令和6年3月5日~6日
鹿児島県南九州市
知覧特攻平和会館等訪問
※今回は個人的事情及び個人的行動に関するブログ
【投稿日 令和6年8月17日】
【追記等 令和6年8月19日等】
1 はじめに
・令和6年8月、下記5の通り知覧が非常に注目されました。
・実は、個人的事情で恐縮ですが、令和6年(2024年)3月5日~6日に鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館等を一人で訪問しました。今回は、このことについてブログを作成します。順序としては、知覧特攻平和会館に展示等されている特攻隊員の遺書等のうち重要だと思った内容を下記2にて記載した後、下記3で私の旅行行程及び食事の写真、下記4で自分で撮影した写真を掲載します。下記5以降では参考となる事柄を記載します。
<参考 パンフより>
一般に配布されているパンフは知覧特攻平和会館HPに掲載されておりダウンロードできます。(投稿時はパンフ自体引用していましたがうまく写らないため削除)(R6.8.18簡略化)
<参考>
※戦時中の知覧基地は陸軍の基地
2 遺書について
知覧特攻平和会館に残された多くの特攻隊員の遺書等について、内容的には、愛する祖国を護るため、祖国日本を護るため、愛するものを護るため、という感じの内容が多く、また親や家族等への感謝を記載した遺書等も多くあります。なお、例外的な内容の遺書等もあります。このうち、特に重要ではないかと思った件について記載します。(一部私見)
(1)非常に高レベルの難解な文書の遺書等が多数あり
知覧特攻平和会館に残されている特攻隊員の遺書等について、非常に難解な文章で書かれた遺書等が非常に多く、また古文書に出てくる字体の文字で書かれかつ非常に難解な表現の遺書等も非常にたくさん残されており、また五七五七七の形式で書かれた遺詠や、和歌や短歌が入っている遺書等も多数ありました(私の場合、何も見ずにこれと同じ高いレベルの文書を書けと言われたら、正直言って書けません)。その難解な文章の遺書や遺詠の例を引用します。
<引用>
※引用元:『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)のP96佐藤淑雄中尉の遺書
⇓
※引用元:『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)のP96
※父母や恩師より受けた深い恩に報いることができなかったことについて深く恥じる旨の記載が最後にある。
<引用>
※引用元:『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
<引用>
※引用元:『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
(2)部下に郷土料理をふるまった特攻兵
知覧特攻平和会館に展示されている資料の中に伊舎堂中佐の資料があり、実家で部下に郷土料理をふるまった旨等が記載されていました。伊舎堂中佐の遺詠は次の通り
<参考>
<引用>
※引用元:『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
(3)全体主義等に批判的な特攻兵の遺書等(R6.8.19修文)
上原良司大尉は「日本は負けるよ」と口癖のように当時の知覧で言っていました(鳥濱トメ氏にもそのように言った)。富屋食堂(当時鳥濱トメ氏が運営)に出入りする特攻兵の大部分が日本を救うための特攻と信じていたため、鳥濱トメ氏もこれを無視することができず「そんなことを言ったら憲兵に連れていかれるよ」とたしなめたが、上原大尉は「僕は特攻で死ぬ身だから、憲兵だって手出しできない」と答えた、とのことでした。(『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)や『陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に善く 愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち』に記載)
この上原大尉の書かれた遺書等(かなり長文)についても知覧特攻平和会館に展示されており、内容は全体主義を批判する内容で、軍部に批判的な内容(内容的によく軍の検閲をくぐり抜けたな、と思うような内容)でした。写真撮影等ができなかったので、それについて引用・掲載することはできません。
なお、『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
に掲載されている上原大尉の遺詠は次の通りです
<参考>
<引用>
※引用元:『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
※上記(1)~(3)の階級は、『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)や『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)に記載されている階級ですが、散華後の昇進後の階級だと思います
(4)女学生が綴った特攻日記
これも知覧特攻平和会館に展示されていて、かなりの長文です。当時の知覧高等女学校3年(15歳)だった前田笙子氏が綴った日記です。今回は詳細について記載省略します。
※余談ですが、この特攻日記の昭和20年4月18日の箇所に「午前7時、知覧発の汽車で福岡へ行かれる」という記述があります。
【3 旅行行程(個人的事情)】
個人的事情で恐縮ですが、令和6年3月5日~6日の私の旅行行程は下記の通り
1⃣<令和6年3月5日(火)>
(1)新大阪へ JR京都線にて移動。詳細は記載省略
(2)新大阪駅→鹿児島中央駅
山陽・九州新幹線のみずほ605号で新大阪駅から鹿児島中央駅まで移動。スーパー早得21(値上げ前)の方法で手配した指定券等で乗車。写真は下記4の通り
(3)JR鹿児島中央駅
①昼食 鹿児島中央駅の飲食店にていただく
※令和6年3月5日黒豚とんかつ大山にていただいた黒豚ハンバーグ膳
②鹿児島中央駅等の写真撮影 駅の写真は下記4
③その他 夜食用のかるかん購入等を実施
※令和6年3月5日のJR鹿児島中央駅(旧JR西鹿児島駅)訪問は2回目の訪問。1回目は平成9年1月の寝台特急なは乗車時の西鹿児島駅訪問
(4)鹿児島中央駅→知覧の特攻観音入口のバス停
鹿児島中央駅からバスに乗り、知覧の特攻観音入口のバス停にて下車
(5)知覧特攻平和会館等訪問
知覧平和公園内の写真撮影等実施。また、知覧平和公園内の知覧特攻平和会館に入館。詳細は下記4や上記2の通り
(6)ミュージアム知覧訪問 下記4参照
(7)知覧町護国神社等や復元された一式戦闘機「隼」等の写真撮影
知覧平和公園内、知覧特攻平和会館周辺にある知覧町護国神社や、復元された陸軍の一式戦闘機である「隼(はやぶさ)」等の撮影を実施。その写真は下記4参照
(8)夕食 隼でラーメンをいだただく
※令和6年3月5日自分で撮影
(9)さくら館等で写真撮影及びさくら館にて宿泊(下記4にPick)
2⃣<令和6年3月6日(水)>
(1)起床、さくら館にて朝食等
(2)知覧特攻平和会館等再訪問 下記4写真参照
(3)知覧町護国神社等再訪問
(4)知覧茶屋にて昼食
特攻の母と呼ばれた故鳥濱トメ氏が昭和63年に開店された知覧茶屋にて昼食。茶そばをいただく
※令和6年3月6日自分で撮影
(5)バスに乗車及び富谷食堂写真撮影
バスにて知覧の特攻観音入口のバス停から鹿児島中央駅に移動。移動中、武家屋敷近くにて復元されている富屋食堂の写真をバスの中から撮影。下記4参照
(6)鹿児島中央駅 かるかん購入。その他詳細について記載省略
(7)鹿児島中央駅→新大阪駅
山陽・九州新幹線のさくら560号にて鹿児島中央駅から新大阪駅まで移動。スーパー早得21(値上げ前)の方法で手配した指定券等で乗車
(8)新大阪駅より
JR京都線等にて移動。詳細について記載省略
【4 私が自分で撮影した写真】
私が令和6年3月5日~6日に自分で撮影した写真を掲載します。
(1)新幹線 みずほ605号
令和6年3月5日に新大阪→鹿児島中央間で乗車したみずほ605号の写真(自分で撮影)は次の通り
<全体像>
※令和6年3月5日新大阪駅にて自分で撮影したみずほ605号
<行先表示>
<みずほ605号の5号車車内>
(2)鹿児島中央駅 令和6年3月5日~6日に鹿児島中央駅で自分で撮影した写真は次の通り
<駅名標>
<改札内>
<自動改札機及び自動改札機付近>
<東口>
(3)知覧平和公園 自分で撮影した写真を下記の通り掲載します
①施設案内図等
(R6.8.18一部追記)
②知覧特攻平和会館
<㋐ 外にて撮影した知覧特攻平和会館>(自分で撮影)
<㋑ ホタル等>(特攻平和会館近くにて自分で撮影)
<㋒>館内
撮影禁止の箇所が多かったため、撮影禁止になっていない箇所で、掲載しても問題ないもしくは掲載した方がよいと思われる箇所を掲載します。
(特攻機に最敬礼を行う女子学生と高齢男性)
※テレビには、昭和20年沖縄に出撃した特攻機に、農作業を止めて最敬礼を行う高齢男性等の姿が描かれており、また、同じ特攻機に最敬礼を行う女子学生についても描かれている
(知覧特攻平和会館概要)(R6.8.18差し替え)
③ミュージアム知覧
撮影禁止の箇所が多かったのですが、撮影禁止になっていない箇所で、ブログにて記録を残しておいた方がよいと思われる資料(具体的には昔の道具とくらし展)を掲載します。
※いずれも昭和中期?頃の状況を説明した資料?(R6.8.18追記)
④知覧町護国神社等 自分で撮影した写真を掲載します
<三角兵舎>
<特攻平和観音堂等>
<偲ぶ一コマ>
<知覧町護国神社>
<特攻像「とこしえに」等>
<朝鮮半島出身特攻兵の御霊を慰霊するために建てられた歌碑>
⑤陸軍の一式戦闘機「隼(はやぶさ)」の写真
「特攻の母として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年5月12日公開)で忠実に復元され実際に使用され、令和6年3月現在において知覧平和公園内に設置されている陸軍の一式戦闘機「隼(はやぶさ)」の写真(自分で撮影した写真)及び説明は次の通り(自分で撮影した写真を下記の通り掲載)
👇
<一式戦闘機「隼」>
※「特攻の母として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年5月12日公開)で忠実に復元され実際に使用された陸軍の一式戦闘機「隼(はやぶさ)」
<説明>
<参考>余談ですが、かつて東京~西鹿児島(のち東京~熊本)間を運行していた寝台特急の名称は、寝台特急はやぶさでした。
⑥知覧茶屋 自分で撮影した写真を下記の通り掲載
⑦その他飲食店 事情により記載省略
(4)さくら館 自分で撮影した写真を下記の通り掲載
<建物等>
<部屋の中の机>
※この時宿泊した部屋には『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)が置かれていた
<Pick>
(5)富屋食堂 武家屋敷近くで、バス車内で自分で撮影した写真を掲載
(6)新幹線 さくら号 事情により記載省略
5 参考 最近のニュース
(1)Xより
<引用>
※うまく写らないため、スクショを引用
⇓
(2)ヤフーニュースより
<ヤフーニュース>(FNNプライムオンライン 2024年8月14日)
👇
<引用><この記事の要点の引用>
・早田ひな選手発言⇒「(前略)あとは、鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています(以下略)」
・知覧特攻平和会館の見解⇒「早田選手の発言でより多くの皆様に当会館のことを知っていただく機会をいただき大変ありがたく感じております。また、若い世代の「特攻」を知らない皆さんにもこれを機会にご来館いただき、特攻の史実を知っていただければ幸いと存じます」「(早田選手が来館されたら)知覧特攻平和会館では陸軍の沖縄戦における特攻作戦で散華された1036名の隊員の遺影や遺品を展示しております。隊員の多くは早田選手と年齢も近しい年代です。それらを見学いただくことで,会見でも話されておられるよう、生きていることのありがたさや、命の尊さ、平和のありがたさを感じていただければ幸いと考えます」
6 その他
知覧特攻平和会館のHP等もご参照ください。
<参考文献>
・『魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊 知覧基地』(知覧特攻慰霊顕彰会)
・『新編知覧特別攻撃隊』(高岡修編)(有限会社ジャプラン)
・『陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に善く 愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち』(ザメディアジョン)
・知覧特攻平和会館のHP
<Pick>
今回は、沖縄戦や特攻や特攻隊等に関する詳細な説明は記載省略します。
今回の掲載写真は6.8UP
引用箇所について転載等禁止
誤字脱字等があればその都度訂正します
本日も最後までお読みいただきありがとうございました