『権力と戦うことについて』
権力者の横暴な振る舞いによって、
弱い立場の人が傷つけられる、という事は、
どの時代にも起こり得ることです。
日本の中では、戦中戦前の、
軍国主義が社会を支配する中で、
残酷な政策の下に屈服し、
命を落とした人がたくさんいました。
それはその時代に特有のものではなく、
平和な今の時代にも生じるものです。
回避しにくい関係性の中で、
誰かが一方的に傷つくという意味で、
学校のいじめも、上司のパワハラも、
構造的には同じなのです。
そして、抗う事ができなかった悔しさを、
そのままにしてはおけないと、
傷を受けた者同士が集まり、一致して、
権力を持つ国家や特権階級と戦うのです。
それは社会変革の力として、
尊いものです。
しかし、気をつけたいと思うのは、
この場合の、怒りを向ける対象が、
国家や特権階級などの、
いかにも強い何者かになるという事です。
怒りを向けるべき敵は、
そこだけにいる訳ではないのです。
悪い国家があるとして、
その国家を構成するのも、人間です。
そして、悪い国家の中心にいる為政者が、
特別に悪い心という訳ではないのです。
おそらく、誰もそう違わない程度に、
自分も含めて、悪い心なのです。
悪い権力と戦っている自分も、
どこかで誰かをいつの間にか抑圧して、
恨みを買っているかもしれないのです。
聖書の中にはダビデという、
小石ひとつで巨漢を倒したという、
多くの支持を受けた英雄が登場します。
ダビデは一国の王となりますが、
王政が安泰だった頃に、
人妻を宮殿に呼んで関係を持ち、
子供ができた事を正当化するために、
人妻の夫を戦地に送って秘密裏に死なせる、
という大罪を犯します。
英雄として持て囃された優れた人の中にも、
間違いを犯す心が、
もれなく含まれているのです。
なので、本当に戦うべきなのは、
誰もがもれなく持つ、
心の中にある悪い性質としての「罪」です。
イエス・キリストは、私たちが、
「罪」に勝利するために、来られました。
いつも読んで下さり、
ありがとうございます。