石と賢治のミュージアムの「旧-東北砕石(サイセキ)工場跡」-1 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

(最初におことわり、 まとまりのない文でございます。絵 だけ ザ っとご覧下されば十分でございます^^;)


さて、お昼を食べた後は レンタカーを借りて、東山町(ヒガシヤマチョウ)の「石と賢治のミュージアム」へ行ってみました。

↑_と めざしていた場所_受付のある「太陽と風の家」、の少し手前なんですが・・・ 
↓何ですかね?『ハリポタ』のウィーズリーさんち「The Burrow (隠れ穴)」的、とでも言いましょうか_、思いつきで増改築を繰り返した家~みたいな建屋があったんですよ。



がとりあえず 一旦通りすぎましたー・・・。





で、ミュージアムの受付まで行ってからそうと知ったのですがー なんと さっき見た不思議な建屋は、「石と賢治のミュージアム」の一部の 「旧-東北砕石工場跡」(←昭和6年(1931)に賢治が技師として働いた 土地改良剤のの原料の石灰石の採掘場 + 石粉に加工する工場_大正13年(1924)創業-昭和53年(1978)まで稼働)、 だったのです。

(↑ミュージアム-受付と旧東北砕石工場の位置関係)

で、改めて砕石場を 見に行った、んですねー。(絵的にバラバラするので ミュージアムの展示室を訪ねた話は 後まわしにいたします_)



↓工場跡 北の建屋の壁に掛けられていた説明板。




↑写します。
「ここが『雨ニモマケズ』への道だった
 『賢治デクノボーの道』の由来
 ~陸中松川駅から(旧)東北砕石工場まで

 ここは、かつて賢治が東北砕石工場のために歩き通った道です。
 1931年二月、宮沢賢治鈴木東蔵(トウゾウ)が経営する東北砕石工場技師として東山町へやって来ました。この地で、炭酸カルシウム(略して「タンカル」)を主成分とする肥料の製造普及にかける彼の構想はたいへん大きく、これを用いて土地本来の生命力を回復し、されにそれを遠く関西地方までも及ぼそうというものでした。

 そのため彼は文字通り東奔西走しました。しかしその年の9月、ついに出張先の東京で発病し、父母に遺書を書き、花巻に帰ることになったのでした。それがどんなに残念なことだったかは、病床で綴った詩『雨ニモマケズ』でも読むことができます。結局彼はその病気から回復することなく、生涯の最後まで工場と医療と農民のことを案じつつ、翌々年に亡くなりました。


その病床で書かれたのが『雨ニモマケズ 手帳』です。
 『雨ニモマケズ』では「デクノボー」をあげ、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と書きました。いったい「デクノボー」とはどういう「人」のことをさしているのでしょうか。

 その時賢治の脳裏にあったのは確かにこの地で出会った一人ひとりの農民の姿であったと思われます。彼らこそ、雨にも風にも負けない丈夫なからだを持ち、比類ないいたわりの心に支えられて、遥かな銀河系にも及ぶであろう天然の理法の下で互いに敬虔に生きているそういう姿でありました。賢治はそういう農民の飾らない”無垢なものの誉れ”に接し、そこに彼の信仰の核心にあった法華経の「常不軽菩薩品(ジョウフキョウボサツホン)」の眼目(ガンモク)、「われ深く汝等を敬う」を重ね合わせて「デクノボー」と書いたと思われるのです。


 私たちがそういう当時の賢治と農民たちとの出会いを讃え、ここに陸中松川駅から(旧)東北砕石工場までの道を「賢治デクノボーの道」と呼ぶのはそういう理由からであります。」(どなたの御文でしょうね?)



板の下の方、水に濡れてでしょう、読みづらくなっておりました。
↓このエリアは2002年の台風で被害を受けたといいますからー


もしかしたら その時の影響かも?

↓工場内には(一部ですが)立ち入る事もできました。

(↑国の「登録有形文化財」である事を示すブロンズのパネル。)



↓入館したところ。

↓館内の案内図。

↑水色に塗られた 東側の平屋部分のフロアーのみ見学できました。
↓安全上問題がありとて今は公開休止となっていましたが、どうやら以前は機械類が並ぶ西側も公開されていたみたいですね?


平屋側(東)にあったパネル。

↑右が工場主の鈴木東蔵(トウゾウ/ 1891~1961)、左が宮沢賢治(1896~1933)。
東蔵は 盛岡近郊(雫石)の小岩井農場岩崎久弥が 酸性の土壌を改良するため 青森県の八戸から 中和剤として石灰を仕入れている事を知ると、 ここ一ノ関の東山町で産出される石灰にも商機があると考え 大正13年に父と 「山から石灰を削り出して粉砕し、炭酸カルシウムを主成分とする肥料を製造」する工場を建てます。これが (昭和15年には株式会社となる~)「東北砕石工場」。 丁度国鉄大船度線が一ノ関から摺沢駅まで引かれ 東北砕石工場のすぐそばに 大正14年7月 陸中松川駅が開業するというタイミング、でもありました。 / 東北の土壌改良については次第に農民にも知識や技術が浸透して 肥料の売れ行きものびていき~ 東蔵は 商売は軌道に乗った と思っていましたが、 昭和4年_花巻からの注文が入らなくなってしまいます。
原因を探るべく 花巻へ足を運んだ東蔵は、そこで「地元に肥料の神様と呼ばれる宮沢賢治という人がいて 石灰石粉による土壌改良を説いていたのだが 病に倒れ 肥料相談に応じられなくなっている」と知り 病床の賢治を訪ねて 協力 を求めた、そうです。

賢治は健康が回復すると 昭和6年1月にこの工場の技師となり(契約書の取り交わしは2月) 建築用石材の開発に取り組んだり 販路の開拓にも尽力したと言います。彼がここに足を運んだのは記録によると7回、だそうですが、 昭和6年の9月に再び健康状態が悪化し 昭和8年に37歳で亡くなる賢治には 精一杯の事だったのかもしれません。

↓これは屋外に設置された等身大の模型。(昭和6年3月に撮られた写真から起こされたもの。)



後ろに立つ中央の「ちょび鬚」が39歳の鈴木東蔵、その右の帽子をかぶっているのが34歳の賢治ですね?(余談ながら 賢治の右に立つのは「偶然居合わせた魚屋さん」だそうです^^;)

_ここに実際に足を運んだのは七度程~ ではあったそうですが、来る度 賢治は工夫達にお土産を持ってきたそうです。 この像の工夫達が首に巻いているタオルも「賢治からのお土産」ですって。

話を工場内に戻しますが_
↓入ってすぐの左手(西の吹き抜け側)には こんな物が展示されていました。


↑ヤップ島の石のお金? に似てますがこれは「フレットミル (円形の粉砕盤上を2個のローラーが回りながら押しつぶす粉砕機)」という機械のローラー。
↓別の角度から。


↓「石灰製品の製造工程」。

↑建屋西の 複雑な屋根や壁の連なりは この高さのある複数の設備を覆うためにできていたんですね?/ 上の「フレットミル」は 元々は2F部分に設置されていたもようー。
↓製品の製造過程。(左から だんだん細かく粉砕されていってますね。)

↓奥に置かれていた歯車のついた機械。斜面地側には動力を伝えるベルトやチェーン、滑車 等々ー。(円筒の物は何でしょうね?)/ 因みにこの場所、案内図には「設備・道具の修理場」と書かれています。

↓左に2Fへ上がる階段。(←案内図に「賢治の時代から使用された階段」とあります。)/ その右には坑道への入口。



↓へーっ かなり長い坑道ですね!

因みに現在見学ギャラリーは整備され「床」が張られていますが、元々はむき出しの地面だった訳でー
↓床下には「かつてのトロッコのレール」が残っていたりするのでした。



見応えありました!

~と 外へ出たら・・・
(長くなったので 頁を変えますね?)