高校の教室より少し広い部屋。
老若男女、みんな黙々と色んな作業をしている。
会話はあまりない。
ある時、パジャマを着た一人の少女が隔週で来られている絵の先生に声をかけた。
「先生、何か意見もらえないでしょうか。自分で描いたんです」
その少女が描いた絵は独特だった。歪んでるが美しかった。
でも所詮、色鉛筆。安っぽさは隠せない。
身なりが整った初老の絵師さんは答える。
「私は花の”水彩画”をね、週に二度教えに来てるの。だからこういう絵には意見できないの」
絵を抱えた少女はふらふらと席に戻った。
私はその少女を見送りつつ、近くのおじさんに目を移した。
おじさんは飛行機の模型を作っていた。細かい部位にも色を塗っていた。
「綺麗に作ってらっしゃいますね」
私は笑顔で声をかけた。
「これしか、やることがないですから.........でもどうしてしまったんでしょうね」
彼は何処を見てるかわからない.........常人ではわからない所から受け答えをしていた。
ここは大きな精神病院。
私は作業療法士だ。
業務範囲は幅広いが.........私は主に精神障害者の応用動作能力と、社会的適応能力を回復させる事を仕事としている。
まあ、噛み砕いて言うと、
.........要は精神障害を持った方々が、作業を通して回復するのを、計画を立てて見守る仕事だ。
国家資格だ。誰にでも出来ることではない。
ここは閉鎖病棟と開放病棟がある。
閉鎖病棟は自分の意志では病院から外に出れない。
開放病棟は申請すれば外に出れる。
偏見を持って欲しくないが、上記2病棟の患者は落ち着いている。
普通に話し、作業療法をし、運動をして、家にいる時より元気な人もいる。
見た目は内科とかわらない。
閉鎖にしろ、開放にしろ、通常は自分の意思で入院している。
しかし、保護室は別だ。ここは自他を傷つける可能性がある患者を、自治体の長の許可の元、強制入院させる。
場合によっては拘束着を着させられる。
でも大体、薬物治療で一週間ほどで閉鎖病棟に移る。
多くの人々は精神病院という所は今言った場所、保護室に閉じ込められ、拘束着を着せられる様なところと思ってるのではないか。
しかし、これらは別々のものだ。
多くは閉鎖病棟と開放病棟。
保護室なんて病院にもよるだろうが大体、数部屋だ。
そして彼らの多く、閉鎖・開放病棟の方の為にここ、作業療法室はある。
毎日20人程、入室してくる患者をつぶさに観察し、彼らのしたい作業・表現をさせ、何もできない人が出ないよう、いつも声掛けを忘れず、詳細な計画を立てて、彼らの回復を促す。
そして.........患者とは心を近づけすぎない。
ホリくんはいつも窓際の席で曇り空を見ている。
21歳の休学中の男性だ。酷く痩せている。
でも男前だった。向井理に似てる。
歯には矯正があった。
その内にひとりで将棋を始めた。
でも飽きたのか、また曇り空を見てる。
あとは新聞のとても小さな欄を読んでた。
そしてまた曇り空を見てる。
私は声をかけた。
「今日は絵の日ですよ。描いてみませんか」
ホリ君はとても照れながら、いいです、いいです、とジェスチャーで断った。
可愛かった。彼はアスペルガー症候群と鬱病らしい。
他人とコミュニケーションが取りにくい症状の方だ。
次の日、ホリくんは窓際の席でスケッチブックを広げていた。
お、描くんだ。と思った。でも彼は曇り空を見つめたままだった。
そういえば、私は思い出した。彼は毎日来るわけではない。
ここは曜日によって来る患者さんが違うのだ。
でも彼の来ている時は.........いつも曇ってた.........。
なぜ私はこんなことを覚えているんだろう。患者は彼だけではない。
近づきすぎてはいけない。もっと広い視野をもたねば。
ある日、ホリくんが居る日、晴れた。
しかし私はそこだけを考えてはいけない。
後で時間ができたら少し声をかけよう。
今日は焼き物の日。とても忙しい。
一息ついて、ホリくんを見に行くと、スケッチブックの下半分を茶色で塗ったくっていた。
ああ、そうか。と私は思った。ここでは意図のあるものを描く人は少ない。
「今日は描くんだね」
私はホリくんに声をかけた。
ホリ君はまた赤くなって、うんうんとジェスチャーで相槌をうった。
「また見せてね」
私はそう言って立ち去ろうとした。
あれ?.........よく見ればホリくんはただスケッチブックの半分を、茶色で描きなぐっていたのではない。
よく見ると彼はとても精巧な、地面と地中を描いていた。小石ひとつひとつ描いてた。
この子はここに何の植物を咲かすつもりなのか。
花好きの私はドキドキした。
でも.........。
普通の人間であれば、ここ精神障害者の閉鎖・開放病棟は、そしてそれに準ずる作業療法室は、人生の中でとても行きたくないところだ。
だけど、来なければならなかった人もいるのだ。
地獄とは言わない。しかし世の中でここほど、絶望の淵に人を立たせるような場所は、そうそうない。
前を向いて進む人もいる。でもみんながみんなそんなに強くないのだ。
そして残酷なことに、この世界には、治る病気と治らない病気がある。
そんなところで何を咲かす?
何も咲くわけがないじゃないか。
みんな、凸凹の地面を地ならしして出て行くだけだ。
崩れたらまた戻ってくるだけだ。
戻りたくないのならば、とても大切なものを少しずつ捨てていかなければいけない。
仕事、夢、生きがい、家族.........。
何も咲くわけがないじゃないか。
曇り。
私は働く。流れ作業なんだろうか。自分の成果が見えない。
最後の作業日に手をつなぎにきてくれる、おばあちゃんはいる。うれしい。
でも今日も作業療法室は作業の音しかしない。
曇り。
曇り。
まだ梅雨前だというのに。
ホリくんはずっと曇り空を見てる。でもどう見たってただの灰色だ。
晴れた。
今日は木工の日だった。ノミなんかを使うのでとても注意を要する。
ホリくんの事は忘れていた。
そして.........今日も晴れた!
さてさてホリくんは何を描いてるんだろうか。
でも.........彼は居なかった。
そっか。こないだで最後だった。
患者さんは2,3ヶ月のスパンでどんどん入れ替わっていく。
名前を覚えるのも大変だ。
.........私が受け持った患者さん達は皆、社会復帰できているのだろうか。
私の仕事は意味をなしているのだろうか。笑顔をつくれているのだろうか?
ホリくんはどうなったか。
でも患者と心を近づけすぎてはいけない。
そして.........彼はもういない。
ある晩、私は遅くまで記録をつけていた。
同僚はみんな先に退社していった。
記入が全てが終わり、ぐいっと背を伸ばした。
不意に頭の中にホリくんが出てきた。
.........彼は何を描いた?
私は作業療法室の照明をつけ、隅にある本棚の前に腰を下ろした。
スケッチブックが一杯あった。
そして.........私はホリくんのスケッチブックを探した。
これは私の仕事の範疇じゃない。ただの私情だ。
.........ホリくんの名前のがあった。
通常、スケッチブックには何ページもあるが、
ホリ君のは1枚目以外に何ひとつも描いてない。
だけど.........。
その一枚目には、スケッチブックに収まりきらない程の、赤い鮮やかな花が咲き誇っていた。
私は絵を勧めただけだ。彼は灰色の空ばかり見るから。
なのにこんな.........。
私は彼が咲かせた満面の花にうっとりとした。
何て鮮やかで美しいんだろう。
スイートピー。
私は知っている。
花言葉は「門出」「優しい思い出」
私は病院の備品を、初めて家に持って帰った。
やってはいけないことだ。
でも私は、自分の仕事を誇りに思った。
そして人生において花というものは、どれほど素晴らしいものなのだろうかと、思った。
人生そのものこそが花ではないかとも、思ったんだ。
(終わり)
花の写真はお借りしました。

