QOD=Quality of Death
「その人が、人生の最期をどう生きるか」
訪問看護あおぞらでは、
看取りの時期にある方に対しても、
病気や症状だけを見るのではなく、
「この人は、
残された時間をどう過ごしたいのだろう」
ということを大切にしています。
今日は、そんな私たちの
看取りの一場面をご紹介します。
※個人が特定されないよう、
内容の一部を変更して掲載しています。
その方の背中には、立派な黒い鯉が泳いでいました。
熊本、福岡から茨城へやってきて、もう10年以上。
それでも言葉は、ずっと熊本弁と博多弁のままでした。
茨城では、自分と同じ言葉で話せる
相手もほとんどいなかったようです。
ところが、うちの施設に来てみたら――
役員4人が、まさかの熊本県人(笑)
久しぶりに熊本弁で話せる場所ができました。
「透析だけは、絶対せん」
絶対しない
この方は重度の腎不全でした。
医師からは透析治療が必要だと言われていましたが、
ご本人は頑として拒否。
入院していた病院からの情報にも、
「なぜ、そこまで透析を拒否するのか」
その理由は書かれていませんでした。
初めてお会いした頃は、とても無愛想。
言葉も荒く、こちらを寄せ付けないような
雰囲気がありました。
その世界で長く生きてきた方だったそうです。
けれど、一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、
少しずつ表情が変わってきました。
そしてある日、透析を拒否する理由を話してくれました。
これまで身近にいた兄貴分たちの中には、
糖尿病から透析になった人がたくさんいたそうです。
厳しい食事制限。
週に何度も、長い時間ベッドの上で受ける治療。
そんな生活をする人たちを、ずっとそばで見てきた。
だから、
「俺は絶対に透析はせん」
そう心に決めていたのだそうです。
「治療をしない」という、その人の選択
私たち医療職は、病気をみれば「治療」を考えます。
腎不全が進めば、透析という選択肢を考える。
それは当然のことです。
でも、その治療を受けるのは、
私たちではありません。
その人です。
何を大切にして生きてきたのか。
何をつらいと思うのか。
残された時間をどう過ごしたいのか。
それを抜きにして、
医学的な正しさだけでその人の人生を
決めることはできません。
私たちは、ご本人の「透析をしない」
という意思を尊重することにしました。
もちろん、「何もしない」という意味ではありません。
両足はパンパンに浮腫み、
利尿剤を使ってもなかなか改善しませんでした。
そんな中で、
ご本人がとても楽しみにしていた時間がありました。
ふくらはぎのマッサージ器です。
足を入れてスイッチを押す。
それだけの時間が、
この方にとっては「至福の時間」でした。
「やりたいことはない」
冬に入居されてから、ほとんど外には出ませんでした。
自分の部屋にこもり、話をするのはスタッフくらい。
「何かやりたいことはない?」
そう聞いても、
「なか!」
ない!
そして、桜が咲きました
近所の桜が満開になった春の日。
私は言いました。
「桜、見に行かんね?」
見に行かない?
すると、彼は、
「行かん。別によか」
いかない。別にいい。
と、いつもの調子。
そこで私は、
「来年は、もう見られんかもしれんばい。
行っとかんでよかと?」
来年は見られないかもしれないよ。
行っておかなくていいの?
すると少し考えて、
「……そら、そうたい!」
それは、そうだ!
と(笑)。
「じゃあ、行こ!」
そうして、みんなで桜を見に行きました。
満開の桜の下で撮った一枚の写真があります。
私と並んで写っている彼は、笑っています。
あの、初めて会ったときの無愛想な彼とは
別人のような笑顔です。
この写真は、生前、
ご本人から掲載の許可をいただいています。
春の終わり
桜を見たその春の終わり。
彼は、眠るように亡くなりました。
透析は、最後まで受けませんでした。
医学的には、別の選択肢もあったのかもしれません。
でも私は思います。
人生の最期に大切なのは、
「できる治療をすべて受けたか」
だけではないのではないかと。
自分の人生を、自分で選べたか。
自分の言葉を聞いてくれる人がいたか。
自分らしくいられる場所があったか。
そして最後に、
「ここでよかった」
と思える時間があったか。
治療を選ばないことと、
生きることを諦めることは、同じではありません。
黒い鯉を背負った熊本の男性
最後まで自分の生き方を曲げず、
大好きな熊本弁で笑い、
満開の桜を見て、
静かに人生を終えました。
QOD――Quality of Death。
「どう死ぬか」を考えることは、
その人が最後まで「どう生きるか」を
考えることなのだと思います。
