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昔はGoogle Top10に入っていた記念  再アップ  ポパーのプロレス論について(嘘)

ポパー:Karl Popper 1902-1994・・・1999年頃

ノリリンの哲学講義はこっち 。  関連記事はこっち

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎
ポパー―批判的合理主義

その1;ポパー:Karl Popper 1902-1994

コリンウィルソンのSFによると偉い人はみんな長生きだそうだが彼もそうだ。ポパーも長生きだねえ。

ポパーは暫く前のオーム騒ぎで有名になった”疑似科学と科学を分ける定義”を作った人だ。難しい言葉では反証可能性という。(ワンポイントアドバイス:難しい言葉=テクニカルタームは人を煙に巻くときや知ったかぶりをするときに役に立つから覚えておこう)

これは有名な超科学批判本テレンスハインズの「超科学を切る」(psuedoscience and the paranormal、化学同人)でも金科玉条のごとく引用されている。すなわち、「実験的に反証されうる仮説のみが科学的な仮説であり、そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」ということらしい。この本は訳者が解説の最後で「それなら歴史学や文学、哲学も超科学か!?」という意味不明なつっこみを入れていて面白い。ポパーの言う科学に歴史学や文学、哲学が入るかといえば明らかにNoだ。別に科学じゃなくてもいいじゃない!?

なんにしても「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」というのはオーム騒ぎの時にもよく引用されてたし理解もしやすい。これは科学理論は常に実験結果によってひっくり返される可能性を有する仮説にすぎず。絶えず検証され、反証されれば捨てられねばならないということだ。

たとえば、「全能の神がこの世を今ある状態で作った」とかいう仮説は反証が不可能だ。何しろ神は全能だからどのような反証も単なるその仮説に対する信仰の試練にしかならない。

「化石?あんなのは信仰を試すために神様がおいといたんだ。」

「ひとは状況に流されているように見えても結局自分のしたいようにしかしない」という仮説も反証が不可能だ。

「死刑執行官なんかしたくないよ。でもこれが仕事だしだれかがやらねばならないことでもある」

「でも、その瞬間は楽しいんでしょう?」

よってこれらの仮説は科学ではない。議論は堂々巡りで反証しようがないからだ。

哲学もまたサイエンスではない。ポパーの反証可能性の言明は「現実の科学はそういうふうに行われてはいない」という”反証”に全く影響を受けなかった。

現実には実験結果はほとんど常に仮説にダメージを与える。しかし、実験者は「たまたまうまくいかなかっただけだ」とか「さ、寝よ、寝よ」とかいって気に入らない結果は捨て気に入った結果が出るまで実験を繰り返す。また、真摯にデータを認めたところで適当な新しい仮説を思いつけなかった場合はデータを発表すらできない。

だいたい、「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である」ということは今あるすべての科学理論が反証されうる不完全なものでありうるということを暗黙のうちに認めているということだ。そういえばビッグバン理論というのはたくさんの反証を突きつけられている。でも、誰も・・・というか一部の跳ね返りを除いてそれを捨てない。超光速現象(不安定だそうだが)も発見されているけどアインシュタインがお蔵入りしたという話は聞かない。 そう簡単に科学理論は捨てれるようなものではないようだ。

弱ったことに進化論の根底を成す「適者生存」というのも反証可能性に引っかかる。でもダーウィンを超科学の殿堂に入れるのはたぶん許されそうにない。フロイトの夢判断もそうだが、彼は師弟そろって殿堂入りもありかもしれない。が、フロイトの理論の大筋は何となく認められている。いずれにしても反証可能性のない理論も”公理”としてある程度認めないと科学の底を支えられない。

なんにしても、哲学は科学ではない。反証可能性を振りかざすと、「反証されうる仮説のみが科学的な仮説であり、そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」などと言うことも非科学的な言説として切り捨てねばならなくなる。僕ちんはポパーなんて怖くないもんねえ。

ポパーは哲学者であり現実の科学を知らない。現実の科学は哲学ではない。科学は理想ではなく現実だ。現実の世界では少々の反証では仮説を捨てるには忍びないし、また予算を組んで実験をしているプロジェクトを少々のことで否定できない。また、突き詰めていくと科学の底には反証可能性のない理論がよどんでいる。でもそれをポパーがどう定義しようと捨てるわけには行かない。定義よりも現実の方が大事だ。

では現実とは何か? 現実は常にプロレスだ。

だから、いまこそ”反証可能性”を書き換え、ポパーの哲学を完成させ、草の下の彼に捧げよう。「反証されうる仮説のみが科学的な仮説である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学である」は以下のように書き換えられる。

「反証されうる仮説のみが科学的な仮説であるというのが科学の暗黙の了解である。そのような科学的な仮説で組み立てられた体系が科学であるという幻想が大事だ反証の無視はファイブカウントまでは許される 暗黙の了解・幻想・ファイブカウントに関してはこのHP 参照のこと。

そんじゃあ、ポパーは要らないかというとそうではない。理想主義者は常に必要だ。反証可能性に基づく彼の職業倫理に対する考察は、儂は常に忘れてはならないと思っている。

12箇条の職業倫理、

その9「我々は誤りから学ばねばならないのであるから、他者が我々の誤りを気づかせてくれたときには、それを感謝の念を持って受け入れることを学ばねばならない」その10「誤りを発見し修正するために我々は他の人間を必要とする。とりわけ異なった環境の元で異なった理念の元で育った人間を必要とすることを自覚せねばならない。」

ポパーの職業倫理のエッセンスは、「自分の仕事は常に批判(反証)を受けられる状態にしておけ」ということだ。エイズ殺人事件や金融誘拐事件を見るにつけ、厚生省や大蔵省の情報囲い込みがいかにこのポパーの高潔な職業倫理にかなってないかを知る。彼らの倫理的問題の根本は彼らの堕落や無能にあるのではなく、批判を受ける可能性のない職業環境を作ったことにあるのだ。・・・もっともこれは理想主義者のいうことで我が身に当てはめるのはちょっとねえ・・・・ポパーも自分自身には当てはめなかったことだし・・・