続・読書の秋に | Novel & Scenario (小説と脚本)

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前回読書について書いたあと改めて考えたんですが、自分は正直なところ読書が苦手なんだと思います。おそらくそれほど好きじゃないんだろうと(じゃあなぜエッセイや小説書いてるの? と謎ですがそこはまた考えます)

読書をするのに一番大切な要素は何か、最も必要な能力は? と考えると、たぶん「素直さ」じゃないでしょうか。本に書いてあることをまずは受け入れる素直さ。

自分はこれが決定的に欠けてるんです。

前回書いたように本には基本敬意を払ったりすると思いますが、自分は権威っぽいものをとりあえず警戒する癖があって(そんな若くもないのにねぇ)だから書いてあることをすぐに呑み込めない。

まぁ生意気なんでしょう。難しい書き方の本を読むと「なぜもっとわかりやすく書けないんだろう」と思う。頭に入らないのは「書き方が悪い」と思う。自分の読解力を棚に上げて文句を言う自己チュー。

しかしこれは読書に限らずで、例えば仕事にしてもミスが起きやすいなら「そりゃやり方が悪いんだろう」と。みんながミスするなら自分や同僚のせいじゃなく、やり方のせいでもっと別の方法があるんじゃないか。

やり方やルールはそれまでの経緯や蓄積があってでそれなりに敬意を払いますが、決して絶対的なものじゃないですね?

新たなことが付け加われば対応できなくなって当然で、こだわらずどんどん変えてけばいい。固まってしまうのが一番まずい。とにかくミスするには理由があるし、違和感には根拠がある。

で、文章についても(これは以前から何度か書いてますが)「~である」「~であった」という言葉尻さえ気になります。いやいや「吾輩は猫である」の時代じゃないんだから。令和だから。今そんな言い方する人いないっしょ。

話し言葉と書き言葉が違うにしても、そんな書き方をすれば「なんと大層な」「大仰な」と取る人は自分以外もいるはずです。いるはずである。

いや昔の書物をたくさん読んで染みついちゃってるだけでしょ、深い意味はないよ、無意識よ、というのが実際かもしれません。言葉尻なんてただの形式でしょ。

しかしそれならそれで既存の物に抵抗を感じないんだな、と思う。染みついたものを疑ったりしない人なんだな、と思う。引っかかる方がおかしいと自分みたいな人は無視、配慮しないんだな。

今はほぼ使われないこの「~である」「~であった」を使わない、と決めただけでもいくらかリアルに近づけるのに、そこには興味ないらしい、とも。

それはいい悪いじゃなく、自分とは「違う」ということです。それに気づく。そして筆者がどんな人かだけでなく、書かれたものについてもおのずとイメージできる。

それは否が応でも先入観になります。素直に読むのの妨げになる。それはまぁよくないですね。よくないとわかっちゃいるけど気になっちゃう。

こういう過敏さと言うか偏屈はデメリットの方が多いでしょう。

例えば外国語に対し「なんでそんな言い方するの?」「どうしてそんな文法なの?」といちいち気にしてもしょうがない。だってそういうものなんだから。

そういうもの、と覚えるしかないことに引っかかっては上達するわけありません。だから語学はからきしダメです。向いてない。

なので「直せるものなら直したい」と思う一方、「これはこれで悪くない」とも思います。

細かなことが気になり「自分はなぜこんなに気になるんだろ?」と自問するのは面白くなくもない。

そして気になっちゃう理由がわかると納得する。大層な物言いが引っかかるんだな。伝統や体裁よりリアルかどうかが自分は大事なんだな。

自分のことがわかってきます。煮詰めた結果なので肯定もできる。そこに固執しないのもまた別の鍛錬で必要でしょうが、とりあえずなんでも素直に受け入れるより自分の違和感に率直な方がいいんじゃないか。一度持ち帰ってよく考えてみる姿勢。それはコツコツで面倒極まりないですが、新たな発想なんてそこらからしか生まれない気がします。
 

 

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