勿体(cant)とは、実体(ousia)を虚妄化するその〈勿れ体〉である。
 それは事勿れ主義の勿れ体の哲学の勿体振った語調から
 不断に生産されている。
 実体を勿体に置き換える勿体振った語調は、
 実体から存在を奪うことは出来ないし、
 それを見えなくすることも出来ない。
 だが実体をみにくくし分からないものにしてしまう。
 認識不可能で語り得ぬものに沈黙させてしまう。
 在っても無きが如きものに変えてしまう。
 透明な闇に包んで虚無を通してしか見えぬ
 幽霊じみた生気のないものに変えてしまう。

 これでは現れていても消えているのと同じである。
 見えていてもそれは実体として見えない。
 存在しており、意識の対象ではあっても、
 それは実体の死体の勿体に変わっているのである。
 
 透明な勿体振った語調に包まれた実体は窒息する。
 その生命である実体感、美しい現実感が抜き取られてしまっているのだ。
 勿体とはイメージである。
 生き生きとしたイマジネーションの中で活動する
 生ける幻としてのイメージではなく、
 死のイメージ、無のイメージ、空虚のイメージである。
 それはわたしたちの文化のみにくさそのものだ。
 このみにくさの形而上学的醜悪性は
 単に感覚的・感性的に醜いものよりもっと醜い。

 感性論の美感学(aesthetics)や様式=流行(mode)の解釈学という
 それ自体が勿体振った語調の醜い教えの
 みにくい宗教に落ちぶれた現代美学は
 この文化のみにくさに仕えているだけなので全く役に立たない。
 それどころか美しい・みにくい・綺麗・きたないといった言葉の意味を
 全く不明にしてしまっている。

 私はこういうエステティックサロン的な虚飾の審美学が一番嫌いである。
 教養の俗物に教養があったためしはない。
 あるのは勿体振った知識だけである。実にみにくい。
 みにくい美学がみにくい心を作り、みにくい心がみにくい現実を作る。
 しかしこのみにくさは、心が見失われているためである。
 美しいものとは人の心である。
 人の心が見えにくくなっていることこそがみにくさなのである。

 およそ知を愛するなどと称するものに限って、
 愛を知らないというアイロニーに陥る。
 愛の無知から「教育」だの「学校」だのという愛の鞭の倒錯が生まれる。
 本当の魂の殺害とは、幼児虐待の精神外傷以前に、
 愛の意味を歪めてしまうことにある。

 愛の歪曲こそ暴力よりももっと恐ろしい、
 人格の尊厳と生命の優美の敵である。
 それが美しい現実を非現実化して
 透明な幽霊に覆われたみにくい悪夢的現実を作り出す。