美は花々から飛び立とうとしている。
 不安なのか? それは喜悦のもつあの羽ばたきなのか?

 花々よりも、もっと軽やかな花々が、
 花々から羽ばたき立つ。
 繰り返し絶えず抜け出してゆく、
 この同じ花、幾つもの一つの花。
 花々から花々が繰り返し立ち去ってゆく。

 花の現れのなかに消えてゆく、
 繰り返し新しく消えてゆく花であって、
 花ならぬもの、美。

 それは花の純粋観念の立ち昇りや屹立ではなく、
 より卓越した花なのでもない。

 むしろ、汲み尽くし難き消尽であり、
 焼かれてゆく花の美の、本質の不在の消滅なのだ。

 美というこの見ることのできない消滅は、
 意味ではなく、また、了解される現前でもない。
 美は恒常的なものではなく、本質とは異なったものなのだ。

 一輪の花の後ろで、絶えず、
 その咲き誇りの現前に立ち戻り、うち返りつつ、
 たしかに燃え尽き、
 散り敷いていった幾つもの花々、
 無数の花々の死。

 花の中にも花の外にもなく、
 その花が美しいのは、美のイデアのためなのではない。
 (美は存在であろうか――いや、美はむしろ存在の無なのだ。)

 美は花の色ではない。
 ゼラニウムの赤ではなく、美なのだ。
 美は花のフォルムなのでもない。
 また、それは花の本質でも言葉でもない。

 いわば、この静止した花にあって炸裂する無
 ――それは連続的でも非連続的でも
   継起的でもないのだが――
 花の不在への消滅=爆発なのだ。

 わたしはそれを目の当たりにしており、
 そう感受しているが、
 それをまだ見てはおらず、そして
 それをもはや見てはいない。

 それは現在とは別のものの、しかし、
 現前とは同じものとしての非‐出現であり、
 花のあらわさ、隠れなさという
 最も隠され覆われたものなのである。

 花は美のexpressionなのではなく、
 美も花のexpressionなのではない。
 そしてそれは印象――impressionなのでもない。

 花は美に開き、美は花を無に開く。
 この美は表象不可能なもの、そして、
 感性に見出されるものではなく、
 判断力に属するものでもありえない。
 この美は全く外にある、外で起きる。

 花のデザストル、それが
 美のエクリチュールの融和に変ずる。

 炸裂する虚無の閃光がわたしの顔の間近に迫っていた。
 畏れ、そして、それとすれ違うような恍惚へと
 わたしが引き裂かれるとき。

 花が散る、そして、わたしは何を視る?

 美とはまさに《恐ろしきものの始め》、
 そして、恐らく永遠に、わたしには見慣れぬものに留まる。