無いのでしょうかね。

守らねばならないという感覚が元々無いから

ウソをついたという感覚も無いのでしょう。

歴史によると、チュウゴク人(漢人)が

約束を守ったことって、無かったと思います。

何か守ったことがあっただろうか?

歴史を勉強すると、無いです。

これからは、国際社会で重要な国になるために

約束を守るのかなあ。オリンピックをするから、

人権を守ると約束したのに、チベット人を簡単に

殺すし、空気も悪いままでしょう?

ウソついてますね。これからも、ウソをつくと思います。

歴史を勉強すると、チュウゴクの漢人は

ウソばかりついていますからね。そんなに

直ぐに性格は変わらないと思います。

その時、その時は、本気で約束しているけど、

直ぐに気が変わるんでしょうか。信用できない国です。

じゃあ、どの国が信用できるかと言えば、

イギリスは、チュウゴクよりは、信用できるかもしれない。

イスラエルに国を与えると約束して、その通りになったし、

香港をチュウゴクに約束通り返還した。


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