
↑御殿の玄関を出て、
↓向かいの小薮をくるっと回るとー

丹塗りの社殿が表れます。(神社を横から見ています。左が神殿・右が拝殿。)

↓位置関係、こんな感じ。

(↑直線距離にして約50m。)
三芳野神社は創建が大同2年(807)と言われる古社で、当然ながら 川越城より以前から ここに鎮座しているんですね。(三芳野は 川越の平安の頃の地名) 御祭神は素盞男尊と奇稲田姫命の夫婦神。(氷川神社からの勧請ではと言われているそうです) 後に菅原道真と誉田別尊が相殿の神となっています。
川越城ができると(太田道灌の頃より)三芳野神社は城の鎮守社とされます。 江戸時代に入ると 後に川越藩藩主(宗家から数えて三代目、別家として二代目)となる酒井忠勝が再興に着手(寛永元年(1624))、明暦二年(1656)松平信綱が城主の時代にも改修された との記録が残っているそうです。(ただ、この記録に載る社殿が 現在のものとは様子が異なっており、江戸末期に建て替えが行われたのでは、 との事。)
神社のある場所は 祭神名(菅原道真)から「天神曲輪(テンジンクルワ)」と呼ばれるようになりますが、城内でありながら庶民の参拝も許された、といいます。(本丸御殿の 目と鼻の先 なのに!)
でこの「庶民の参拝」が 「とおりゃんせ」の歌になった のですって。 (庶民は お参りが許された限られた日に 南大手門(←現・第一小学校付近) から入城し 細い参詣の小道を通って天神曲輪へ向かい参拝。しかしその後 お城から出る際に厳しいチェックを受けねばならなかった~、といいます。(庶民がお城から 物品を持ち出す事などがあってはならないから、ですね。例えば城内に忍び込んでいる密偵からの手紙、とか・・・))
↓それにしても華やかな社殿・・・。


↑屋根に見える紋は 誉田別尊(=八幡様)の神紋「三つ巴」。/ 天神曲輪の天神様なら 梅紋もあるはずー。

拝殿前へ回ってみます。



↓拝殿正面。

ご挨拶。

(↑提灯とお賽銭箱に梅紋。)
扉は閉まっていました。


(↑虹梁の上の彫刻は 滝 ですかねー?/奥の蟇股には 鶴 がいるようです・・・)
さて 拝殿の手前には 末社が 向き合う形に建っていました。
左ー大黒(ダイコク)社

右ー蛭子(エビス)社 (右奥にチラとお稲荷さん)

(大黒さんも蛭子さんも出雲系。本殿の御祭神も タカマガハラから出雲に入られた須佐之男命とその妻神(←地元出雲出身)。相殿の天神さんにもお母様が出雲出身という説が。)
説明板。

「三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦二年の棟札(県指定。建造物)
蛭子社横の絵馬掛けにはー


↑天神さんへの願い事を記した絵馬が沢山掛けられていました。
その先に手水舎。

滴る式、になってましたー。

ありがとうございました。

振り返って見た 神社。

(↑鳥居に日の丸が バッテン 型に掲揚されていました。/ この日が「川越市民の日」だったから、でしょうか?)
さて、では
♪いきはよいよい かえりはこわい
と歌われた「天神様の細道」を歩いてみましょうか。(もっとも、当時の小道も門も もう存在しませんが・・・)


↑説明板がありました。
「三芳野神社(市指定 史跡)
三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
なお、参道は、江戸時代より若干変化している。」
緩やかな坂を下っていきます。

右手に子供用の遊具。


↑この奥が多分 昔の「天神門」への道・・・と思われましたが、
↓イチョウの落ち葉に覆われた 今の参道を歩きます。


振り返って見た 参道。


↑なるほどー ここが 「天神様の細道じゃー」なんだ。
さて、参道脇に石がありました。

社号が彫られているのかな、と思ったら・・・

「三芳野神社」に続いて
「我が方によると鳴くなる三芳野の田面(タノム)の雁をいつかわすれむ」という 『伊勢物語』からの歌が記されていました。(ほー)
<ちょっとおまけ>
天神様の参道を下り切った先を西へ向かうと_
「郭町上水場」がありました。



↑門柱横のプレートによると_
「この地は、昔城郭の東南に位置し「本丸御殿」をはじめ童唄「通りゃんせ」にゆかりのある「三芳野神社」などの史跡が近くにある。
この施設は昭和28年2月に、水道事業の創設により、最初の浄水場として建設された。」との事でした。
道なりに行くと_

↑北側に「富士見櫓跡」を知らせる石柱が表れました。
↓その先には「田曲輪門跡」と記された石柱も。

(↑小山と見える所は本丸曲輪を囲む石垣で車のある所はお堀、ですねー)
↓富士見櫓があった 本丸曲輪の南西の端(お堀の際)に上がる道もありましたがー・・・


「工事中につき 通行止」でしたー。
近くにあった説明板。

↑ここにあった富士見櫓は「三層」(←小さなお城の天守閣級!)の立派なものでお城の中で一番高い建造物 だったそうです。(「天守閣のない川越城にあっては 天守閣の代わりとなっていたと思われる。」と書かれています。)
へ~っ。
続いては 喜多院の方へ行ってみます。