徒然草 第231段 | 古文教室オフィシャルブログ

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園の別当入道は、さうなき庖丁者(ほうちょうしゃ)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道、さる人にて、『この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん』とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、『かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。「切りぬべき人なくは、給べ(たべ)。切らん」と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ』とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。

大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(まれびと)の饗応(きょうおう)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。


現代語訳


園の別当入道(1234年に24歳で出家した藤原基氏)は、比類のない庖丁人である。ある人の屋敷で立派な鯉がでてきた時に、みんなが別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、名人にたやすく匠の技の披露を求めるのもいかがなものかと躊躇う中、当の別当入道はさりげなく、『最近、百日にわたって鯉を切り続けているので、今日も欠かすべきではない。是非ともその鯉を申し受けたいと思います』とおっしゃって鯉を切られた。とても自然で素晴らしい振舞いだとその場にいた人たちは興趣を感じた。ある人が、この話を北山の太政入道殿(西園寺実兼)に語ったところ、『そのような話は、自分にはとても煩わしく回りくどいもののように思える。「切る人がいないのならば、私が鯉を切りましょう」とでも言っていれば更に良かったのに。どうして、百日の鯉を切ろうなどと言ったのだろうか』とおっしゃっていたので、それを聞いた人が面白い話だと語ったのだが、確かに面白い言い分である。

大体、日常生活では特別な感じに振る舞って趣きがあるようにするよりも、趣きなどがなくても安らかな方が勝っているのだ。客人をもてなす饗応でも、大げさな接待もまことに結構なことだけれども、ただ特別な事をせずに客人の前に料理を並べるだけのほうが(気疲れしなくて)とても良い。人に物を上げる場合でも、何かのついでじゃなくて『これをあげる』とでも言ったほうが真心が伝わる。惜しむふりをしてそれが欲しいと言われたくなったり、勝負の負けを理由にして上げるなどのこともあるが、人に自然に嫌味(負担)なく物を上げるというのは難しい。