この平坦で無味無臭な社会に、感情を置き去りにしながら、ほんものの感性を磨こうとする青い表現者たちは、困難極まりない自分の素磨きに翻弄され、ほんとうを知ろうとすれば、するほどに、それは遠のいて見えて・・。
遂には、自分をも見えないまま、その幸せめいた不幸の中に追いやられてしまう。
えぐくて平穏な現代だからこその過酷な道になっている・・・。
そろそろ、ぼちぼち、ほんのすこしあったかくなってきているのか?
そんな些細な変化に目を向けることもなく日々をやり過ごす。「お帰り」が返ってこない家の中で、「ただいま」ってつぶやいて、カーテンを閉め、遅めの洗濯物を取り入れる。
選んだのは、コンビニの袋に入った弁当。それに飽きると、惣菜とご飯。
日々は、おんなじ顔をしている。
その思いも込めることはなく。表現は薄らいで・・。
そう、おんなじ顔・・・。
ぬうが、社会に出はじめた頃が最後の頃なのかもしれない・・・ホンモノ
使い捨てな事業者に、ほんの一握りの実らないホンモノ
あふれかえる焦燥感に
いろあせる煌めき
でも、そんな事業者も、誰の思惑なのか、救済されてしまう
いい国だね・・・表向きだけは・・
この中で、目には見えないけれど、見失ってしまったもの
無くしてきたものの存在は、ほんとうに大きい
結果しとて、一部の既得権益を守るだけの集団たちは
「自分に危害が及ばなければ、誰が、どんなに叫んでいても、どうでもいい」
をしっかりと育てていく
この幸せめいた不幸を、さも謳歌しているかのように、有象無象は振舞う
知ろうとしない存在の中で、埋もれていく苦悩
相当な苦労をしないと、本物の思いは揺さぶられることはない
ただでさえ、時間がかかる表現というツールの土台は、まず、その感覚の確かさを作るところから、はじめないといけなくなった。
そして、感じて、表現をしてみる繰り返しは、いろんな種類のポテンシャルを重ねて膨らませなければやってけない。
まずは、そのいっぽ・・・
自分の確かさと不確かさを知ろうとして分かること。
実感ってやつですな。
様相は変わっているが、そうは変わってないのかもしれないが、それでもやっぱり、このねじれめいたものに、とまどいは、付きまとう。
表現者になるか、そうでないものになるのかは、このいっぽを踏み出せるかにあるように思える。