大学時代の仲間を生き返らせるために、書きます | ぬめんちょ君、かく語りき

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辛辣は批評の精神です。そして批評は、進歩と啓蒙の根源なのです。


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僕が最も愛する作家がかつて言った。

「『時計じかけのオレンジ』を観た直後から日記を付け始めたんだ。
この作品から受けた衝撃を文字にして保存しておく必要性に駆られてね」



なるほど確かにその気持ちも分かる。
旅行先で日常から遠く離れた神秘的な風景に出くわした時にカメラのシャッターを押すことを避けられないように、移ろいやすく得難いものをいつでも取り出せる所にとどめておきたい衝動は誰にもあるものだ。


しかし、僕がこれからやろうとしていることは、それとは少し性質を異にする(と思う)。
僕が「とどめておきたいこと」とは、自分の感情・思考の変遷なのだ。

僕はこれから、おそらくは週に1度か多くて2度くらいのペースで、長きに渡った断筆からのリハビリテーションとして、読んだ本・観た映画・心に感じ入った言葉・日々考えていることなどをブログ記事としてアップしようと思っている。


そのとき表現したいのは、小説作品の素晴らしさ、映画のシーンの美しさなど、対象への眼差しではない。そうではなくて、それら作品を鑑賞した際に生じた僕自身の心の動き、思考の変遷を捉えて言語化したいのだ。
言語化してとどめておかないと、すぐにどこかに行ってしまう。


大学卒業時に、「これから二度と会えないんなら、死んでるのと同じじゃないか」と、それまで毎日のように顔を合わせていた仲間の存在の実体がなくなる気がして切なさを感じたが、それと似たようなロジックで「言葉も内容すらも思い出せない本なら、読んだ意味がない」。
(このように、僕は便宜的に唯脳的に物事を考えることがある)


「Tokyo Wander Wonder」(か、もしくは「Tokyo Wonder Wander」だったかもしれない)という表現者かぶれの溜まり場で出会ったF君は、「吸収するだけ吸収して、そしてそれを全て忘れ去ろうとしても、それでもなお残るものだけをとどめておけばいい」という方針に則り、読書メモやレビューブログの執筆を一切行わなかった。
なるほど確かにそういう考えもあるだろう。
なんかアーティストっぽくて格好いいし。

僕の敬愛する内田樹先生も、「教育とは、企業の四半期決算みたいに短期的に投下資本の回収を図るべきものではない」とおっしゃっている。「自分の人生は良きものだった」と死ぬ間際になって回想できるためにあると。

だがしかし、この短い人生の中で定量化できる成果を上げようと思ったら、そんな悠長なことも言っていられない。

「自分の人生は良きものだった的教育」にしたって、全教育行政のうち10%くらいの割合でその達成に寄与するものがあればいいのではないか?
残りの90%は目に見える形で価値を測れるものなのでは?
というか、90%の短期的に価値を計測できるような、手に取ってその重さを測れるような教育施策があってこそ、残りの定量化できないけれど本質的な10%だろう。


というわけで、何だか話がずれてしまったようだけれど、つまり、読書や映画鑑賞、日常の思考をその時に最も価値があるような形にして書き溜めておくべきだ、というのが今回の主張で、そのために、このブログを活用しますよ、という宣言です。

(このように、僕はシンプルに言ったらすぐ伝わることを回りくどく考える癖がある)


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