目次

 

 

 

介護・オブ・ザ・ヴァンパイア(第05話/洗い粉とリトマス紙)

 

 

 

時は明治。

女ヴァンパイア、圭子が人間の子供であった頃の記憶。

日本が軍国化していった時代。

 

 

日差しの入るヒノキ造りの家風呂。

多くの人がまだ銭湯に入っている時代に、とても裕福な家庭だったのだろう。

 

 

「圭子、洗い粉つけるよ。こっちおいで」

「やだ、洗い粉臭いもん」

「髪洗わないと新ちゃんが嫌がるよ」

「あんな奴どうでもいいもん」

 

 

十歳の圭子は湯船の縁に顎を乗せて言った。母は箱から髪洗い粉を出した。

圭子は観念して湯船から出て母に背を向けて座った。母は言った。

「なんであんたは短い髪がすきなのだろうねぇ。女は髪で美しさを見せるものなのよ」

 

 

三十過ぎの母は丁寧に娘の髪を洗った。

その間、圭子は迷っていた。あれを聞くべきか。ずっと聞かなくても良い事か。

考えても考えても、ぐるぐる回るだけ。

彼女はそれを頭の中で処理するにはまだ幼すぎた。

 

 

「お父さんはまだ?」

圭子は目をつむりながら言った。

「………お父さんはまだ帰って来る事はできない。この国の為に本当に大変な仕事をしているの。私たちが、いつか幸せに暮らせる様にと………」

 

 

圭子は振り向かなくたって母が泣いているのが分かった。

そして父がもう二度と帰って来ない事も分かった。

髪を洗いながら二人とも泣いていた。聞くべき事ではなかった。

 

 

『家族ってなぁに?もう忘れちゃったぁ』

 

 

帝国大学の入学式。桜が舞い散っていた。沢山の新入生が集まり桜の下で大きな決意の声を出していた。

圭子は大人の女性になった。艶やかな着物が眩しかった。そしてその目は確固たる意志を持っている様だった。

 

 

「あんたがそんなに賢かったなんてお母さんびっくりだわ」

「もうバカ圭って言わないでよ」

「まあ、お父さんがお金を沢山貯めておいてくれたからだけど(笑)」

「………私はお父さんに負けない研究をする」

それを聞いて母は優しく笑った。

 

 

「………お父さんがもう帰って来ないのはわかるね?」

「………昔からね」

「お母さんもねぇ………もうすぐ居なくなるかもよ。ごめんねぇ」

「え?ええ?どうして?」

 

 

「お父さんと同じ仕事を目指すお前にはわかる。薬を作るのには試験体がいる。お母さんはお父さんが最後に作った薬の試験体になる。お母さんは信じているわ。お父さんは正しかったって」

 

 

「………それは今日言う事なの?」

 

 

 

圭子の心がささやいた。

 

『そして私は独りきりになった。家族は死んだ。もう温もりも笑顔も忘れた。孤独で誰とも交われない道が………』

 

 

 

 

 

時は昭和。

博士こと内田くんの幼少期。

日本は高度成長期の真っ只中だった。

 

 

そこは質素な化学室だった。小学校の理科の先生は困った顔をしていた。

 

 

「内田君は頑固だなぁ。何がそんなに納得がいかないのだい。みんな帰ったよ?」

「先生はリトマス紙が酸性とアルカリ性を見分ける事ができる、としかおっしゃっていません。何故リトマス紙がそんな役割を果たす事ができるかの説明をなされていません」

 

 

先生は宙を見た。しょうがないなぁという顔つきだった。面倒臭そうでもあった。

 

 

「………リトマスはリトマスゴケ等、ある種の地衣類から得られる紫色の染料だ。複数の化学物質の混合物である。酸性、アルカリ性が簡単に判別できる為、あらゆる比喩にも用いられる………。これでも私は内田君にリトマス紙の本質を語らない。何故だか分かるかい………それは図書館に行け。人に頼るな」

 

 

内田君は図書館に籠もった。

彼の家は不遇だった。

 

父親がアルコール依存症でありよく殴られた。父親は青は赤だと言うのだ。

しかし内田君は青は青だと言い返す。口答えするなと、さらに殴られる。

彼は青は青にしたかった。何故なら青が青なら母親が殴られる事がないからだ。

 

 

『解明されていない事は沢山ある。だから僕はやめない。家族と言うものも化学で表せないという論理はない』

 

 

内田君は化学にのめり込んだ。その世界は理知整然としていた。

何の不合理も無かった。彼にとっては本当に美しい世界だった。

内田君はそれらを納得するまで全て調べあげた。

彼は見る見るうちに特待生となった。

 

 

父親は彼を怒鳴らなくなった。

週末に家の隅っこで独り寂しく酒を飲んでいた。

そして彼はアルコール依存症の父が貯めたお金を元に旅費と東京の住まいを得、また奨学金によって医化大に入学する事となった。

 

 

そして東京に行く前日、内田君は父親と酒を酌み交わした。

父親はそこで初めて青は青だと認めた。

そして内田君は初めて自分の事を想ってやまなかった父親に気づいた。

父が酒を減らさなければ、きつい現場仕事で無理をしなければ、彼は医学部に入り東京で暮らすことはできなかったからだ。

内田君は父を尊敬した。

 

 

内田君の心がささやいた。

 

『父親は不合理だった。しかし本当は背を向けながらも私を想ってくれていた。やっと家族が生まれた………。誰かの為に戦う覚悟ができた』

 

 

 

 

 

(つづく)