2005年08月21日(日) 14時26分03秒

人は立ち位置から自由になれないのだろうか

テーマ:ネット
ネット上のある出来事についてAという人がxと認識し、その認識を表に示した。それに対し、その出来事の周辺にいたBという人が「その認識は違う。xではなくyだ」と言っていた。

その出来事をリアルタイムで見ていた俺の認識では、それはxに相当して不思議のないものだった。少なくともBの人の認識は視野がやや狭く、客観性が欠けたものに見えた。

ここで、俺はBの人に対して認識の違いを示そうかと考えた。

それとは別に、俺は普段からAの人の言う内容に納得したり似た認識を持つことが多く、好意的に見ている人だった。また、Bの人については存在は認識していたが、好意も嫌悪も持っていなかった。

Bの人の今回の文章では、Aの人に対して感情的な非難を含んだ言い回しが見られ、俺はそれを不快に感じた。とても同意できない事実認識を元に非難していたからなおさらだった。

かなり迷ったが、俺はBの人に対して認識の違いを示すことをやめることにした。

なぜなら、感情と理性を頭の中でいくら切り離したつもりで単にBの人に対して率直に認識を示したつもりであっても、無意識のうちにAの人をかばおうという気持ちがこもってしまう可能性は否定できず、また、当事者であるAの人本人が反論できることをわざわざ当事者でない俺が反論するという態度は俺にとっては望ましくない、美学に反することであり、Aの人にとっても必ずしも嬉しくないことだと想像できるだからだ。

また、俺がそれを行ったときにさらなる第三者から見て、俺がAの人の取り巻き的に擁護しているように見られる可能性もあり、Bの人がもしそう認識した場合、俺の意見はバイアスがかかったものとして受け止められるだけで、ストレートには受け取ってもらえない可能性が極めて高い。二項対立の罠に陥る危険がある。結果として、俺の意見は当事者に対して何ら利益をもたらさない。


以上の俺の考え方は、立ち位置というものを多分に意識した上での振る舞いなのだが、立ち位置に対する距離の取り方は本当に難しいと思う。

まず、自分の立ち位置を意識するかしないか。これは自意識の問題でもある。自分の立ち位置ばかり気にする自意識過剰な態度は当然望ましくない。それによって不自然な形に自分の振る舞いは制限されるし、また、自意識過剰な態度が第三者から見て取れれば、それを気にしてさらに立ち位置を気にするという無限後退に陥る。

では、立ち位置は全く意識しないほうがよいかというとそうとも言い切れず、自分が意識しようとしまいと、立ち位置を意識した上で判断する第三者は必ずいるわけで、そのギャップによって、自分の意図したことを伝えられなくなるリスクに対してとても弱い。「どんなに誤解されようとかまわない。俺は俺が思った通りのことを言うだけだ」と強く割り切っても、肝心の伝えたい相手がそう受け取らずにこちらの立ち位置を見て曲解してしまえば、伝えたいことは伝わらず、ただの自己満足になる。

もしも誰もがそういった立ち位置に意識を奪われることなく自由にフラットな視線でものを判断できたら…とも思うが、タチの悪いポジショントークから身を守ることの大事さを考えるとそうもいかないし、内容によってはそれぞれの立ち位置を明確にしないと話が空虚になってしまうことだってある。

結局の所、自分の立ち位置をある程度認識しつつも、そこに対して感情を含んだ価値判断をせずに「俺はこんな感じに受け取られるかもな」くらいに距離を置いて認識するにとどめ、その立ち位置から言葉を発するのではなく、率直でありつつも客観的な視線に耐えられる言葉を発するように心がけるしかないんだろうか。
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2005年06月28日(火) 03時51分38秒

各種バトン関連の話題を横目に見ているとき、俺の心に童貞マインドが甦った

テーマ:ネット
この記事は自分の過去に通り過ぎた経験や感情などを踏まえて書いたものであって、特定の人々を揶揄、嘲笑、中傷する意図を持って書かれたものではないことをあらかじめお断りしておきます。脊髄反射にご注意ください。

まあ、実際にミュージカルバトンが回ってきたから書けるんですが。6/13にstrangeにミュージカルバトンが回って、それからすごい勢いであちこちの巡回先でミュージカルバトンのみならず各種バトンが回り出してバトン関係の色んな話題が飛び交っていたのを見ていたわけですよ、で、途中からだんだんと「バトンうぜえ」とか「バトン?回ってきたから適当にさばいたけどくだらないね」みたいな雰囲気の人とかを見て、俺の中にはわりと複雑な感情というか、「俺もバトンの話題に軽く触れたい。でも回ってきてもいないのに書くと物欲しげみたいでみっともない!かと言って否定的な態度を取るのも回ってこなくてスネてるみたいでカッコ悪い!」という気持ちが沸いて、とにかく心に波立てず横目に静観しよう、とか思っていたんですが、何となくいつか通った懐かしい感情だなと思ってそれは何かと考えてみたら童貞時代にセックスの話題が出たときの身の処し方とほとんど同じだったという。

別に気にしなきゃいいし、そんな気にするようなものではなくても、周りがその話題で持ちきりで、そして意図しなくても自ずと<経験者/未経験者>という分類をしてしまい、未経験ということで引け目を感じてしまい身構えてしまう心理、ああ、これは童貞マインドだなと。自分が童貞だったときを振り返ると、童貞だということを悟られたくない、だからと言って知ったかぶりするのは恥ずかしい、何より見抜かれたりしたら恥ずかしすぎる、だったら自分からカミングアウトしてネタ的に強調するか?いや、自虐は被害者意識が含まれているとそれがにじみ出てキモイ、じゃあどうする!?とにかく心を乱すな、気にするな、悟りだ!(0.2秒)みたいな。

まあ、バトンに関してはあっという間に話題も収束しつつあったから別にそこまで思っていたわけでもないですが、早々にバトンが回ってきた人が「バトンとかまじくだらねー」みたいな感じなのを見ると、脱童貞したばかりの人が「セックスとかまじくだらねー」とか言ってる姿を想起しました。これがいわゆる童貞の被害妄想ってやつなわけですが。

あと、いざバトンが回ってきた人がそのバトンに対する振る舞いで時に葛藤している姿も、初体験時のそれを思い起こします。そして例によって俺はここでも「できるだけ自然に、そんな葛藤は極力感じさせずに」という態度で振る舞おうとしている姿がやはりアレです。

ちなみにこの記事自体もそうやって置き換えてみると、ようやく脱童貞した奴がその途端に「俺も童貞だったときはさ~」みたいなことをのたまっている最低な文章ですね。何て恥ずかしい奴だ!以上、久しぶりに思い出した懐かしい甘酸っぱ苦い感情を噛みしめるように書きました。自意識バンザイ!

あと直接関係ないけど、ネットでよくDQNとカテゴライズされる人々は、自らを被害者的なオタクにカテゴライズしている人から蛇蠍のごとく忌み嫌われているけど、それは、DQNにカテゴライズされる人々が童貞マインド的な不安感を持たずに無根拠な自信を誇示している(ように見える)からそれが彼らの繊細な逆鱗に触れて敵視されているんだろうなと思いました。例えばはてなダイアリーの珍走団のキーワードなんかを見ると「イタイものを見るような視線を投げかけられているのを、注目されていると勘違いしている痛すぎる集団。」と書かれているわけですが、この一文から感じさせる自意識のありようなんかがまさに象徴的かな、と。
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2005年06月11日(土) 18時45分21秒

今のインターネットには自信にあふれた馬鹿が足りない

テーマ:ネット

最近更新さぼってました。色々書こうとかなと思ったネタ(←最近、取り扱い危険ワードに指定されました)はあったんだけど、どうにも不機嫌な内容になりそうで、そこをまたどう上手く骨折させるかも思い浮かばなかったのであまり書かないでいたらどんどんテンションが下がってやる気低下してました。数少ない定期巡回者の方々には軽くごめんなさいしておきます。

で、つらつらととりとめのない話を書くのだけれど、最近ネットを巡回していて思うのは、被害者意識を身にまとった攻撃性だったり、大義名分をかざして自分の感情を守ったみみっちい正論もどきだったり、何というか臆病で情けない人が目立つ。いや、別にそういうのは今に始まったことじゃなくて以前から普通にいて、単に俺がそういう人たちを最近よく意識することで特に眼についているだけでしかないとは思うのだけど。

個々の議論(という言葉が適切かどうかも疑問な、わりとどうでもいいせせっこましい話)についてはここでは触れない。それはめんどくさいし、何より、俺がそれらの話の一つ一つに対して「いや、それはこうじゃないか」みたいなことを書いてもそれを伝えたいと思うべき相手の耳には届かず、元々同じ意見を持つ人間に対する共感の道具にしかならないんじゃないかという絶望的な気分が大きい。


これはわりと以前から思っていることだが、ネットは説得のツールとしては向いていない。ことに、感情的に意見が対立しているときには。だからそういう意見の対立を目にしたときは、いかに二項対立の不毛の大地から抜け出すオルタナティブな視点を見つけるか、あるいはシニカルな態度と思われようと観察者に徹することで争い自体を消費して楽しむかというのが大事だと思っている。それ以外にもっとスマートかつみんな楽しめるやり方があればいいのだけれど。

しかし、立て続けにいくつかのトホホなもめ事を見ていて、しかもそのどれもにどうしようもない臆病な叫びを見てしまうと、やりきれなくなってしまう。そりゃ自分と相容れない意見なんていくらでもあるし、自分の好きなものを否定されたりしたら多少は傷つくでしょうよ。でも、だからと言ってその傷ついた感情をかさに着るように振り回してわめくのは小学生のやることだし、自分の感情を満たすために大義名分を持ち出して相手を叩くのはまさに厨房だ。

軽く5年かそこら前のインターネットを自分なりに振り返って思うのは、昔はもっと自信に満ちあふれていた人が多かった気がする。何というか、自信にあふれた馬鹿、これが本当に減った。自信にあふれた馬鹿という言い方では抽象的すぎて誤解を招くかもしれないから、俺がイメージする自信にあふれた馬鹿の一例をあげると、これ だ。見ろ、この自信たっぷりな姿。「Welcone!心から歓迎!」だぞ。「現在使用されている HTML の限界に類するモノもある様です」だぞ。こっちが限界だよ!

自戒をこめて書くが、今のインターネットに足りないもの、それは、自信にあふれた愛すべき馬鹿だ。何かに脅えて身を守りたくなったときは迷わずこれ を見よう。そして、心の奥底に沈んだ馬鹿魂を呼び戻せ。

Welcone!心から歓迎!

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2005年04月11日(月) 23時38分38秒

他者と関わり合うということ

テーマ:ネット
いきなり結論から書いてしまうと、他者と積極的に関わり合いたいと思う人は、極めて少ないのだろうと思う。

こと日本においてはそうだし、欧米の都市部のように人種、国籍が異なる人間同士の交わりが比較的多い地域にしても変わらないだろう。ただ、彼らは日常生活の上でそういった他者との交流をこなす必要があるゆえに、他者とのコミュニケーションのスキルも備えていれば必要性も実感しているのかもしれない。

まあ、外国のことはよくわからないから置いておく。日本を母国とし、日本語を話し、日本に生まれ育った一人の人間として実感を持って考えられるのは日本における状況くらいだ。たとえ海外に移住したとしても、strangerとしてしかその国、都市のことは考えられないだろうから。いくら想像力を働かせて相手の身になったとしても。

順序が前後してしまったが、ここで言う他者とは単に自分以外の人間を指しているのではない。共通の基盤が希薄で相互理解が必ずしも予期できない相手が他者だ。そして、これは同じ言語を使っていても当然存在する。同じ言語だからと言って一つ一つの言葉から双方がイメージするものが近しいとは限らないのだから。むしろかけ離れていて当然と思った方がいいかもしれない。

年齢や地域によって差はあるかもしれないが、30年近く前に都内のやや西に生まれた僕にとって、地域の身近なコミュニティは、かつてあった存在だ。人によっては今もそういったコミュニティの存在を実感しているかもしれないし、人によっては一度も実感したことがないかもしれない。

核家族化が問題視されたり、ワンルームマンションの建設に反対する運動があったりしたものの、時代の要請は地域のコミュニティを解体する方向に向かい、そしてそれは大部分において実現した。互いに没交渉、不干渉となる生活が訪れた。ともすれば、それこそが人を束縛しない正しい自由のあり方かのように喧伝された。

しかし、果たしてそれが本当の自由なのだろうか。結局のところ、かつてこの国にあったコミュニズムや父家長制からの短絡な反動に過ぎなかったのではなかろうか。だからこそ、本来ならコミュニティが消失して必然と他者との関わり合いが増え、コミュニケーションスキルが磨かれるはずにもかかわらず、大半の人はそのスキルを獲得していない。コミュニケーションスキルの代わりに便利なテクノロジーを使いこなすことで、他者との関わりから逃れることに成功してしまった。そして、人々は自分の居場所を求めて極小のコミュニティに属するか、国家全体を覆う巨大な価値基盤を夢見るしかなくなってしまった。

先に書いたように、他者とは相互理解が予期できない。だから、他者と接することはわずらわしく困難を伴う。互いの言葉の間に生じる齟齬を埋める努力が必要だし、そのために互いに違和感をぶつけ合い、双方の基盤としている価値観を少しずつ理解していく必要が生じる。しかし、たとえわずらわしくとも、それを行うことでしか互いの隙間を埋めていくことはできない。他者との関わり合いの中では避けて通れないことだ。

だが、現代の日本において、他者の価値観を理解することは、関わり合わないことと同義になってしまっている。例えば切込隊長は「各論全員否定」の社会学の中でこう書いている。

誰しもが違う価値観を持ち、それを認め合うのが社会の礼儀だとするなら、その礼儀を突き詰めると「なるだけ違う価値観の人たちとは付き合わない」という結論になる。

この考えを批判するつもりはない。実際のところこの考えが今の世の中の現実だ。例えば、電車の中で化粧をする女性に対し、それを非難する声がある。
「常識外れだ」
しかし、この言葉は彼女たちには届かない。彼女たちのコミュニティの常識では電車内での化粧は許されるからだ。そして、「価値観を認める」という考えのもと、その行為は現実には許容されている。直接とがめる人など皆無だ。

しかし、それが本当に「価値観を認める」ということなのだろうか。電車という一つの閉じられた空間の中で化粧をするという行為は、人によってはとても下品で不快な行為だ。だからこそ彼女たちを侮蔑するような本まで出版されて、話題にまでなった。本来なら、そのような不快感もまた、一つの価値観として尊重されなければならないはずだ。

もちろん、一方の価値観が尊重されればもう一方の価値観はこの場では我慢を強いられることとなるが、「価値観を認める=関わり合わない」という理屈によって片方に服従を迫るのではなく、対話によって収まるべきところに収まるのが望ましい。対話をすることで少なからず感情は和らぎ、相手を理解する気持ちが芽生えるからだ。もし相手を理解する気があればだが。

しょせん理想論にすぎないという気持ちはある。昨今のネット上の風潮を見ても、2ちゃんねるに対する反動からか、人のサイトやブログにおもむいて違和感一つ投げかけることすらはばかられる雰囲気が少なからずある。トラックバックを飛ばして批判などもってのほか。うかつにレスポンスを発したら過剰な警戒からかとても低姿勢な態度を取られて、レスポンスを発した人が悪いことをしたような妙な気持ちになっているところを目にしたこともある。

しかし、そのようにして他者との関わり合いを皆が皆で避け続けて、ただひたすら自分に合う小さなムラ(ともすれば一人きりかもしれない)にこもって生き続けていけるのだろうか。とてもそうは思えない。

この長々と書いた言葉も、あるいはただの道徳的な物言いとして回収されてしまい、届かないのかもしれない。しかしそれでも、今こうやって言葉を書き連ねて発信することが可能なのだから、せめてそれくらいのことはやっておこう、そんな気持ちでこのエントリを書きました。最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。

参考:このエントリを書くにあたって直接インスピレーションを受けたエントリ
記識の外 差別と他者性。
若隠居の徒然日記 異質なものを受け入れる努力
切込隊長BLOG(ブログ) 「各論全員否定」の社会学
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2005年04月07日(木) 04時07分11秒

「インターネットは民主主義の敵か」を読んで(2)

テーマ:ネット
さて、本書では「デーリーミー(Daily Me 日刊の『私』)」という概念が最初に出てきます。これは、個人用にカスタマイズされた、見たいものだけを見ることができる完全なフィルタリングのなされた情報パッケージのことで、サンスティーンはそのようなフィルタリングが進んだ結果、人々の視野が狭くなり、思いがけない情報との遭遇機会を失ったり、社会的な共通体験を失っていくことを危惧しています。

例えば、少し前に日本語に訳されて話題になっている「EPIC 2014」が描く未来像などはまさに「デーリーミー」の世界そのものです。

EPICでは、彼らが選んだ記事を好きなように組み合わせることができる。最高の状態では、EPICは、見識のある読者に向けて編集された、より深く、より幅広く、より詳細にこだわった世界の要約といえる。 しかし、最悪の場合、多くの人にとって、EPICはささいな情報の単なる寄せ集めになる。 その多くが真実ではなく、狭く浅く、そして扇情的な内容となる。しかし、EPICは、私たちが求めたものであり、選んだものである。

このような情報の個人化が進むと、同じ考え方の人々が集まる一方で対立する意見には耳を貸さなくなり、集団分極化が進むことになるとサンスティーンは懸念しています。そして、集団分極化した空間で同じような意見を交わすことで、より過激な方向へと意見がシフトしてしまうと論を展開しています。

ただし、サンスティーンはこのような集団分極化やエンクレーブ(「閉じこめられた地」の意味)型討議を悪だと言っているわけではありません。むしろ、違う考え方のグループ同士がお互いに議論し合えば社会全体として意見の幅が広がり、豊かになると考えています。危険なのはある特定のグループ内での議論自体ではなく、グループの孤立だという考えです。

また、このような分極化は、特定の人々に対して強い反応を促す情報を、その真偽を確かめることなく爆発的なスピードで広く流布させてしまう危険を伴います。これを、サイバー・カスケードと呼びます。その善し悪しは別として、最近の事象で言えば仙台の少女捜索ブログに大量のトラックバックがついて「善意の洪水」が広がった事象がまさしくサイバー・カスケード現象と呼べるでしょう。この仙台の少女捜索ブログにおける事象については真性引き篭もりある大学院生の日記で違和感が表明されていましたが、その行動が果たして適切かどうかの考察が加えられないままに「善意」の名の下に情報が爆発的に広がっていくというのはやはり危険と言わざるを得ないでしょう。結果的に過ちでなかった、というのは、結果的に過ちだった可能性も十分にあったということに他ならないのですから。

集団分極化やサイバー・カスケードに関連して、「沈黙の螺旋」(参照)という言葉が本書に出てきますが、圧倒的な多数の「善意」の前に、違和感や疑問を抱いた人が沈黙せざるを得なくなり、賛同する人々の言葉だけが反響し合って広がり続けた姿は「沈黙の螺旋」そのものでした。月ナル者での分析(リンク先エントリ第四段落)がそのまま「沈黙の螺旋」とは何かを言い当てていますが、このようにして集団分極化が発生し、サイバー・カスケードを引き起こすという一つの例だったと思います。

サンスティーンは、これらの危険に対して、人々により広範な思いがけない意見と遭遇させる機会を与えるための公開フォーラム原理や、マスメディアを通じた共有体験の確保が必要だと考えます。また、ウェブサイトには特定の重要な情報へのリンクや、反対意見へのリンクが必要だと述べています。これらの考えが単なる理想に過ぎないのではないか、現実にリンクを張っても多くの人はそれを見ないのではないか、という疑問はあります。例えば、ブログ間でトラックバックを送り合って議論を繰り広げたとしても、大半の人は元から見ているブログを見るだけにとどまり、リンクを踏んで相手先の議論を読む人は少数だという話もあります。しかし、そのような具体論はさておくにしても、一つの考えとして本書は非常に示唆に富むと言えるでしょう。
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