「かくも愛おしい世界にいて」
表現者は、内面の動きを感じて、はじめて表現することができるんじゃないかって思う。
どうしてかというとね・・
それを表現することで、何かと繋がり、自分の中の何かが、また動く
・・それは、孤独な自分という開拓の道に光を灯すように、それぞれに繋がっている。
狭い世界に囚われてしまっていては、表現できる世界は、狭くてチープなものになり、繋がりは狭く、ごくごく少ない場面に限定的になっていく。
その狭い世界の色は、どんなにか 汚れている訳でもなく、色が増える訳でもなく
ホントにきれいなものも、ホントにたのしいものも わからないままにちがいないけれど、今以上に動かないで済むから、安心だと思い込める。
こんなに苦労して毎日毎日、動いてきた自分なのに、それを否定することなんて何もない。
どんな環境の中にいても、これから動いている自分という内なる存在までも否定することなんてない。
今そこにいる自分を動かしているものまで、否定してしまわないように、そこにある自分という奇跡を、尊く愛おしく思っていてほしいのです。
ほんとの表現者でいられるためにも・・。
米津玄師「Lemon」→https://youtu.be/SX_ViT4Ra7k
はがゆくも愛おしいものが、苦いレモンというものに例えられているんだろうかね ほんとに感じたとこは、消えないから、それはいつまでも光でありつづけている。だから自分はいるのかもしんないな・・。