音を求めて愛について知る
えらい早く目が覚めて、
昨夜の事を思い出し、ふと思った事を綴る。
何かの違和感。
そう、シネマでナイスサウンドと空間に浸ってから帰りに知り合いからオススメされたイタリアンに行って食事をして帰った。
色んな意味でお腹パンパンで久しぶりに無理してしまったなと反省して寝床についた昨夜。
こんな時間に目が覚めて用を足しに起きた。
もう少し寝ようと横になって昨日の事を思い出し、妙な違和感が湧いてきた。
整理できたので忘れてはいけないと思い、今画面を叩いている。
結論を先に。
そこに愛を感じたか。
それだけ。
補足、身体が音や人の、お店の、提供してくれるものを体験して喜び、感動し、震えたか。
どちらもプロの作る空間と提供されるものの品質にこだわり抜かれた感性と経験の深さを味合わせてくれる。
昨夜の体感を思い出し。
その違和感の正体に自分なりに答えを出した。
イタリアで見た、食べた景色と寸分の違いもないくらい、現地で食事をしてると思わせるくらい見事に料理も接客もイタリアだった。
ついつい食いしん坊が頼み過ぎてしまう。
やはり腹がはち切れるくらいになる。
またやってしまった…
ここでイタリアだと、まあでもまた料理知れて良かった、となるはずがなぜかそうではない。
身体になんとも表現しきれない気味悪さが残る。
誰もがそうは思わないかもしれないが私にはそう伝わった。時々感じるこの違和感、なんだろう。
答えにたどり着いたような気がする。
ここからは自分への戒めとして。
現地さながらをやればやるほど愛から遠ざかる。言い過ぎかもしれないが言う、どんどん深みが無くなる。その地、その国民性や文化からしか生まれてこない料理や音楽がある。お母さんやミュージシャン達の深部からただただ湧いてきたもの。物ではない。である。
レシピ化した瞬間にどんな愛を元にこの工程ができたのか、どんな文化背景に生まれたものなのかがどんどん省かれていく。
技術を覚えるのは難しいし相当な苦労がある。
自分も偉そうに言える立場でもないが、
この違和感の部分はかなり大切な気がする。
身体に入る、耳に入るものは特にそうじやないだろうか。
Jr.さんの作り出す空間にはいつも温もりを感じる。型枠ではなく湧いて出てるものだろう。
エコ贔屓で言うのではない。
自分が忘れそうになってた感覚を思い出させて
くれた。雨の日行って良かった京都。



