2011-02-06 00:30:42

相撲の出生の秘密:ワーク活字の冒険

テーマ:旧作

■投稿日時:2001年5月5日 観戦記ネット
■書き手:ノリリン    

この文章は相撲(すもう)が『すまひ』と呼ばれた頃の実体を探る思考実験である。この文章の中で相撲はいろいろな言葉で表記される。単に相撲と書いたときには、現在の相撲につながる当時の徒手格闘技そのものを指す。『相撲』は日本書紀の中で『相撲』と表記されたものをさす。『相撲』と相撲が同じ物であるかどうかがここで検討される。『すまひ』と書いた場合は、日本書紀の中での『相撲』『?力』の読みとしての『すまひ』を意味する場合と、奈良時代以前の『すまひ』と呼ばれていた何かを意味する場合がある。『?力』の『?』は古字なので皆のPCで表示できているとは限らない。『手偏に角』と書く。

もっとも古い相撲の記録は日本書紀の雄略記である。正確に言えばもっとも文献上ふるい『相撲』の字の登場は日本書紀の雄略記である。
『秋9月に、大工韋那部の真根、石を以て質として、斧を揮りて材を削る。終日削れども誤り手刃を傷らず。・・・・(雄略天皇が)采女を喚し集えて、衣を脱ぎて、タブサメ(褌のこと)して露わなるところにて、相撲とらしむ。ここに真根・・・・』要するに、天皇に『おまえは刃物の扱いがうまいが、間違って刃を痛めることはないのか?』と聞かれた宮大工の真根が『ない』と答えたので、ぎゃふん(死語ではあるが日本書紀の頃にはまだ使われていた)といわせるために、裸にした采女たちに相撲を取らせて気をそらせて失敗させた。
というお話である。
『相撲=そうぼく』である。『相(互いに)撲(なぐる)』という意味だ。言葉の意味からいえば、ボクシングならともかく、相撲が『相撲』と書かれるのは不自然だ。今に至るまで何故相撲が『すもう』と呼ばれるかは誰も確かな事は知らない。相撲が『相撲』と書かれる理由もはっきりとはわからない。中国語で、相撲=sou mokuから転じてkuがとれて『そもー』→『すもう』になったという説があるが、とんでもない。平安時代中期の漢和辞典和名抄ではこの件(くだり)を『すまひとらしむと読む』と書いてある。『すまひ』を経ずして『そもー』から『すもう』になったのなら非常に納得がいくが、日本書紀完成から200年経った時点で、『すまひ』であったものが、元々『そもー』で、後に『すもう』になったと考えるのは不可能だ。
この件は雄略帝を暴虐な天皇に見せるために作り出されたお話で、日本書紀作成時に三国志呉史から剽窃したものであると指摘されている。古伝を採用したのではなく、新しく作り出したお話だ。日本書紀に書いてある話の中では一番新しい部類のものである。相撲に過剰に宗教性を見る者はこれは悪魔のような名工真根を不浄のものであると見た雄略帝がそれを祓う為に相撲の節を催したとみるらしいが、お笑いでテキストの由来を考えない、まずい説である。

日本相撲協会が相撲の起源として採用しているのは日本書紀・垂仁記の野見宿彌と當麻蹶速の闘いだ。野見宿彌と當麻蹶速の話はこうだ。
『7年の秋7月の・・・野見宿彌を喚す。是に、野見宿彌出雲より至れり。則ち當麻蹶速と野見宿彌と?力とらしむ。』
當麻蹶速が強くて威張っている乱暴な人なので、それに対抗するために出雲から野見宿彌が呼ばれる。垂仁天皇の前で御前試合が行われ、手の取り合いから、蹴り合いになり、脊椎への致命的なストンピングで野見宿彌が勝った。その後野見宿彌は3代の天皇に使えて功績があった、というお話だ。日本書紀誕生に極めて近い時期に成立したお話だと思われるが、野見宿彌を始祖と仰ぐ土師氏→菅原氏の中の伝承が一部採用されている可能性もある。この文章ではそんなことは重要ではない。
日本書紀用に作ったfictionであることは同じでも、勇壮さや登場するキャラクターの格からいって、日本相撲協会が雄略記の女相撲の方を相撲の起源と取らずに、こちらを相撲の起源としたのは大いにむべなるかなというところだ。エピソードの重要性が雄略帝の女相撲とは段違いだ。
同じ和名抄は『野見宿彌と?力とらしむ』をやはり『すまいとらしむ』と読ませる。(『?力』の『?』は古字なので皆のPCで表示できているとは限らない。『手偏に角』と書く)和名抄は『すまいとらしむ』というが、?力は素直に読めば、『ちからくらべさしむ』である。または中国古来の格闘技・カクテイも?力と表記されることもある。『野見宿彌と當麻蹶速の闘いが日本の相撲らしくない乱暴な闘いであったのは、中国のカクテイの影響だ』ととんでもないことをいう学者もいるらしいが、勿論誤りである。カクテイは舞楽から派生したエンターティメントなのだが、そんなことを指摘する前に現実とフィクションを混同した言説だとだけいっておこう。日本書紀を書いたのは中国の文物に深い知識を持つ来日大陸人とされる。漢字の使い方を間違えるわけがない。雄略記の女相撲と垂仁記の?力は別の漢字で表記された以上、日本書紀を書いた人のなかでは別のものであったと考えるのが妥当であろう。

相撲の起源の話は二つとも基本的には日本書紀作成時にでっち上げた物語である。帰化大陸人が皇室の意を汲んで皇室の正当性を謳う為に書き上げた日本書紀では、相撲が?力でも大した問題ではない。それどころか、彼らが実際にどんなものをイメージして相撲や?力と書き、読み仮名をふった日本人がどんなイメージで『すまひ』とふりがなを打ったかなどは知るよしもない。ましてや今に残るふりがなの記録は日本書紀成立後200年後のものしかない。想像するしかないのだ。

『すまひ』は、争う・抗う・力の強いものに反抗するという意味の『すまふ』から転じたものだという説がある。しかしこれも説得力は薄い。もう一つ相撲の起源とされる古事記のタケミナカタとタケミカヅチの闘いの件には、『すまひ』も『すまふ』も出てこない。古事記と日本書紀は成立が数年しか違わない。闘いの内容を較べても野見宿彌と當麻蹶速の闘いが『すまひ』と呼ばれるのなら、この闘いが『すまひ』と呼ばれても何の不思議もないが、すまひをとったと書かれていない。ましてや争っているのであるから、『タケミナカタとタケミカヅチはすまった』と書かれても不思議ではないのであるが、勿論そう書かれてはいない。それどころか、沢山の闘いのあった古事記にあって、どの争いも『すまふ』とは書かれてないのである。これはもう古事記・日本書紀成立の頃には『すまふ』にも『すまひ』にも、争うという意味も相撲という意味もなかったと考えるのが普通だろう。さらに『すまふ→すまひ』説に不利なデータとして、『すまひ』の方が『すまふ』よりも資料的に古い言葉だということも上げておく。

『すまひ』という語は『素舞』から来たという説がある。山田女子などが唱えている。ドッコショや鏡や劔を持たずに素手でお払いの舞をするから、すまひ(素舞)とよばれたという説である。『sou-moku→su-mo→suma-hi→すもう』説や『すまふ(あらそう)→すまひ』説よりは傷がない。しかし、これは過剰にアカデミズムに犯されている。どう考えても・誰が考えても、素直に考えたらなにも持たずに舞うから素舞ではなくて、裸で舞うから素舞だろう。もっとも『素手のお祓いの舞』説の人たちも素手だけではなく裸で踊るという要素があることを認めているから、その点は大きな問題でもないが。
しかし、日本史上もっとも有名な裸の舞に『すまひ』という言葉が使われてないのはどうしてだろう?アマノイワトのうずめの舞はまるっきり素裸の舞だが、『すまひ』とはいわれてない。それ以降も以前も、すまひという言葉は古事記には出てこない。勿論偶然かもしれないが、そうでないとすれば、これから考えられるのはそもそも『すまひ』とは、単に素手や裸で舞うような単純なケースを指すような言葉ではなかったということだ。

続日本記によると、奈良時代中盤には『相撲節』が開かれ、『相撲』が『すまひ』と読まれていたことは文献上間違いない。それ以降相撲は『すまひ→すもふ→すもう』と呼ばれ続ける。

雄略記において、雄略帝は名工真根の手元を誤らせるため、女官たちを集めて裸にして、フンドシをつけてきゃあきゃあいわせて、露わなるところ(ステージ)で スマヒをさせた。雄略記の『相撲』は何故『すまひ』と呼ばれたのだろう?この話のどういう点が『すまひ』と呼ばれる理由になったのか?
女官たちが裸だったというだけの理由からか?これは前述の理由で考えづらい。
これを書いた人たちや解説をした人たちの事を考えてみよう。彼らはこれが呉の暗君(名前までは調べてない)の三国志の記事から取ったことは知っている。勿論ハーレムの記事だろうから、お祓いなんかではなくて性的な事も絡んでいる。ただ、はっきり言って裸で踊るだけなどではない。(ヌードダンサーが裸で踊るだけの舞踏家と思っている奴はいないだろ?)こういう事は彼らにとっては常識だった。これを書いた者と読みを振った者の頭の中では、文中の『相撲』がレズプレーまな板ショウを暗示していたことは明らかだ。その記事の『相撲』に『すまひ』と読み仮名をつけたのだ。つまり、『すまひ』とは勿論『裸踊り』のことで、しかも単なる裸踊りではなく、強く性的に刺激的なプレーの事を指していた言葉だと比定が可能だろう。そんな馬鹿なという人もいるかもしれないが、記紀にははきわどい話は多い。イザナミはオメコをやけどして死ぬし、スサノオの狼藉ではアマテラスは陰部を痛める。箸墓の姫は陰部に箸を指して死ぬ。大物主の神の化身とされる白蛇の化けた男を夫としていた箸墓の姫はある日夫の真の姿を見てしまい、怒った神に箸を陰部に指して死ぬと呪いを受・けてその通り死んでしまう。訳のわからない話だが、これは要するにオナニー禁忌の話である。箸を陰部につっこむのは当時の女性のオナニーの仕方であって、オナニーのしすぎを戒めた話を記紀に取り込んだと考えないと意味が通じない。雄略記の真根の話の直前には采女のレイプの話があった。レイプ物AVとただの女子プロレスではまるっきり刺激性に差がありすぎてバランスが悪い。
元々そういう意味であった『すまひ』は、三国志から剽窃された雄略記の文章の中で、暗示する意味の共通性から、『相撲』の読み仮名として振られた、と考えるのに妥当性があることはもう納得してもらえると思う。

しかし、何故『相撲』が『すまひ』と呼ばれたかについて、もっと単純にみんなの心に浮かぶ可能性がある。裸に褌でやる徒手格闘技が当時『すまひ』と呼ばれていたから、『相撲』に『すまひ』とふりがなが打たれたという可能性である。でも、そうは思えないのだ。
面白いことに、奈良時代初期に今でいう相撲を担当する官吏は、『相撲の司』ではなく、『抜出(ぬきで)の司』と呼ばれていた。行われていたものは後の相撲の節と同じとして、日本書紀の書かれた奈良時代の初期には相撲は『抜出または別の名前』で呼ばれていたとおもわれる。前に書いたように、日本書紀の一番新しく作られたエピソードで『相撲(すまひ)』が登場するまで、いかなる格闘・闘いに対しても『相撲(すまひ)』という言葉は用いられていない。やがて奈良時代中期には、『抜出の司』の表記が改められ、『相撲司』が『相撲の節』を担当するようになる。だから日本書紀の書かれた8世紀初頭において裸で褌を絞めてする今の相撲に似た当時の格闘技が、『すまひ』と呼ばれていたと考える必然性は低いのである。

野見宿彌と當麻蹶速の?力は相撲節の起源とされる。これは納得がいかない。これが相撲節の起源なら、何故『相撲節』と書くのだろう?何故『?力節』と書かないのだ?より勇壮でより有名でより重要なエピソードである?力の方は相撲の標準表記とはならなかった。これは200年経った和名抄の時代においては『すまひ』という読みが成立していたが、奈良時代に相撲節が出来た頃には?力は格闘技を指す熟語として認知されておらず、単に『力(ちから)?(くらべ)しむ』と読まれてたことが理由だとしか思えない。 とすればもともと野見宿彌と當麻蹶速の『?力』は『力比べ』で、『すまひ』ではなかったのである。?力が『キまひ』であると認識されたのは、かなり後のはずである。

日本書紀は持統王朝のプロパガンダ文学である。日本書紀が読まれた時代をカバーする続日本紀においてはあまり日本書紀に関してふれられてはいないが、王朝が自己のプロパガンダのために作った物語を読むことを奨励しなかったとは考えられないので、支配層の中では広く読まれたはずだ。
何千年経っても人の本質は変わらないので、エッチな話の件は特に繰り返し読まれたはずだ。大変よく知られたエピソードとなったために、元々抜出(ぬきで)または別の言葉で呼ばれた相撲は、裸で褌をしめるエピソードに使われた言葉であるという点と、もともと何らかの徒手格闘技を示す言葉であるという共通性のために、『相撲』と表記され、『すまひ』と呼ばれるようになった。逆に『?力』は相撲を表す言葉にならなかった。『相撲=すまひ』はまず日本書紀に現れ、それが広く読まれたために本来の意味を越えて既存の相撲を表す言葉として使われるようになったのだ。『すまひ』とは、勿論裸の舞(ヌードダンス)のことで、もともとレズプレーに類するセクシャルディスプレーであったはずである。

しかし、この話が正しかろうが正しくなかろうが、現在の相撲に何の関係もない。安心して相撲を楽しんでください。

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2010-01-13 15:29:37

アダルトビデオを論じる(3)

テーマ:旧作

昔、昔

アダルトビデオメーカーはビデ倫を通したあとレンタルビデオ屋に卸したり、販売したりしていた。売りで一本1万数千円。レンタルはおそらくその数分の一の値段だった。昔はレンタルビデオ屋の数も今より多かったし大手アダルトビデオメーカーは1本あたりの儲けはかなり大きかっただろう。

対してビデ倫を通さずに独自規格で制作・販売するのメーカーをインディーという。ビデ倫を通さないと、問屋→レンタルビデオ屋・ビデオショップという流通に載らないが、ビデ倫は別に国家規格ではなく単なるビデオメーカーと問屋の自主規格(要するに参入障壁)なので、問屋を通さないのであればビデ倫にかける必要はない。初期にはインディーズは独自のショップと流通経路を作って販売していた。

ま、最近ではTSUTAYAにインディーズコーナーがあるくらいだからなし崩しだが。

で、インディーズに対してビデ倫メーカーがメジャーと呼ばれるかというと、そうでもない(呼ぶ人もいたが)。面白いことにかってインディーズ側にあったmoodyzはいまでもインディーズではあるが、規模としてメジャーを越えてしまった。

プロレスではインディーズはたくさん出来たが、未だメジャーを越えたものはない。ファンがプロレスにかけるエネルギーがエロにかけるエネルギーより小さいのが原因だな。メジャーはAVメーカー並に没落したが・・・・

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2010-01-11 15:26:30

アダルトビデオを論じる(1)・・・1998年頃・・・懐かしいねえ

テーマ:旧作
アダルトビデオとプロレスは三つのレベルで関係している。

ひとぅつ

AVはモザイクがある。すなわち、観る者はホントに入れているかどうか疑心暗鬼である。もしくはモザイクがなくても、我々はAV女優がホントに感じてるかどうかを目を皿のようにして見破ろうとする。これはある種のプロレスファンの観戦態度に等しい。

この一つ目の点に関しては、誰でも思いつくプロレスとアダルトビデオの接点なので余り突っ込まないようにしよう。しかし、これだけは主張しておかねばなるまい。AV女優が全然感じてないのに演技で感じたふりを続けることもある。完全に没頭し、感じていってしまうこともあろう。しかし、その中間には感じながらも演技である・演技でありながらも感じているという状態が成立するはずである。その状態は見事にプロレスと相照らす物である。

ふたぁつ

通常のボーイ・ミーツガールでは己の欲望のままに振る舞うことは出来ない。たいていの場合異性に気に入られるように振舞わねばならないし、つき合いが深まったところで相手の人間性に配慮して、互いの関係は成り立つ。自分に潜む暗い欲望を全て開放することは出来ないし、極端なものは元からあり得ないこととして自らの奥深くに封印されることもあるだろう。

しかしながら、AVは違う。 ”征服学園女子部悩殺女子高生”だとか”ロリータスペシャル・お嬢ちゃんおしゃぶりより儂のソーセージ嘗めてんかぁ”だとか”汚された堕天使・いけない導尿”だとか”デブ専市場・四段腹の天使”だとか、様々なジャンルの欲望が既にむき出しの形で棚に展示されている。その棚の前に行かなければ一生意識の表面に上らないであろうタイプの欲望まで、とても分かり易い形で提示されている。そして、都合のいいことに、もはや相手を思いやる必要はない。己の欲望にのみ忠実に、ただ選び、金を払うだけでいいのである。

しかし、それを選ぶということは、単にレジに持っていってお金を払うというだけのことではない。選ぶことによって、自己の中のSM、スカトロ、ロリコン、同性愛、痴漢・レイプなど自己の奥深くに沈殿した欲望を認めることでもある。”死への先駆”(下注:1参照)を否定された現代の若者にとって、これは己の中の真実と真っ向から向かい合うという数少ない実存主義的な経験である。

単にプロレス好きだと言う程度でなく、人生観・世界観がプロレスに浸食されている者をプロレス者と呼ぶ。人は何故プロレス者となり、プロレス者と自覚し、且つ甚だしきはプロレス者と名乗るのであろう。プロレス者とカミング・アウトして有利なことなど一つもない。親には子どもっぽいと思われ、一般常識のない者として上司の信頼はなくし、女の子には変態と思われ、隣近所には小さな子の事件の度に白い目で見られる。にもかかわらず、選ばれた、またははじき出された一握りの人間たちが一人又一人と自分をプロレス者と自覚・覚醒していく。プロレス者としての覚醒は、その点に関して既存の世界観から一歩遊離した自分を認識するということである。これもまた強く実存主義的な経験である。プロレス者は覚醒することによってのみダーザイン(下注:2参照)たりうる。

すなわち、現代の日本の若者達に認められた数少ない最も英雄的な実存主義的行為のうちの一つがアダルトビデオとプロレスのビデオを同時に借りることである。

みいっつ

多くの日本人は洋ピンでは興奮できない。モロ見えのスウェーデンポルノ (注:3)でもまたしかりである。奴等はヤリまくりで情念の起伏がない。何か穴と棒を使う男女混合新体操を見ているようなものなのである。ただヤリまくり。ただ大技を掛けまくりの今のプロレスがなくしたものと同じ物を、洋ピンもまたやはり欠いている。 でも、最近は洋ピンの方が情念が細やかなんだよな・・・・

注1:M. Heideggerを自分で読むこと

注2:M. Heideggerを自分で読むこと

注3:SECOM形式のデッキを用意すること。かなり前に帰国したのでノリリンに申し込むのは不可。

アダルトビデオを論じる(2)に続く

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2009-05-16 12:33:31

「心理テスト」はウソでした 日経BP

テーマ:旧作
amazonで日経BP社の 『心理テストは嘘でした』を買った。
本屋でパラパラとめくってれば買わなかったのに・・・残念
中味は
血液型を否定し、ロールシャッハテストを否定し、谷田部ギルフォードテストを否定し・・・と続くんだが
そんなの信じてるやつはいないだろ!・・・いや実際いるんだが・・・まともな知性を持つやつにはいないだろ・・・と思っていたんだが・・・まともな知性というものは超能力なのかも知れない
血液型を信じているやつはさすがにacademiaにはいないが、ロールシャッハや谷田部ギルフォードや、クレッペリンテストを信じる人はいるそうな。
いやはや、インクのシミで性格や精神病が解るんなら、パンツのシミで性病が解るだろ!・・・いや解るんだが・・・
一般にpseudoscienceの特徴とされることに、『測定に多大な経験を要し、再現性の低い方法でのみ検出される結果に基づく』というのがあるが、まさにそれ。
で、本の方はと言うと、儂には読む必要がなかった。ただ、そんなものが使われているという現状に吃驚しただけ。
amazonで本を買うことの危険性を再確認させてくれた一冊
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2009-05-15 12:30:52

real & fake (ほんものとまがいもの)

テーマ:旧作


格闘技は闘いからextractして作ったものだから、もともとfakeだ。
NO FAKE ALL REALと唱えた場合はFake realとなる。そうでないものはReal fakeである。

もちろん、
『NO FAKE ALL REALと唱えた場合はReal fakeとなる。そうでないものはFake realである。』 ともいえる

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2009-05-13 12:26:51

世論調査

テーマ:旧作

2005年

http://www.crs.or.jp/pdf/sports05.pdf

中央調査社と言うところのスポーツ人気調査だそうな。20歳以上の1300人くらいに面接聞き取り調査した結果らしくて、なかなか面白い。

儂の嫌いなイチローが人気選手のダントツの1位だったり、巨人の人気がまだ1位だったりする。

でも儂はイチローファンってのには未だ現実世界で会ったことがないんだが・・・

ま、CMタレントの人気調査みたいなものだとして20位以内の上位にプロレスラー(猪木馬場を含めて)は一人もいない。

ジャンル別でも、プロゴルフ以外は軒並み下げているから、趣味の多様化に伴う必然的なものとはいえ、プロレス好きと答えた人の%は2003年から、8.6%→7.6%→4.2%と減ってる。

救いと言えば20代の男17%・女2.7%がプロレス好きと答えてることだけだな。詳しい解析は・・・いつかするかも知れない


・・・・・・・・・・・しなかったな

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2009-05-08 23:38:58

ほしのあきのおもいで・・・・

テーマ:旧作

ほしのあき・・・

思い出すのはWEW

いまはなきWEWはエンターティメント路線と称してグラビアアイドルやアダルトビデオ女優を動員して興行を行っていた。
ほしのあきはやはりいまは亡き冬木の秘書で若手弁護士。
これはきつい・・・というリアリティーだったがかわいいから許す。

FMWはリング上だけではなく会場もなぜかかわいい女の子が多いという不思議な会場だった。

RMWのディファで、ゆうたろ・ダイスという制限体重オーバートリオで女の子のはみ尻をのぞきに行ったのを思い出す。

FMWといえば、怪談重ねが縁

荒木→ハヤブサ→冬木→橋本・・・
ほしのあきにも災いが及びませんように

儂が、”ほしの”で一番に思い出すのは

星野杏里・・・ああいうタイプが好み

星野ひかる・・・とくにこのみではない。

星野仙一・・・とくにファンではない。

星野くるみ・・・もだえ方に感動

星野あかり・・・あんまり

・・・・・・・・・・・ま、すべて検索対策の文章だが・・・・

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2009-05-08 23:35:25

昔はGoogle Top10に入っていた記念  再アップ  ポパーのプロレス論について(嘘)

テーマ:旧作
ポパー:Karl Popper 1902-1994・・・1999年頃

ノリリンの哲学講義はこっち 。  関連記事はこっち

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎
ポパー―批判的合理主義

その1;ポパー:Karl Popper 1902-1994

コリンウィルソンのSFによると偉い人はみんな長生きだそうだが彼もそうだ。ポパーも長生きだねえ。

ポパーは暫く前のオーム騒ぎで有名になった”疑似科学と科学を分ける定義”を作った人だ。難しい言葉では反証可能性という。(ワンポイントアドバイス:難しい言葉=テクニカルタームは人を煙に巻くときや知ったかぶりをするときに役に立つから覚えておこう)

これは有名な超科学批判本テレンスハインズの「超科学を切る」(psuedoscience and the paranormal、化学同人)でも金科玉条のごとく引用されている。すなわち、「実験的に反証されうる仮説のみが科学的な仮説であり、そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」ということらしい。この本は訳者が解説の最後で「それなら歴史学や文学、哲学も超科学か!?」という意味不明なつっこみを入れていて面白い。ポパーの言う科学に歴史学や文学、哲学が入るかといえば明らかにNoだ。別に科学じゃなくてもいいじゃない!?

なんにしても「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」というのはオーム騒ぎの時にもよく引用されてたし理解もしやすい。これは科学理論は常に実験結果によってひっくり返される可能性を有する仮説にすぎず。絶えず検証され、反証されれば捨てられねばならないということだ。

たとえば、「全能の神がこの世を今ある状態で作った」とかいう仮説は反証が不可能だ。何しろ神は全能だからどのような反証も単なるその仮説に対する信仰の試練にしかならない。

「化石?あんなのは信仰を試すために神様がおいといたんだ。」

「ひとは状況に流されているように見えても結局自分のしたいようにしかしない」という仮説も反証が不可能だ。

「死刑執行官なんかしたくないよ。でもこれが仕事だしだれかがやらねばならないことでもある」

「でも、その瞬間は楽しいんでしょう?」

よってこれらの仮説は科学ではない。議論は堂々巡りで反証しようがないからだ。

哲学もまたサイエンスではない。ポパーの反証可能性の言明は「現実の科学はそういうふうに行われてはいない」という”反証”に全く影響を受けなかった。

現実には実験結果はほとんど常に仮説にダメージを与える。しかし、実験者は「たまたまうまくいかなかっただけだ」とか「さ、寝よ、寝よ」とかいって気に入らない結果は捨て気に入った結果が出るまで実験を繰り返す。また、真摯にデータを認めたところで適当な新しい仮説を思いつけなかった場合はデータを発表すらできない。

だいたい、「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である」ということは今あるすべての科学理論が反証されうる不完全なものでありうるということを暗黙のうちに認めているということだ。そういえばビッグバン理論というのはたくさんの反証を突きつけられている。でも、誰も・・・というか一部の跳ね返りを除いてそれを捨てない。超光速現象(不安定だそうだが)も発見されているけどアインシュタインがお蔵入りしたという話は聞かない。 そう簡単に科学理論は捨てれるようなものではないようだ。

弱ったことに進化論の根底を成す「適者生存」というのも反証可能性に引っかかる。でもダーウィンを超科学の殿堂に入れるのはたぶん許されそうにない。フロイトの夢判断もそうだが、彼は師弟そろって殿堂入りもありかもしれない。が、フロイトの理論の大筋は何となく認められている。いずれにしても反証可能性のない理論も”公理”としてある程度認めないと科学の底を支えられない。

なんにしても、哲学は科学ではない。反証可能性を振りかざすと、「反証されうる仮説のみが科学的な仮説であり、そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」などと言うことも非科学的な言説として切り捨てねばならなくなる。僕ちんはポパーなんて怖くないもんねえ。

ポパーは哲学者であり現実の科学を知らない。現実の科学は哲学ではない。科学は理想ではなく現実だ。現実の世界では少々の反証では仮説を捨てるには忍びないし、また予算を組んで実験をしているプロジェクトを少々のことで否定できない。また、突き詰めていくと科学の底には反証可能性のない理論がよどんでいる。でもそれをポパーがどう定義しようと捨てるわけには行かない。定義よりも現実の方が大事だ。

では現実とは何か? 現実は常にプロレスだ。

だから、いまこそ”反証可能性”を書き換え、ポパーの哲学を完成させ、草の下の彼に捧げよう。「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」は以下のように書き換えられる。

「反証されうる仮説のみが科学的な仮説であるというのが科学の暗黙の了解である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学であるという幻想が大事だ反証の無視はファイブカウントまでは許される 暗黙の了解・幻想・ファイブカウントに関してはこのHP 参照のこと。

そんじゃあ、ポパーは要らないかというとそうではない。理想主義者は常に必要だ。反証可能性に基づく彼の職業倫理に対する考察は、儂は常に忘れてはならないと思っている。

12箇条の職業倫理、

その9「我々は誤りから学ばねばならないのであるから、他者が我々の誤りを気づかせてくれたときには、それを感謝の念を持って受け入れることを学ばねばならない」その10「誤りを発見し修正するために我々は他の人間を必要とする。とりわけ異なった環境の元で異なった理念の元で育った人間を必要とすることを自覚せねばならない。」

ポパーの職業倫理のエッセンスは、「自分の仕事は常に批判(反証)を受けられる状態にしておけ」ということだ。エイズ殺人事件や金融誘拐事件を見るにつけ、厚生省や大蔵省の情報囲い込みがいかにこのポパーの高潔な職業倫理にかなってないかを知る。彼らの倫理的問題の根本は彼らの堕落や無能にあるのではなく、批判を受ける可能性のない職業環境を作ったことにあるのだ。・・・もっともこれは理想主義者のいうことで我が身に当てはめるのはちょっとねえ・・・・ポパーも自分自身には当てはめなかったことだし・・・

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2009-05-07 23:33:11

なぜオヤジはうざいのか

テーマ:旧作

たいていのオヤジは無価値だ。

社会的に価値がある人物でもなく、かけがえのない個性があるわけでもなく、家族に尊敬されているわけでもない。ただ、漂うだけの存在である。

そんなオヤジでも、男として生まれた以上、一度は師匠となってみたい、メンターとして振る舞ってみたい。
ヨーダとルークだの、亀仙人と悟空だの、ノックとやすしだの、沢庵と武蔵だの・・・


小説であれ、漫画であれ、映画であれ、ストーリーというのは基本的に色覚と一緒で、旅と成長と性交の3原色から成り立っている。

男の成長物語は師匠と弟子の話しかない。

しかし、ただ社会に漂うだけのほとんどのオヤジにメンターとして振る舞う機会など存在しない。ただ一つの機会が息子である。

師匠としての経験も能力もないものが師匠として振る舞おうとする。
だからオヤジというのは必ずウザイ。

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2009-05-03 19:57:13

趣味は何?

テーマ:旧作

質問をしてみた。
新しく来たresidentのキャラに探りを入れるためだ。(本当はもうわかってるんだが・・・)

しかし、考えてみるまでもなくこれはすごくallogantな質問だ・・・
一言で答えられる趣味であることを前提としている。
しかし言うまでもなく本当に趣味と言えるほどの物であれば一言では語りたくない。
一言で定義できるような趣味なぞ聞いても仕方がない。

読書・クラシック・ゴルフ・ドライブなんて答えだとdiscommunicationでしかない。

儂は『趣味は?』って聞かれたら、『逆説を練ること』と答えるようにしていた。
もちろん、おもしろい相手だとしばらく逆説を練る壁になってもらう。

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