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2004-11-28 21:35:30

究極の格闘技の復活  2000年

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当然、影法師の続き。


はじめに

97年、日本格闘ネット黎明期にはこのような考えがはびこっていた。2000年のネット界ではもはやそれは正当性を主張できる代物ではない。しかしネットの外ではそれは今も変わらない。検討されないままNHBのコピーのみが今も往々にしてまかり通っている。

「いずれにしても格闘技の原形とは『生身の人間の最も原始的な闘争の形』であったのだと私は考える。(中略)私にとっての現代格闘技とは、『初めにルールありき』という単なるスポーツとは違う『生身の人間の最も原始的な闘争の形』のシミュレーションなのである。」(上村彰著「VTと最強幻想」より)

このような見解は広く行き渡っている。プロレスファンにさえ。いや、もしかしたら猪木のプロレスこそ、その様な人達の見つけた最初の拠り所だったのかも知れない。いずれにせよ、格・評論家オメガを含めて彼らに共通するのは「人間の歴史の中でもともとノールールの格闘技が実戦の中で生まれ、次第に競技化していくうちにルールで縛られるようになった。勿論原理的にはノールールのものが素晴らしい」と言う思想だ。このように格闘技の原型なるものをノールールの生存競争に求める以上、より制限の少ない格闘技を優れたものと見るのは当然の帰結だ。しかし、その根拠となる「生身の人間の最も原始的な闘争の形」であるところの格闘技の原型=元始の格闘技=究極の格闘技は現実に存在したのだろうか?したとしてもそれは、究極のノールール戦だったのだろうか? 1:元始の格闘技   有史、有史前に潜り込んで探るその正体大相撲、モンゴル相撲、ムエタイ、トルコ相撲・・・宗教と格闘技は深く結びつく。キリスト教原理主義者の雑誌ではことある毎に柔道や空手を背景に異教があると糾弾する。逆に、キリスト教やモスリムと深い関係を持つ格闘技はない。なぜ、格闘技というのは、(キリスト教やモスリム以外の)宗教と深く結びついているのだろう。このことが格闘技の原型と深くかかわり合うのは必然のように思われる。ギリシャのパンクラチオンはローマに移植されて格闘技としての技術を失い、殺人ショーに堕したと言われる。宗教との結びつきを奪われた格闘技はどうなるのだろう?ひとっ飛びに人間を離れて見よう。鹿の角つきや孔雀の羽が広げることのようなセクシャル・ディスプレイ、熊や犬の仔のじゃれあいのような遊びと訓練の混ざったもの。私にはこれが進化論的なスケールでの格闘技の原型に見える。動物達のもつこの格闘技のプロトタイプは、深く大きい暗黙の了解が支配する真の真剣勝負だ。鹿は角で押し合いへし合いをして優劣を決めるが、その様式は優雅に規定されている。子孫をどう残すかに関係があるにも関わらず、どうやら暗黙の了解があるようだ。熊の仔や犬の仔が相手をかみ殺したとか、マウントパンチでKOしたとか言う話は聞かない。詳しくはロレンツを読まれたい。ただし、これを格闘技の原型と断定することはこの稿の目的ではない。さて、人に戻ろう。人は道具を使う動物だ。そして遊び、且つものを考える能力を持つ。人同士が生存をかけて闘う場合、または種族の存続をかけて闘う場合、獲物をとる場合、当然武器を使うはずだ。生きるか死ぬかの場合に素手で相手と一対一で闘うなどという発想が有史以前にあったとは到底思えない。そして、有史以降も、ノールールで素手で相手と一対一で闘うという闘い方が、ルールの縛りのある格闘技よりも古くから記載されているという様な事実はない。それどころか、歴史上登場した時点で、格闘技は明文化されたルール、または非明文のルール(暗黙の了解)を持つ祭事や娯楽であったという事実しか出てこない。考古学上最古の格闘技の記録はイランのカファジェ・ニントウより出土した石板に描かれたレスリングとボクシング。古・中王国時代のエジプトにもレスリングを描いた壁画が見られる。しかし、これらの考古学的資料に現れる格闘技は、祭事的または娯楽的な性格を明らかに示している。中国の格闘技の原型であるとされる角抵も、歴史上の最古の資料では明らかに「神楽」であった。史記においては徒手格闘技は遊戯の項目に分類されている。人が小さな集落で暮らし、エジプトの古王国や商王朝のような大きな共同体を形成するには至ってなかった歴史以前については想像するしかない。しかし、歴史上の資料との連続性を考えに入れれば、何らかのセクシャルディスプレイ(男らしさを示すもの)や子どもの遊び(訓練)が次第に集落の神に対する奉納の形で特殊化していったものが格闘技の起源だと考えるのが適当だろう。狭い集団・村で主に祭りにおいて神に奉納するものとして、同時に村一番の娯楽として、またはセクシャルディスプレイとして、格闘技は行われたのではないか。だから、多くの民族が固有の格闘技を持つ、または持った。『古代スポーツの展開』(ベマガ社)という本においてはこの過程はスポーツの誕生そのものとされている。当然、神と村人に対してみせる闘いだから、各ファイターはファイターであるとともに神官でもある。各人のプライドや村の意識・歴史がルールとなる。前文明の時代に明文化されたルールがまず最初にあったなんてことはあり得ないから、まず暗黙の了解ありきだ。そこで「暗黙の了解の介在無しに立ち上がる格闘技なんてあり得るのだろうか?」という命題が正当性を主張する。ノールールでの命を賭けた闘いが、狭い集団の中で暮らす太古の人間の仲間同士で行われたとは思えない。別の集団の人間と戦うのなら武器を使っただろう。これも、考古学的資料の告げるところだ。もともと、ノールールの素手の1対1の闘いが、今日のような医療レベルにない大昔において、共同体の中で行われたわけがない。また現在の未開民族の例を見ても、多くはなんらかの民族の格闘技を持っているが、それがノールールで素手の闘い、いわゆるVTであるという例は見ない。いや、歴史には語られない形でのノールールで素手の闘いは一つだけあったかも知れない。それは、強姦だ。しかし、それをここで追求するのはよそう。さて、その後人類の進歩に従って段々集団は大きくなる。強い部落が弱い部落を吸収して支配下に入れたり滅ぼしたりする。当然部落の神も淘汰されて、生き残った神の支配する範囲は広くなる。しかし、依然として古代ギリシャのオリンピックは同じ神話を奉ずる者達が集まって試合を行ったし、古代エジプトのレスリングも、各地の相撲もそうだ。いずれにしても、そこそこ大きくなったとはいえ、共通の神を奉ずる仲間達による神に奉ずる神事としての闘いだから真剣な中にも暗黙の了解や互いを守るためのルールがあったはずだ。少なくとも「勝てばいい」と言うわけはない。 2:元始の格闘技の封じ込めさらに、時代は下る。ユダヤ・キリスト・モスリム(セム系一神教)共通の神を奉ずる格闘技は何故ないのだろう。旧約聖書ではイスラエルが一晩天使と力比べをしたが、それがセム系一神教の唯一の格闘技のようなものの記録ではないか。これはイスラエル=レスル ア エル(神)=wrestling with shadowsという民族の名付け話になっている。しかしながら、その格闘の様子自身には深い注意は払われていないし、その故事が神楽になっているという話も効かない。また、パンクラチオンはローマに移植されて格闘技としての技術を失い、殺人ショーに堕したのは何故だろう。それは世界化、世界宗教と世界帝国が原因だ、と私は思う。ローマはギリシャから移植された神話を持っていたが、世界帝国と成長するにつれてローマ以外に住む人間をもローマ帝国市民として受け入れていったから、神話的求心力は低下していった。神話の持つ求心力がなくなる以上、格闘技はもはや神に奉じられる誇り高き神官の舞ではなくなり、自ら自身に神性を見る帝国市民の慰みものとなった。もはや暗黙の了解を成立させた神・格闘家・村人の一体感はなく、ルールが守られるという暗黙の了解なくしてはルールなどなんの意味もない。闘うのは共同体から選ばれた市民ではない。かくて神話とともにローマに移植されたパンクラチオンは土壌を失い、ただの殺人ショウに堕していく。エホバが複数形の言葉である以上ユダヤの神も、もとは多神教のうちの一つの氏神として祭られていたものと思われるが、何故かこの神は固有の格闘技を既に失っている。そもそも、肉との関わりを否定する以上格闘技との関係も持ちようがないのかも知れない。ユダヤ教は世界宗教とは言えないので除くとしても、キリストもモスリムも固有の格闘技を持たない。それは、格闘技が土着の神を讃える神事として発生したのに対し、キリスト教もモスリムも最初から世界宗教となることを指向して誕生した宗教だからじゃないだろうか?キリスト教はユダヤ人以外にユダヤ教を布教することの是非を契機として誕生したと思われる。端から世界宗教指向だ。だから、ギリシャからヒョウ窃した神話ではない新しい神話的求心力として世界帝国化したローマ帝国に受け入れられた。キリスト教は格闘技に対して否定的だ。キリスト教成立時の既存の格闘技が神事である以上パンクラチオンもレスリングも相撲もいまの空手も柔道も原理的には異教の神を讃える行為で、異端である。これがキリスト教が格闘技に対して厳しかった理由のひとつだ。このことは未だに原理主義のテキストの中に見ることが出来る。ローマ以降近世まで、キリスト教圏では格闘技のルネッサンスは来なかった。逆に、極東の日本、タイ、中国などでは強圧的な強権的な世界宗教の支配から逃れて格闘技は発展する。世界はキリスト教圏の文化に覆われている。神は死んだと言われるが、少なくとも最近までは強い力を持っていた。それにムスリムの文化圏を足せば、エホバを讃える世界宗教の支配権は更に広くなる。その様な時代に格闘技が行われるためには、かっての暗黙の了解に守られた神事としての格闘技から、明文化され、無菌化され、エホバの神の機嫌を損ねないように無宗教化された格闘技に作り替えるしかない。キリスト教圏では、かって格闘技を支えた神はいない。歴史の彼方に封じ込められた。まさにここで初めてボクシングに代表される暗黙の了解のない格闘技が登場する。きちんと明文化されたルールで勝利条件達成に向けて闘いが行われる。世界宗教・世界帝国に相応しい格闘技だろう。ボクシングは古代ギリシャでもあったが、あれは暗黙の了解を沢山含んだ殺さないボクシングだった。日本柔道は日本人の美意識に従って堂々と組み合って投げるという暗黙の了解や明文化されない禁じ手を持っていた。昔は袖の長さ太さの明確な規定すらなかったのだ。一つの文化、それは古くは宗教という形で結晶化していた。日本の文化にはぐくまれた日本柔道が世界化していく過程で多くの暗黙の了解を失い、世界柔道と化していく過程を我々は目の当たりにしたばかりだ。これがまさに無宗教化された格闘技に作り替えると言うことの最新の例である。世界柔道ではいつまでREIが行われるだろうか。 3:封じ込められた究極の格闘技の復活さて、話は急にシャモニーのマリアとスペインの黒い聖母と”自由の女神”に飛ぶ。これらはキリスト教のマリアでも聖母でも女神でもない(勿論一神教に女神などいるわけがない)。シャモニーのマリアは遭難者の鎮魂と登山者の安全を祈願するものだが、聖書のどこをとってもそんなことの縁起となるようなことは語られていない。大体、日本的に考えれば、安全と鎮魂なんて山の神様=魔物に祈ればいいことだ。実際シャモニーの人々はモンブランには魔物がいると恐れていた。日本では当然その魔物が祭られる対象となる。それが人間の古来の思考法だ。ところが、キリスト教圏でそれをやると大変なことになる。魔物は当然悪魔の眷属で、それを祭ればあからさまな異端だからだ。しかし、一人しかいない創造主をいちいち、山一つの問題で改めて祭るわけにも行かない。唯一一神教の神はもう既に祭っているのだ。そう言うとき魔物とキリスト教の神の折衷案として持ち出されるのがマリアなのだ。マリアを持ち出すことで、それに、内緒で・暗黙の内に、魔物=母なる山の神=地母神を仮託することでキリスト教との表面上の整合性をはかる。それがシャモニーのマリアの正体だ。実際、無味乾燥で信者個人の実生活のレベルの空想や現世利益などに結びつく神話に乏しいキリスト教ではこの手のすり替えは頻繁に行われた。中世に広まったマリア信仰というのはまさにそれだと言われている。スペインの黒いマリアはアルテミスやリリト信仰の隠れ蓑である。実体はアルテミスやリリト信仰であって、マリアとして拝むことによってキリスト教との整合を謀る。フランス革命の有名な絵で、人々を導く「自由の女神」を見たことがあるだろう。彼女は単に「自由」Libertyとなづけられた。西洋では決して、「自由の女神」とは呼ばれない。ニューヨークの自由の女神もまたしかり。あれはStatue of Libertyだ。「自由の像」であって「自由の女神像」ではない。決してキリスト教の天使ではない。これは、フランス革命が自由を訴えたとき、僧侶階級は支配階級の一部であったことと無関係ではあるまい。しかしヒト型に描かれた「自由」をあえて「女神」と呼ばない暗黙の了解によってキリスト教との整合性を守った。キリスト教には女神はいないから。その様な必要のない八百万の神を持つ日本では単に「自由の女神」と呼ばれる。ミュンヘンのビール祭りで大酒を飲むときその市民を見おろすのは小うるさいキリストの神ではなく「ババリアの女神」である。世界宗教的な無味乾燥な価値観では、結局の所、人を押さえつけることは出来ない。これらは、世界宗教の水面下から、ぐつぐつと吹き出すようにアニミズム的な人間古来本来の考え方や宗教が顔を出すことの例だ。ようするに、世界宗教的な価値観で地上を覆いつくそうとしても無駄なことだ。世界宗教的な格闘技で地上を多いつくそうとする事も又然り。勿論、ボクシングのような世界宗教的な格闘技の存在価値を否定しないが、人間が大昔から一緒に生きてきた暗黙の了解を持つ本来の格闘技の存在価値は揺るぎないものだ。人々がそれを求めている。そしてその最もピュアーで新しい物がお祭りでレスリングを見せたことに始まるとされるプロレスだ。レスラーたちの間、レスラーと観客の間に多くの暗黙の了解を持ち、そして娯楽としてセクシャルディスプレイとして祭事として機能する。今日に格闘技の原型=元始の格闘技=究極の格闘技と呼べるものがあるとすれば、それはプロレスであろう。 追記: 新しい神とその新しい格闘技としてのVTそして、神の死んだと言われる現代の新しい神がいる。テレビだ。多くの熱狂的な信者を持つテレビという神が自分を讃える格闘技を求めている。この神は以前の神々のようなつつましやかな神ではない。自分を讃える一つの格闘技では満足しない。どん欲に全ての格闘技を自分のものにする。ボクシングやプロレスはこの神のお気に入りの格闘技だ。この神は謂れや由来は問わない。視聴率という究極の教義に従って、全ての格闘技を作り替え、その教義に従わない格闘技は放逐される。最近ではテレビ放送のためにカラー柔道着が導入されたことや、思い上がったTVプロデューサーが自分に八百長団体を認定する資格があると過信してもめ事を起こしたことが記憶に新しい。TVの神官達は自分たちこそ次の格闘技の流れを作る力があると思っている。他チャンネル化の流れというものにより、TVはさらに貪欲に放送ソフトとしての多種多様な格闘技を求めている。一方では、多くの種類の格闘技派に生き残る力を与えている。そういう時代にテレビを讃える格闘技の一つとしてUSAで台頭してきたNHBは今、曲がり角にある。理由は様々だが、一つは放送コードによるルール制限。ボクシング・柔道のような統一組織がないための拡散。すなわち、VTと称するいい加減な興行の乱発である。どれがそうであるかはここでは言うまい。また、UFCJのあからさまな失敗、良い人材を集めて行われたはずのコンテンダーズの興行的な失敗はNHBシーンの変質を引き起こすだろう。これは人材かそれに見合う資金かのどちらかの枯渇を意味している。最近のVTムーブメントのみに注目してみれば、VTは究極の格闘技などではなく、最新の神を讃えるよちよち歩きの多くの格闘技の一つに過ぎない。これからその神の力のもとで、多くの暗黙の了解に縁取られたプロレス型の格闘技と世界宗教型の格闘技の両方向に拡散して分裂して行くだろう。追2:VTはルールの制限が乏しい明文化されたものである。異なる流派同士の決着を付けるための方法だったそうだ。これはまさに世界宗教の文化圏でかっての神を失った神官(=格闘家)が戦う様である。なぜなら、その文化圏はあらかじめ各流派の対決の枠組みを決めるほどに大きく、各流派はそれに帰属する物でしかない。考えようによってはまさにブラジル的かも知れない。(けどその考案は省く)ノリリン自身による解説へ:CLICK HEREAcknowledgment:この稿を書くに当たって、イランの石版やエジプトの壁画、中国の角抵など歴史的情報の多くをティモシー・アーチャー氏の文章を参考にさせていただきました。ありがとう御座いました。引用ミスによる誤解・誤謬は全てノリリンに帰します。 --------------------------------------------------------------------------------究極の格闘技をめぐる構造「最強の格闘技とその影法師達」by 格・評論家Ωと「究極の格闘技の復活」by ノリリンに対する解題  by パソゲン 格・評論家Ωとノリリンの文章を解説するために、彼らの上部存在(本体)としての私にパソゲンというハンドルネームを与えることにする。格・評論家ΩはVT至上論者のカリカチャー、かたやノリリンもプロレス至上主義者を名乗る一種のカリカチャーかも知れない。どちらも私の想念の結晶したキャラクターであるが、格・評論家Ωの方はもうあまり現れないであろう。パソゲンもまた然りである。 きちんと議論すると言うことは、相手を理解することである。私の尊敬するノーベル文学賞受賞者、B・ラッセルは「ある哲学者を研究するのに正しい態度というのは崇拝でも軽蔑でもない。一種の仮定的共鳴を持ち、その哲学者の理論を信じることはどんな気分がするか知ろうとすることである。その後初めて批判的態度を復活させて、それまで支持していた意見を放棄する人の心境となるべきである」と語った。 私も私の嫌いな「VT=最強決定機関説」論者や早すぎたVTファン(注)と真面目に議論するためには、まず彼らを研究し、理解し、その理論を信じる必要がある。しかし、プロレス至上主義者・ノリリンのままでは不可能なことである。そこで登場したのが、格・評論家Ωだ。当然この名前は格カフェのあの二人の名前のミックスである。 格・評論家Ωは真面目にVT至上主義を理解した(と思う)、しかし文章としての表現にはある程度の諧謔が必要だから、格・評論家Ωの文章にも少し諧謔味が入っている。彼(と言っても私だが)の言う「死の戦慄と予感」は確かに格闘技の魅力の一部を占めているかも知れないし、ノールールの素手での闘いが格闘技の基本だと言う考えはある程度の説得力を持って多くの人をとらえている考え方だ。こういう考えを持つものがいても不思議はない。と、理解した。 ラッセルの方法に習ってその考えが理解できるようになった以上、きちんと格・評論家Ωの考えを咀嚼し批判的態度を復活させて、それまで支持していた意見を放棄する人の心境となる必要がある。そうでないと格・評論家Ωパートの思考はノリリンにとって危険だし、パソゲンにとっても思考がよれる恐れがある。(もっとも、金的を打たれたものが蛯の形で飛び跳ねながら闘うべきだとか、畳にたたきつけるのも、畳をたたきつけるのも同じではないかという考案などにはノリリンの側の思考法が漏出してきている。) だから、ノリリンは格・評論家Ωと対論で語る必要がある。 格・評論家Ωの論理には致命的な部分がある。パソゲンはアルプスの山々やミュンヘンの町並みを見ながら徐々にその確信を深めていった。そしてそれは、ティモシー・アーチャー氏の未発表の(そしていつ発表するんだあ!)リングスに関する論文を読んで、確信は裏付けを得た。それはノリリンのパートに書いてある通り、  ・知られている格闘技の発達史と矛盾する  ・VTを格闘技として持つ未開民族はいない  ・人間は本来道具を使う動物だと言う事実と矛盾する  ・VTで同族と闘う動物はいないということである。 そういう事実がある以上、ノールールの格闘技は元始の格闘技であるとか、格闘技の基本形であるとか、究極でベストのものであるとかいう理由で、他の格闘技より一等高い地位を占めるという議論は成り立たない。単に他の格闘技と同じ水準のOne of themであって、各人の好み・好ききらいでより分けられるものの一つに過ぎない。 そして、ノリリンパートのもう一つの存在意義は、某格闘家の発言10・11後の「格闘技とエンターティメントは違うと言うことです」に対する否定である。私は格闘家の強さは尊敬しても、頭の方はイタイ奴が多いと思っているから発言をいちいちあげつらいたくはない。でも、この発言は重要だから放置できまい。VT系のもの(暗に自分の属する修斗を含む)を格闘技と同義語として使っていることは明らかにVTを格闘技の王道・中心・プロトタイプ・基本形とみる思考法が見て取れる。このことは上部でもう否定したし、倫理的問題点も「ファシズム的最強に対する嫌悪」で指摘した。だからもういい。 もっと大事なことは格闘技とエンターティメントを分離しようとする考えかただ。「純文学」という造語により日本の物語を破壊し、読むに耐えない不能者の自虐日記をあふれさせた文学者と称するやからの思考法と同じく愚かなものだ。でも、そういう考えが好きな日本人は多い。 格闘技とエンターティメントの分水嶺を求めて、いつものようにノリリン(と言っても私だが)の理論は疾走する。 曰く  ・「狭い集団・村で主に祭りにおいて神に奉納するものとして、同時に村一番の娯楽として、    またはセクシャルディスプレイとして、格闘技は行われたのではないか。だから、多くの    民族が固有の格闘技を持つ」  ・「各ファイターはファイターであるとともに神官でもある。」  ・「暗黙の了解の介在無しに立ち上がる格闘技なんてあり得るのだろうか?」  ・「その様な時代(世界宗教の時代)に格闘技が行われるためには、かっての暗黙の了解に守    られた神事としての格闘技から、明文化され、無菌化され、エホバの神の機嫌を損ねない    ように無宗教化された格闘技に作り替えるしかない。」  ・「世界宗教の水面下から、ぐつぐつと吹き出すようにアニミズム的な人間古来本来の考え方    や宗教が顔を出す」 大昔には神事・祭事、つまりは村一番の娯楽として(神と人に)闘いを見せる様なことが行われていて、そのうち、予定調和的結末が強いものは「神楽」となってゆき、弱いものは「格闘技の原型」になった。しかし、中国の例を見ると、それは本来不可分なものであったはずだ。格闘技はエンターティメントと対立する概念ではない。某選手は「格闘技は・・・」ではなく、「VTは・・・」とか「修斗は・・・」とか「ヒクソンの試合は・・・」とかいう主語を用いてエンターティメントではないと述べるべきであった。もう一つの問題点(=どこをみとんのじゃい)に関してはここでは述べない。 そういう観点から「今日に格闘技の原型=元始の格闘技=究極の格闘技と呼べるものがあるとすれば、それはプロレスであろう。」と歌う。ノリリンの立場から言えば当然の帰結・プロレス至上主義者の言葉である。 しかしながらプロレスが、格闘技の原型=元始の格闘技=究極の格闘技であったとしても、だからといって他に君臨すべきものであると主張するつもりはないことはつけ加えておかねばなるまい。注:早すぎたVTファンとは、プロレスに異種格闘技戦による最強のみを求めており、それ以外のプロレスには興味を感じない。儂はこういうファンを”早すぎたVTファン”と呼ぶ。彼らはプロレスを愛するプロレスファンではなく、プロレスファンになったときにはまだVTがなかったから、たまたまプロレスを選んだにすぎないと言う意味である。結局自己の最強願望の代償行為としてプロレスを求めたに過ぎない。--------------------------------------------------------------------------------あとがき及び 真剣勝負の発見序章以上は97年の暮れの頃に書かれた文章である。今読むと若書きであって、なんで儂はこんなに力を入れて口からつばを飛ばしながら書かなきゃいけなかったのか!?と思う次第だ。特に自己解題の部分。こんなにあつくならずに岩波新書的な書き方でもよかったんじゃないかとも思う・・・のだが一部の捕捉とイントロの部分を除いてそのままにしておいた。この『究極の格闘技の復活』に関してはまた書き直すこともあるだろう。勿論この『究極の格闘技の復活』は『最強の格闘技とその影法師達』と対をなすものだが、その後もう一つ内容的に対をなすものとして『真剣勝負の発見』の構想が浮かんだ。『究極の格闘技の復活』を読むと、それならば『スペクテータースポーツとしてのガチ』が成立したのはいつかと言う疑問が残る。すでにみたとおり、格闘技というのは元々プロレス型である。人という、この道具を使う動物が何故は素手で事前の打ち合わせや暗黙の了解なしに闘って勝負を決めることが見て面白く、またやって得になるものだとわかったのはいつかという疑問が湧いてくるはずだ。儂にも疑問であった。その後の検索でわかってきたことは、大相撲が江戸時代はっきりとしたプロレスであったことと19世紀黎明期の英国興行ボクシングは全日の4天王プロレスであったと言うことだ。江戸時代の大相撲はGカブキばりに顔面に刺青をした力士がいたり、悪役善玉がいる上に地方地方でそれぞれ役割を入れ替わりながら巡業していたらしい。大名お抱え力士同士の大一番が組まれたりしたときには7番勝負で連日興行した上に3勝3敗で最後に同体で引き分けになることが多かったらしい。英国のボクシングの元のルールでは最初のラウンドの最初のダウンを奪ったところで一旦ラウンドが終了。次ぎのラウンド開始までにたてなかったらKOと言うルールでやっていた。これによってダウンさせたりさされたり観客の熱狂を誘いながらマラソン耐久マッチが何十何百ラウンドも行われた。もともと英国のボクシングはジェントルマン・貴族が領民や平民達に娯楽を提供する貴族の義務の一つとして発祥した。流血はおそらく最も簡単にpopを得る方法として気軽に繰り返し利用されただろう。ところが産業革命以後の都市浮遊民などの存在が、領民達への娯楽提供という形のスペクテータースポーツの一つであったボクシングの形をゆがめていった。パターナリズムにコントロールされない低層群衆がボクシングなどのブラッディースポーツの会場に集まり騒ぐこと、とコントロールされない底辺労働者がそれに対する賭博で身を滅ぼして行くことに批判が起こったのだ。もっともボクシングに金を賭けること自体が馬鹿げていたのだが・・・それによってボクシングは徐々に現代の競技スポーツに(ある意味堕していった)変化していった。ここら辺のことを詰めていきたい (続く?)・・・・・・・・・・・・・続かない、今のところは
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2004-11-25 23:29:17

ルイスの4時間 2004年version

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ストラングラールイスやジョーステッカー、ズビスコはボディーシザーズやヘッドロックを延々何時間もかけ続ける試合を続けたという。だからシュート幻想が今まで残っているという側面もあるそうだが、それはまた別の話。



そういう試合が受けたから彼らは行ったのではない。長時間試合は悪評芬々でプロレス界の危機となったそうだ。
伝説の福岡ドーム・長州組vs小川組、東京ドーム・健介vs小川戦をみた現在の我々には何が起こったか分かるであろう。
ケツの決め方を失敗して観客不在の試合が行われたということだ
jobの代償として長々とつまらない試合が行われることはままある。近い例では7/10、ノア東京ドームのライガーvs金丸。

このことはシリーズ型ではない、イベント型のプロレス・スーパーマッチの難しさを示している。星回しがシリーズ型でないとうまくいかない。簡単にはブッキングが成立しないのでスーパーマッチ型の興行はなかなか行うことが出来ないのだ。


その袋小路にいた小川はzero-oneを経て、いい感じになってきた。ただまた今度は別の袋小路にはまっている。・・・・けど、どう解決するかはまあ、客の考えることじゃないな

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2004-11-23 21:40:29

最強の格闘技とその影法師達 (オリジナルは1997年)

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評論家Ωというのはあの無名な格評と今はどうしているか分からないμくんの名前を会わせたものです。


これは観戦記ネットと同じものの再録


最後に解説を付けるかも

貴兄のHPを読ましていただいた。しかし、掲載されておるのは殆どがプロレスの観戦記ではないか!”ドゥット熱闘”とは名ばかりで、冷めたタコスしかのっていない。「ヴァーリ・トゥードに代表される”なんでもあり”の格闘技こそ、最高であり、最強であり、真の格闘技である」という明快な理念に基づけば、プロレスやKOKなど脇に置き、font size=1で掲載すべきであろう。このHPには主張を十分に繰り広げられるVTの宣教師が不足しているのではないか。そこで、小生が拙文を貴誌に投稿する次第である。最強の格闘技とその影法師達格・評論家Ω 元始、格闘技は戦いであった。人間というのは同族を殺す動物である。互いに争い、力を競い、強いものがより多くの子孫を残してきた。また種のためにも強い者が沢山の子孫を残さねばならぬ。強い者の強さの裏づけになる戦い。それを勝ち抜く技術がまとめられたものが格闘技である。元始の格闘が文明化の及ばない生存・子孫繁栄のための戦い、強者を選抜するための戦いであったとすれば、格闘技の原型ともいうべき元始の格闘技は今の明文化されたルールを持つ文明化された格闘技とは異なった物であったろう。今の文明化された格闘技にとって、ルールというのは安全に試合を行うための一種の事前談合である。しかし、生存のための戦いを行うに当たってその様なことがあり得るであろうか?当然、元始の格闘技はその様な細かいルールの制限のない物であったはずである。それは今までは失われた究極の格闘技であったはずだ。対して、今の文明化された格闘技はどうであろう。空手は殴る蹴る突く。しかし、投げる、押さえる、極める、絞めるを禁ずる。柔道は投げる押さえる極める絞める。しかし、殴る蹴るを禁ずる。サンボは首を絞めるのを禁ずる。殴る蹴る投げる極める絞めるを許す総合格闘技においても、安全性の美名のもと禁じ手は多い。一昔前のプロレス系総合格闘技などはルールの複雑さを自慢する有りさまだった。パンクラスやリングスのことだ。今の文明化された格闘技は多くを禁じ、可能な技のうち一部のみの使用を許すのである。つまり究極の格闘技から、幾つかの要素を抜き出して組み合わせただけの物達が今や格闘技の名をせん称(私のマシンでは変換できなかった。品川君、変換してくれ給え)しているのである。いってみれば今の格闘技など、およそ究極の格闘技の分解された因数の組み合わせにすぎない。究極の格闘技を実体とするとその影法師のような存在でしかない。しかし、究極の格闘技の復活が不可能な以上、本能的に最強をめざす格闘家達が最も制限の少ないその最大の因数であるVTの旗の元に集まるのは当然のことである。そして、その最も危険な究極の格闘技に近いVTに参加することが出来るかどうかが、真の格闘家であるかどうかのリトマス試験紙ともなる。であるから、真の格闘家はVTに参加するかどうかできまり、最強の格闘家はその中から選ばれるのが当然だ。究極の格闘技に一番近いVTに当然の権利として”最強の”格闘技の名を贈ると、今の格闘技界をめぐる状態は、最強の格闘技とその影法師達の最終戦争であるということが明らかとなる。一方観る側はどうであろう。何故格闘技を興奮して観る者(ファン)が存在するのか。強者への憧憬か?それはあるであろう。しかし、なぜ強い者に憧れねばならないのか。私はそれを還元して以下の命題を得た。「格闘技の興奮は、それが味あわせてくれる死の予感と戦慄から来る」究極の格闘技は本来子孫を含めた命のやり取りであった。戦い破れた方は、死ぬか不具になるか、運が良くても子孫を残せない。究極の格闘技をみた者、我々の祖先は死の予感と戦慄を感じたであろう。同時にそれは強者の持つ性的な魅力の裏付けでもある。我々に潜む強者への憧憬と死の予感と戦慄は裏表の関係で不可避的に結びついている。これが格闘技の魅力の本質である。そうである以上、最終的な相手の破壊に至らない技は単なる見せ技、孔雀が羽を広げるようなディスプレイにすぎない。ボクシングはただ殴るだけという殆ど格闘技とも言えない単純な見せ物だが、時折死の戦慄をかいま見せる壮絶なKOシーンがあるため命脈を保っている。死の戦慄は他にもK-1のKOシーンや、絞め技のある格闘技で目を剥いて泡を噴きながら首絞めに耐える選手の姿などからも漂ってくる。投げて勝ちとか、効く効かないに関係なく手数の多い方が勝ちとか、ロープ・エスケープの少ない方が勝ちとかというのでは全くもって死の戦慄からはほど遠い。その様な実際の戦いからほど遠いパラメーターで勝負を決するようでは、影法師の格闘技達は真の興奮をファンに与えることが出来ない。やがて優れた格闘技の登場によって淘汰されてしまうのである。今の所、究極の格闘技の最大の因数であると思われるVTではどうであろう。わずかな制限しかない危険なルールの元で、相手の戦闘能力を奪うことのみに専心して繰り出される技と男達から湧き出てくる死の予感と戦慄がVTを最もスペクタクルな格闘技たらしめている。究極の格闘技の最も近似した姿であり、その本来の魅力を引き継ぐVTが世間の耳目を集めるのは必然である。しかし、VTも単に因数のうち最大、影法師のうち最高であるにすぎない。当然問題がある。一つには目潰し・金的・噛みつき・頭突きのことである。噛みつきは大きな問題ではない。単に試合前に充分口内を消毒した上、認めればいいのである。レフェリーがいる以上ハイキックや顔面パンチ程危険ではない。ただ野蛮に見えるだけの問題である。金的、目潰しは特殊なプロテクターを着けた上で認めれば問題はない。目には視野を遮らないゴーグルを付け、それを充分強く触られた場合はマジックで黒く塗りつぶして視野を奪った上で試合を続行すればよい。金的の場合は事前に各選手の金的に打撃を加え、どれくらい耐えられるかを計算した上、ファールカップ着用を義務づける。金的に打撃が加わるごとにコンピューターで解析して、ある程度以上の打撃を受けた側の選手は負けか、あるいは蛯の形で金的を押さえ飛び跳ねながら相手と戦うことを義務づける。頭突き?確かに危険だが、危険が怖いならあやとりでもしていればいい。マウントの状態で手を押さえあって、そのまま最大の武器である頭を使わないなどと言うことがはたして許されるべきであろうか?これらの改善で、攻撃上の制限が減りさらに一歩一歩究極の格闘技に近づける。特に前述の目潰しの導入は重要である。目潰しがあるかないかで、タックルの間合いやスタイルが変わってくると思われるからである。目潰しが有りの場合、自分の目を守る手段を考えながらタックルをせねばならない。タックルの時は自分の顔が相手に近い上、自分の手を防御に使えない状態だからである。具体的には相手の体に自分の顔面を密着させて、目を守りながらタックルするような手段が必要になってくると思うが、今普段に行われている方法・形とは大いに異なる。おそらく、これにより打撃系の選手に道が開けてくるようになる。勿論、実際にプロテクター無しの目潰し・金的蹴りが行えた方が各人の勇気まで試すことが出来るので素晴らしいが、今の世の中では不可能であろう。見逃されがちであるが闘場の大きさも問題がある。充分大きくないと合気道のように走り回る格闘技には不利であろう。もう一つの問題は、武器を使わず、一対一という格闘がどこが実戦的かという批判である。武器を使うかどうかというのは大きな問題ではない。ばかげた問題である。武器を持てばもはや格闘技とは言えない。もっとも畳敷きの闘場で柔術・忍術の高段者が畳返しを使った場合、凶器とするかどうかと言うのは熟慮を要する問題であるが・・・(なぜなら、投げというのは相手を闘場にたたきつける技。それが有りならば理論的には闘場を相手にたたきつけるのも等価であり、認められても不思議はない。)しかし、一対一というのは熟慮が必要である。なぜなら、最強の男(女権主義者のために人間と書いてもいい)を決めるために一対一で戦っていれば、AにBが勝ち、BにCがかったが、AとCが戦うとAが勝ってしまったということが起こりうるからである。大体、一対一と誰が決めたのだ?一対一、XXvsXXなどというのは愚かな興行主義の生んだまやかしの形式にすぎない。だから大きめの闘場を用意し、バトルロイヤルの形式で一斉に戦うVT戦が、例え実験的にせよ、どうしても必要であると私は考える。いま現実に行われているVT戦は所詮興行にすぎない。VTまたは上述の改善を施したVTが興行としてではなく、真の格闘技で真の最強をめざす真のファイター達の命がけの究極の格闘技として行われる日は近い。
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2004-11-21 08:44:47

負けたら爆発しろ2

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爆発すると言っても、実際にリング上で爆発するのはそりゃ無理だ。人がやっているので本当に爆発するのは無理だが、少なくとも大きなダメージをうけて暫くいなくなるか、次に登場する時には別キャラになってもらわないと、勝ち負けに意味がない。


リングで実際に爆発に類することをやったのは大仁田だが、実際には爆発したのは爆竹でちょろっと血が出て少し痛いだけだった(・・・当たり前だ)。
もっと大きな仕掛けでやったのはムタvsサップだが・・・あれは・・・大したことなかった。
今のCGと特撮の技術なら実際に必殺技をうけたレスラーが爆発する試合も可能じゃないかな?是非やって欲しい。もっとも実際に爆発する訳じゃないから(・・・当たり前だ)、やるのは何年かに一度にしないと驚きがないけど。

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2004-11-20 20:30:20

負けたら爆発しろ!

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クウガ以降の仮面ライダーはCGや撮影の構図が見事で、ドラマはともかく闘いが素晴らしい。プロレスファンにとって楽しいものに出来上がっている。
で、中でも最低の出来と言われているのが今の仮面ライダー・ブレイド@放映中だ。


仮面ライダーの造形がよくない。ごてごてして躍動感がない。ギャレンとブレイドの変身前が似すぎている。睦月が不細工。江川が露出度低すぎ。などなど沢山問題があるが、最大の問題は倒れたモンスター(劇中ではundeadと呼ばれる)が爆発しないことにある。


倒した相手が爆発しないとカタルシスが生じないのだ。


クルクルと回って、プロレスに至ると、やはり倒された選手も爆発して欲しい。
(以下次号)

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2004-11-18 22:05:21

ネットプロレス考古学・伝承ROM民族のプロレス格闘技掲示板史

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すごく昔の話(96~7年頃)

 

語り部・鬼丸


 


1、世界のはじめ


1996年のようやく雪も溶け始めた春のある日のことじゃ。


KAZUMAの大神が、プロレスカフェをお造りに成られた。


網宇宙では、世界はそこから始まったのじゃ。


 


むかーし昔、世界は、混沌としておったのじゃ。


人と神の区別も格闘技とプロレスの区別もなく。


プロレスも格闘技も両方のファンが、寄り添うように原始的な社会を作っておった。


牧歌的で平和な世界じゃた。


 

 プロレスカフェの国では、KAZUMAの大神みずから民に、プロレスとK1戦士についてわけへだてなく語られておったのじゃ。 そのうち、人類が増え、栄えるとともに、派閥が生まれ醜い争いが始まった。神はこれをいたく悲しまれ、世界を2つにわけられた。  国創りの尊、呂夫の大神の手で、格闘技カフェを民にお与え下さったじゃ。 「プロレスは、格闘技であるという考えもありますが」と前置きされながら、新世界を御創造され、プロレス界と格闘界をお分けに成られた。  そこには、古い種族に、無頼庵、ユースケクンタキンテ、考古黒Gr、うおじしゅうへい、格闘王、 shungo、koyata 他多数の個性的なやがて神となるの種族がおった。ちなみに、ここにおわす「中中中の神」もそのころから生息しておる古い種族なのじゃ。その地において、以前は、活発な神としてご活躍の時期も過ごされたようじゃが、今は、静かに歴史を見守っておられる。歴史の承認と言うべき守神じゃ。  争いのもとはいつも「八百長疑惑の疫病」と「~と比べて優秀病」じゃった。 反プロレス者がそれらの疫病を流行らせると、気弱なものから死に絶え、プロレスの国を捨て去っていった。 その禍が、U系ファンに移るのを恐れ、なかにはプロレスを生け贄にすることで、U系ファンを救おうとする裏切り者まで出てきた。悲しむべきことじゃ。 神々の舞台裏のことじゃてよくはわからんが、前田の発言「リングスはプロレスではない。」というコンセプトが、世界を二つに分ける非運を招いたのかのー。  根の同じものが、分かれていかねばならんのじゃから、両方を愛する民には、ほんとうに悲しいことじゃった。 1996年8月の寝苦しい夏の日のことじゃった。  2.ブラウザーの外の近似する異世界の相次ぐ国創り  ネット人口の増大とともに、近似する異世界で、相次ぐ国創り事業が行われた。 かぞえきれんほど多くの国が出来ては消えていったが、大国とよべるものはそう多くはなかったんじゃ。  そのうち、「全日の国にトーキングルーム」という新大陸が発見された。  また、大創造主知蔵の大神が新日ファンのために、1996年12月「新日黙認の国フリートーク郷」をおつくりになり、それぞれの民はそれぞれの場を手にすることが出来たのじゃ。 新日、全日と団体のカラーで、色分けが可能な民は、新天地へ旅だった。逆に、新大陸から、漂流してくる者もおった。  双方は、航海術「リンク」や羅針盤「検索エンジン」などを駆使して、ダイナミックに行きかうようになった。  全日と新日の双方の民は、出会うと常にののしりあったっていた。 もう、25万年も前から続いている半ば儀式化したものでな、双方が出会ったときの挨拶のようなもので、争っている当人同士もなんのために争っているのかさえ忘れていた。 出会ったら、とりあえず、罵るのが決まり事になっていたのじゃ。(ノリリン注A) 時折、全日の民の使う呪詛の中に「黙認の奴等」と言う言葉があった。  当時プロカフェの国に住み、たまにバケーションで全日の国を訪れるくらいの世界観しかもたなんだ、まだ幼かったワシは、世界の外には「黙認」というおそろしい地獄があり、恐い悪魔が住んでいるのだと思いこんでいたものじゃ。 黙認国のフリートーク郷は、その民の凶暴性ゆえ崩壊したという噂が流れた。その恐ろしい怪物を人は妖怪網荒らしと呼んで、これをおそれた。 カフェの住人、長老無茶先生どんの「プロレス茶屋」は、妖怪網荒らしが出て、閉鎖に追い込まれたそうな。」と噂言うを聞き、この世界もいつかはその妖怪網荒らしの手でズタズタに切り裂かれ、世界が滅びる日がくるのかと思うと、恐ろしくて毛布に潜って、ガタガタと震えていたものじゃった。 今にして思えば、そんなにひどい連中でもないのじゃ。ただ、一部のものが言葉使いが乱暴なだけ(ノリリン注B)での。初めてその地を訪れたとき、「なーんだ全然普通じゃないか」と思ったもんじゃ。 ただ、噂のほうが凄くてな。恐ろしいイメージだけが先行しておったようじゃ。 感じ方は人それぞれということかの。もっとも、フリートークは、無差別級という都に遷都しておって、昔のままではなかったかもしれんが。  プロカフェでは、誰から言うともなく自営団が結成され、ならず者を撃退したり、大神の力で、「削除の魔法」が施され始めたのはこのころじゃなかったろうか? 「言論の自由」と「削除」の関係も真面目に議論され、ネット内プロレス世界のあり方について有意義な議論がかわされたのもこの時期じゃ。  3. 知識有産階級、情報スピード貴族  格闘技系と呼称されるU系民族が大移動したのち。プロレスカフェの国には、2種類の長者どんが残った。データベース型と事情通、情報スピード貴族のかたがたじゃ。知識有産階級の長者は、あらゆるインディと女子を網羅する知識をもつものと、業界に通じ誰も知らない情報とその速さを誇示する情報スピード貴族があり、知識有産貴族は、平民に情報の恵みをくださった。 が、ときおり慢心され、平民を差別する発言をする御仁もおられたので、平民の反感をかうこともしばしばあった。 知識無産階級は、下僕のように扱われる歪んだ時期がしばらくあったのじゃ。 「最強のオタクはオタクが決める」非情な知識偏重世界。 おそらくワシの知らぬ天地創造以前のニフな世界からの悪しき習慣の流れだったのじゃろうが、「ニフの奴等」と呼ばれた種族は、こわごわとインターネットをはじめたばかりの新人類と違い「いきなりため口」というラフ殺法で、新人を怯えさせるに十分な「恫喝術」の心得があったようじゃ。無論一部の元気者の話じゃが。 一番民衆に好まれたのは、試合速報の恵みをもたらす「そのとき貴族」の方々ではなかったかの。有産貴族の「プロレスのプの字もしらないやつがー」などの差別的発言に対し、小規模ながら、無産階級の反乱があり、プロレス者は、情報知識の過多で差別されてはいけないという「プロレス者平等宣言」がなされた。 折しも、マスコミでは、ターザン山本 が、慢心から取材拒否にあい、自滅していった。 週プロ擁護派と新日弁護派が、激しく争い、知識の羅列より、おもしろい議題が、掲示版世界を活性化させることを世に示した事件じゃった。 プロレスカフェの国は、ターザン山本の取材拒否事件勃発のころ開国した。この偶然もその後の発展経過をみると色濃く繁栄しておるようじゃ。 昔ながらに、ネットに知識情報だけを求めたものは、ここは荒れてきたと非難したが、網世界のカフェ国の民が、プロレスという話題を通じ、人生観や社会観をぶつけ交流しあう新たな場へと進化した姿に映って、わしはエキサイトしたものじゃ。 趣向性から敵対関係にあった団体付属系の民同士じゃったが、外敵が八百長論を唱えると知識無産も有産も全日も新日もなく村人は団結してこれを撃退した。  4.黎明期のプロレス外格闘界=格闘技カフェ創生期  一方、分家してできた格カフェ新国じゃったが、はじめは閑古鳥状態が続いた。 初の更新には2週間もの時間を要するほど、公益は少なかったのじゃ。 存在を余り知られていなかったからじゃし、インターネット普及率が低かったこともあるが、VTという言葉さえない時代じゃ。  月1回の興行で提供される試合を待つしかこれといって話題なかったのじゃ。  格闘技には、「リングスとパンクラスと少しのシューティング」があれば、新国の民は満足していたのじゃ。 「米と味噌と少しの野菜」を食べていればいい、まるで宮沢賢治の生活じゃ。 格カフェでは、当初、タイトルどおり相撲、ボクシング、柔道の話題にチャレンジするものもでたが、ツリーを形成できずに終わった。 当時の新国は、UWF信者の砦だったようじゃ。プロレスを馬鹿にすることで、正統性を主張する輩が横行し、心有る者を悲しませ、無邪気なU系信者の民を喜ばせた。 キーワードは、「真剣勝負」だったのじゃが、「八百長説の疫病」と「潔癖すぎる真剣勝負至上主義」は、裏返すと同じものじゃったんじゃなー。 八百長説を唱える輩には悪意があるが、「潔癖症真剣勝負論者」には、悪意がまるでない。  悪気のない奴に反省はない。わしらは、頭を抱えたものじゃ。場所がかわっても、未熟な民の精神構造までは、かわらんじゃった。  プロレスカフェから、新国・格カフェに抗議に出かけるものもあったが、分をわきまえていれば、それなりに平和じゃった。そう、アルティメットの風 がふくまでは。  5、アルティメットの風(伝説の神々の争い) アルティメットの風が吹き、格カフェは大混乱に陥った。なんでもあり主義は、U系急進派が、プロレスをコケにすることで優位にことを運ぼうとしたのと同じ戦法で、今度はU族を苦しめ始めたのじゃ。 あの頃から、なぜか目の敵にされたのは、リングスじゃった。竹田良の神(μ)は、知識貴族の文体と「ソースは言えない」という情報を武器に新世界を翻弄なされた。 曲解、歪曲、我田引水。戦いに禁じ手なし。「なんでもあり」を議論の中でお示しになり、さわる者を皆、破壊していかれた。 一見筋が通っており理路整然とみえる間あいで、怪しげな根拠を引用されて、自説の結論に導かれた。時折、根拠の希薄さが批判の的になり、非難の声が単発的にあがった。 途中から、議論に参加する者のなかに人のいい方もおられ、判官びいきで加勢されたが、大概の御仁は共闘するうち矛盾と無情におきづきに成られ、そこを離れていった。 孤立しても、なを、独力で猛威をふるわれ、創生期からの勇者が、傷つき倒れて、破れ去っていったのじゃ。引退宣言をだすものまでおった。 自我が崩壊されて、病院送りになられたおかたや、実名が同姓同名のため、友人や最愛の家族を失うもの、信用をなくして会社倒産したりする実害を被った方もおったそうな。 世界のストック・マーケットをおそった恐慌は、このおかたの力なんじゃ。不敏なことじゃ。 あれほどの魔人は、今後、表れることはないかもしれんのー。それほど、お強いおかただったのじゃ。 歪曲大王竹田良の神(μ)が、柔術至上主義を手にされ、リングス八百長説を唱え、U信者の楽園を一度、完全に破壊された。  「なんでもあり」は、最強決定の唯一無二の道。宇宙の絶対的真理。 という論調にうなずいていたU系の民じゃったが、柔術繁栄を願うあまり、「スリーパーは安全」「西洋の医学は間違い。」果ては「ボクシングこそ残酷」「相撲」「空手」「K1」と次々に血祭りにされ、「格闘技の全ては、柔術のもとに膝まづくべし。」という見解をお示しになると、無垢な民も流石に、何かがおかしいと疑い始めた。 そして、リングスと前田の糾弾にことが至った時、ついに反竹田軍は立ち上がった。 民は、ひらがな使い、後に言霊師の異名を持つ長老ユースケクンタキンテを筆頭に、狂犬・無頼庵大王をけしかけこれに対抗した。  多くの血が流された壮絶な戦いの末、柔術君主政を布く竹田王を退けたものの、無頼庵大王は争いの無益を悟り(ノリリン注1)、「パウレビ帝国。別名バウトレビューの国」の創造をご決心なされたのもこの時期ではなかったろうか。 思えば誰もが忌み嫌うこの「八百長論争の汚れ」のたびに世界は膨張し、分裂し、拡散拡大する理法があるかのようじゃて。  このころじゃったと思うが、若きのりりん王子が、初参戦されたのも。「なんで、おかしなこといってんのに、反論しないのー?」と無邪気なお言葉を格カフェの民におかけあそばされたが、民は苦笑しつつ沈黙するしかなかった。  賢い王子は、バックナンバーをあさり、すぐに民衆の沈黙の意味を理解された。 が、ここからが並の論客と違うところだ。「恐ろしい人だあなたは。負けを認めない奴なのだー」と、普通人は、心にしまいおく余りに当然すぎた御言葉を、当人に投げかけられた。 流石の竹田良大王の神もこれまでの論客とは少し勝手が違うので、言葉を失い沈黙された。 ワシは、「ニュースターの登場だ!」とモニターの向こうで大うけに受けたのじゃ。 無頼庵大王、ユースケクンタキンテ老師、他諸々の勇者の働きで、平和を取り戻した格カフェで徐々に力を蓄えられた王子は、ついに、当時の覇王無頼庵大王とあいまみえた。 3. GON!!GON!!GON!!王子修行の時代 今では御立派に成られたノリリンの神も新参時代、怪獣王子と呼ばれた頃は、孤立無援! 才能だけがあり、名のない時代によくあることだが、多勢に無勢で孤立して、「奴は、コミュニケーションのしかたを知らない」などさんざんな非難をあび、そして格カフェを一時、退陣宣言をされたのじゃ。 ワシは、争いは大体似たようなものと飛ばし読みしておったので詳細は覚えておらんのじゃが、「ここは格闘技カフェじゃない!リングスカフェだ!」というようなお言葉が国中にエコーして、民の心に突き刺さったそうな。 じゃが、今にして思えば、御心の内は、プロレスにおわされたんじゃなー。 GON!!GON!!GON!!大魔王は、今なら格闘技カフェの名に相応しく、暖かく迎えられる柔道の達人でもある。公開ページにおいては、やや危険な具体的すぎる技術解説もしばしばされた。  その後、しばらく、アマ之岩戸にお隠れになった。そのためか?マスコミ雑誌もこぞって「なんでもあり」を取り上げ、持ち上げ、格カフェの国も神々の思惑を解せず「なんでもあり」絶対君主政一色に塗りつぶされ、世界は闇に包まれた。  いちはやく、総合格闘技の国バウトレビューを建国された無頼庵大王だったが、しばしば宣伝のみにかつての地を訪れることもあったようじゃ。 ノリリン王との大論争の中、何を思ったか宿敵無頼庵大王は、「ここでは、迷惑が及ぶ。度胸があるなら、うちにこい!」と決闘状を出され、バウトレビューに「ノリリンと遊ぼう」なるコーナーができたそうじゃ。  ワシは、無頼庵大王の人を喰ったタイトルにちょっと思うところがあり、しばらく覗くこともなかったが、その地で大きないくさがあったのじゃろうなー。  無頼庵の神は、根はよき神じゃが、敵対する者には容赦ない熱血感じゃで、ままやりすぎもあったようじゃがご愛敬じゃ。逆鱗(前田いじめ)に触れさえせなんだら、ほんにええ人なんじゃー。観戦記などは名作が多く、実によい目をしておられる。 名言に「ガラスの城に棲む者の論理」というのがある。 疑わしいと思っても根拠がはっきりしないなら、口に出していかん。壊れやすいガラスの城に石を投げつけるような乱暴はいかんのどーという論理じゃ。  地の果て、バウレビ王国で、神々の間にどのようないくさがあったのか、民には、知る由もないが、ノリリン神は一時期、そこかしこで、「無頼庵討伐隊編成ののろし」をあげておられたようじゃが、その後どうなったのやら、時折、格カフェに表れる無頼庵神はすっかり、ノリリンシンパになっておられた。 ノリリン神が、「無頼庵は宿敵!」と言われても、なんだか合点がいかない光景であった。 弘法も筋書きに誤り?屁のように立ち消える海賊男の例を見る間でもなく、なんとなくできてなんとなく終わる不発のストーリーも世の中にはある。 討伐のプラン(ノリリン注2)は、どこへ消えたのかのー。まーえー。時は移ろうものじゃて。ふぁふぁふぁ。  4. 破壊神ノリリン現る! 世は平和を取り戻したかにみえたある日のことじゃ。新日黙認の国、無差別級の郷でとある事件があった。 全日の国をしばしば、荒し回られる黙認バイキング勢力の大王たちと一人、大立ち回りを演じる武人がおった。 よく見れば、あれはかつて格カフェを忽然と消えたノリリンの神ではないか?!格カフェを旅立たれ、天上界しましま魚HPをはじめや格闘技、プロレス格闘技と名のつく掲示版世界を転々と修行の旅をされておったようじゃ。 そこには、かつて格カフェでみた御仁とは見違えるほど、たくましく成長されたお姿があった。 ワシはその狂乱の活躍ぶり、半端でない書き込みの量、巧みに相手を自滅に追い込む老練な罠のしかけに目を見張った。 黙認連合も噂に違わぬ豪のもの。双方まったく引かず。合わせず。徹底してゆずらない。 王は「ここははじめから砂漠です。」をはじめ次々に名言爆弾を落とされた。 重箱のすみをつつき合う「箱の容積論争」は、禁断の黙示録とも言うべき論争じゃ。 うかつなレスをつけようものなら、自らを捨ててかからねばならない戦いを強いられるようで、わしらROM民族は、恐れおののきながら、その数日は無差別級から目がはなせんじゃった。  黙認国にとっては、予期せぬ招かれざる難敵の出現じゃったろうーて。 それまで全日の国にいいように攻め入って、バイキングとして恐れられた彼らの国に、理解しがたい異敵が侵入してきたのじゃから。  それまで敵と言えば、全日ものがポピュラーであったが、プロレス者でありながら全日ものでも新日ものでも、はやりのVTものでもないノリリンの神のどこを攻めれば、倒せるのか困り果てた様子じゃった。 そもそも何の目的で攻め込まればならないのか常に攻め入る立場にあった黙認バイキング族には、理解できなんだようじゃ。  新日黙認は、純粋な新日猪木教徒の世界で、時勢を受け、VTをあがめたてまつるジレンマの病に犯されておった。その純なところがワシは好きな民族なんじゃが、ノリリン王はそういうジレンマをひどくお嫌いなようじゃ。お強い方じゃで、自己矛盾に悩む青年の甘えをお許しにはならんのじゃろーなー。 攻め入った理由も単におもしろ半分だったやもしれんのー(ノリリン注C)。ええ迷惑じゃ。ふぁふぁふぁ  いつ果てるともしれん戦いに、ROMっておったわしも「核心」を知りたくなりついに口を開いてしまった。 「何が言いたいことなのでしょうか。」と、曰く、「ワシの言いたいことはここにある」と言われ、パウレビ国への鍵を渡されたのじゃ。 そこには、予言の書ならではの暗示に充ちたお言葉があった。「ファシズム的最強に対する嫌悪・あるいは八角形のドナドナ」 わしは、沈黙を守り、双方のいくさぶりを静かに見守ることにした。  枝葉末節揚げ足タックルの応酬にみえた戦いも、恐ろしく丁寧に揚げ足を取っていけば、名勝負が生まれるという意外な発見となった実に奇妙な「いくさ」じゃった。 一番元気だった棺桶の錠の神が、「もう話しかけないで」とリタイヤを宣言された。(ノリリン注α) 魔王の人の悪さに真っ向からまじめ一徹、正攻法で一歩もひかず応戦した天山もどきの神も、わしゃこのときからファンになった。ああ言う人を正統派というのかのー。 黙認連合軍の連携は、全日ファンの純な民を相手にするときは、悪く見えた悪人も、大悪人の前には、「器」で負けるということかのー。 ほんに悪いおかたじゃー、ノリリン王は。まるでわがままなシバ神のようじゃて。  5.自滅の神と創造の神関ヶ原無差別級で戦傷した棺桶の錠どんは、ついに管理人氏に直訴(ノリリン注D)。ノリリンを出入り禁止か、もしくは、ノリリンのコーナーを増設してとノリリン封じ込めの策を懇願された。罪状は「黙認荒らしの罪」じゃ。創造主の力に頼らねばならんほど、追いつめられておったのじゃなー。 これが世に言う、「棺桶の目にも涙事件」(ノリリン注D)じゃ。 とこれだけ書くとておちじゃな。全日ルームで悪者扱いされとるが、思うに、それほどの大悪人でもない。 高田がヒクソンにやぶれた日から、あちこっちに、VT最強説を説いて回り、プロレス者から、鼻つまみにされておるようじゃが。まだ、実はプロレス者なのじゃ。 ならば、いっそプロレスを捨て、VT教徒になれば、良さそうに思われるか? それは思春期を忘れた大人の理屈じゃ。命をかけた恋人に裏切られた青年が、新たな恋人が出現するまではたちなおれんのと同じじゃ。 会話もかわしたことはないが、棺桶の錠どんは、プロレス者の心の中に隠れ潜んでいる「心の痛みの化身」のようなおかたなのじゃろう。 それはさておき、当時、その自滅神の直訴状に対し、ノリリン大魔王は、「やーだよ。自分のホームページを作るとこだから」と言葉を残されると、そこを後にされた。 それ以来、「あの有名な」という冠が、ノリリンの前につくようになり、名を上げたい論客が、戦いを挑むという今度は追われる立場になられた。 ついにはこの世界=至上主義世界を御創造なされ、ついに創造主の仲間入りを果たされたのじゃ。  6. 難敵奇敵 掲示板パラレルワールドでは、多数のノリリン像が出現が確認されておるようじゃ。 お化けじゃないんじゃが「出た!」という声があがるほどの騒ぎじゃ。 「有名人」という形容詞がつき、イメージはかってに巨大化していった。 ノリリンの神もつくづく唯我独尊のかたじゃが、トリックスターとして、今では「噂が一人歩きするほどのりっぱな大神」になられたようじゃ。 もはやご本人も「のりりん」という「現象」の全てを理解するのは不可能じゃろーて。 名をあげんとする勇者のターゲットになられ、次々につけねらわれるが、みなを相手にしたわけでもない。歴戦の経験で知恵を身につけたれたのじゃ。 流石に、この地に攻め入る豪快な敵はまだ見ぬが、(削除の結界のせいかのー?) 外世界で、敵対する御仁は後をたたないようじゃ。リンバスどんとの抗争は記憶に新しいところじゃ。 蛇王リンバス。正体は元Uインターの宮戸選手と言われ、 破壊神ノリリン。正体は、格探とも実は前田ともいわれた。 ことは、論争の火の手は、論拠と互いの存在理由を求め、ハイテクを駆使しての技術戦にまでおよんでいたのじゃ。 そんなこととは、つゆ知らず、手頃な論客と遊んでおられるとばかり思っていたわしは、「相手を見込んでからんでいるのでしょ。」とお気楽なことをかき、神の御心を深く傷つけてしまった。 すれっからしは、ワシらROMの民の方じゃったのじゃなー。「戦っているもの同士は、汚れて見えない」ままあることじゃで勘弁して下され。 ともあれ、ノリリンの神は、リンバスどんに御怒りの御様子じゃ。リンバスどんをただの暴露屋さんと踏んでいた当方の過ちであったやもしれん。 正義の奇神、「蓮之上蛙どん」なども戦っておられるようだ。 リンバスどんは、極悪神に相違なかろうなー。 しかし、どこかペーソスあふれる味もあり、憎みきれないろくでなしなのだろう。 いかんいかん。おもろい奴は、全ていい奴にしてしまうワシの悪い癖じゃ。 確かに差別発言、死亡事故については、洒落にならない発言もあったらしい。 それは、論争ごっこではなく、きっちり話をしないといけないだろう。 これからネット人口は増加するという。難敵奇敵も、ますます増殖していくことじゃし。 けじめだけはつけんと洒落も生きてこんでな。 7. 格探チックなスサノウノミコト 民間伝承によると「ノリリンは、元格探である汚れた過去を隠し、普通の人として暮らしている。」と非難されておられるが、少し装飾語を取り除くと、 「ノリリンは普通の人として暮らしている。」になる。ROMの民にしてみれば、「こんな普通の人としての暮らし方があるか!」とも「こんなとんでもなくエネルギッシュな人が、普通にごろごろいたら、世の中とっくに破滅しておるわ。戯け!」ということもいえよう。 ご本人によると仕事と家事と子育てに忙しい極めて普通の人の生活を営んでおられるようだから「ほっとけ!」と言われることじゃろうがのー。ふぁふぁふぁ。 スウェーデンの医学者様らしいということと、ほんとに蛇王が嫌いらしいことしか、実の所、誰にもわからんのじゃー。格探なひとかもしれんしそうでないかもしれない。 謎がある方が、女も世の中もおもしろいと昔の人も言っている。ほっておくのが、正解かの?!正解だけではつまらんので少し勘ぐってみる。  行動様式を歴史の史実に照らし合わせると、おもしろい。 昨今の蛇退治=やまたの大蛇伝説。生まれつき毒気と邪気の多いかたという性質。 はじめ破壊神。後に蛇退治といえば、正体は、ずばり「スサノウノミコト」(ノリリン注3)じゃ。 下向されて、別の地では、よき神、ヤマトタケルとなりてやまたの蛇を撃つ! リンバスどんから、草薙の剣がでんことには、今一つ説得力にかけるがまーえー。 「どこからきて、どこへいくのか。」はたまた、「自分は何者なのか?」 きっと御本人にもわからんじゃろーって。 8. 最近の注目すべきスター「ゆる族」 古の神々が去られた今も格カフェ国は健在じゃ。次々にニュースターを生み出しておるようじゃ。高岡派ゆる族が勢力拡大とともに一派が、迫害を受ける格カフェ昨今じゃが、マイナー結構!わがまま上等!つっこみまくり、飛びまくり、未知の知識をばらまいて、新たな世界を開拓してほしいもんじゃ。 時々は、時代にのりきれん落ちこぼれにも慈愛をもって、話題をフィードバックさせていただくとありがたいがのー。進みすぎたニューウェーブに古参はついていけんでな。 進化の結末は、滅亡らしいで、「ゆるゆる」と御進みなされ。 最近は、極真ドリームに翳りがさしたせいか、マイナースター発掘の時代に突入しておるようじゃ。格闘技ゆーても大きな見せ物小屋で、おもしろいショーをやらんことには、世間には、これといって話題もないようじゃて、マイナーが勢力伸ばす時期なんじゃろうー。 インターネットの普及で、ミニコミ、果ては、究極のマイナーであった個人が、メジャーに対抗する力を持ったことと関係あるのかのー。 近年では「佐山のうんこを喰う男」シュウどんか?忘れた頃にまた八百長ネタでビッグになるものが出ては、消えてゆくのじゃろー。 もう何サイクル目かわからんが、あれが出て、世界が壊れて、古い血が去り、新たな血が混入され、活性化していくのじゃなー。こじんまりとまとまったらいかんのじゃ。 ダイナミックに世界を動かす神ガミのなさることはほんに愉快なものじゃ。 わしゃー八百長ネタには、ちと飽きたが、地球は、この40億年で、大陸移動もくっついて離れてをもう4回もやっとるのに、ぐちひとついわん。 全然、「飽きた」といわん。偉いもんじゃ。分裂した格闘技も興行の名の下に一回くっついてしまえばええ。で反発して分裂する。 格闘技の中にプロレスがある。そんでまた、ぐるりと回ってプロレスに里帰りするのじゃ。 エネルギッシュな流動が生命の在りようなのじゃ。その営みが、生きる活力。つまり生活なんじゃ。生活することが真剣勝負の証じゃ。 9. プロレス至上主義世界 この新天地は、プロレス以外の話で盛り上がることも多い変なところのようじゃ。 エロ。マージャン狂い。黙認討伐。蛇退治。困ったのー。今この地では、プロレス掲示版として、まっとうな神は、闘山神くらいかのー。まーえー、ふぁふぁふぁ。プロレスは全部込み込みじゃで。ここでは、ムタを崇めよ!と唱うておる。じゃが、こちらも随分と大人に成らねば、まだ、わしゃームタは崇められん気もする。 ノリリン神に共感を持ちつつも、同調できん部分じゃな。が、仕方あるまいなー。 今のnWoは、わしを寂しくさせるのじゃから。ワシはプロレスもんじゃから、プロレスラーを名乗るものが、あっちでも活躍せんと出てきて、ファンもまた威風堂々最強論争に加わっていける日を待ちたいのー。 プロレス以外の潔癖な格闘技ファンには、迷惑な話じゃろーがの。ふぁふぁふぁ。格闘技と銘打とうがプロレスと名乗ろうが「興行もの」は、一緒くたにしてしまうワシのような無知な民にとっては、見る格闘技は、全て同じプロレス的出来事なんじゃ。 船木でも田村でも桜場でも武藤でも橋本でも三沢でも小橋もう一度前田でもええ。 刺激的でダイナミックな命の躍動そのものを見せてくれたらええんじゃー。 ほんに、あっちでもこっちでもプロレスラーに活躍して貰いたい。プロレスはごっちゃでええ。が、ファンは欲張りじゃ。最強ならもっとええと思っておる。 プロレスファンはやめられん。こりゃ最高じゃて。ワシらはそれを肴に時代と世界を語るのじゃ。インターネットのプロレス格闘技掲示版の世界は「自己」表現ではなくて「表現」そのものなのじゃろう。ひとたび書き込んだ思想は、生きもんのように勝手に成長していきおる。 プロレス格闘系の掲示版は、それ自体に命があるようじゃ。このプロレス至上主義の国が、悪も善も渾然一体となったおおざっぱでええかげんで、深い味のあるプロレス世界になったら、ええの。  むかーし昔、世界は、混沌としておったのじゃ。 人と神の区別も格闘技とプロレスの区別もなく。 プロレスも格闘技も両方のファンが、寄り添うように原始的な社会を作っておった。 牧歌的で平和な世界じゃた。All rights reserved by Oni Maru.ノリリンによる注釈ノリリン注1:ケルベロス・ブライアンはそんなことは悟ってはおらん。その後も各地で乱闘を繰り返している。 ノリリン注2:リングス者のアキレス腱・リングスネットワークと審議委員会を突いて、そのうち大攻撃だ。しかし、銀蝿のごときリングス八百長論者がたかっとる間は手がだせん。 ノリリン注3:ノリリンを直接見ると目が潰れるという。しかし、かろうじて生き残った者の証言によるとスサノウノミコトではなく、布袋さんに似ているという噂である。ノリリン注α:でもそう言った後も何回かレスを求めてきたけど・・・人気者は辛いねえ。 ノリリン注A:今でもそうである。全日Talking Room参照。ノリリン注B:タメ口、呼び捨て、見下しを標準とする。言葉はしばしば思考法を規制する。 ノリリン注C:勿論おもしろ半分ではないが、そこで駆使される論法にイライラしていたのは確かだ。 ノリリン注D:新たに発見された古文書によると事実関係は異なるようだ。 事実関係は以下の通り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黙認・HPへの要望より引用(下から読むこと) アロハへ(ちなみにわめいていない、つかれている)かんおけや : 97年8月15日 23時52分6秒  だれもノリリンの意見がわからない、相容れないっからってあんな発言して るわけじゃないの。 まだわかんないの? 何回も言ってるでしょう? 論 点があってないし、合わせる気がないから、みんなつかれちゃうだけ。 そ の被害者意識みたいのやめなよ。 わたしもノリリンファンだし、意見をよ むぶんには面白くていいです。(遠くから、関わらない位置にいれば)  アロハへ(ちなみにわめいていない)黒虎 : 97年8月15日 18時4分7秒   おいおい、いつ追い出すなんて言った?「削除」ってのは俺の要望を消し てくれってことだよ。勝手な解釈でそんなこと言われても困る。  ALOHA♪さんへノリリン : 97年8月15日 16時3分9秒  ALOHA♪  えーんりょなんか、仕方も知らないよ。それに追い出したい人も、分からな いってわめいてる人も二人だけみたいだし。読めば分かる通り儂は随分優し いと思うよ。普通もっと怒ってるな。 ノリリンさんに対する発言に関してALOHA♪HAWAII : 97年8月15日 14時26分56秒  ALOHA♪  黒虎さんへ 私はノリリンさんの意見はよく分かります。むしろ、自分たちに相容れない 意見に対して、無視をするどころか追い出しにかかることはよくないことで す。無差別級の名が泣きます。私はこのままノリリンさんの意見が無差別級 に掲載されることを望みます。  ノリリンさんへ 短気を起こさず、あなたの意見を遠慮なく発言してください。私は大変おも しろく拝見しています。  「無差別級」の7月分のログが読めないんですけどロシアン・ボック : 97年8月15日 10時18分27秒  無関係につき、略 削除して下さい大提督閣下 : 97年8月15日 1時56分29秒   確かにはやまっていた。それにしてもファンとは物好きもいるもんだ。 (ノリリン注:大提督閣下とは黒虎GT-Rのこと。自分に閣下を付けるな!) 大提督閣下へ 佐茂岡半次郎 : 97年8月14日 22時12分37秒  はやまるなああ!!冷静になれえええええ!!   専用の部屋?望むところだ!のりりん : 97年8月14日 17時46分48秒  彼はしらんかもしれんが、儂のファンや追っかけはかなり?(数人は確認) いるらしい。その人達にはいいかもしれんが儂は自分のHPを作るので、ここ に作ってもらわなくてもいいよ。   知蔵サマぴぴ : 97年8月14日 1時35分43秒  無関係につき、略 知蔵さんへ黒虎 : 97年8月13日 0時50分32秒   こんなお願いは邪道かもしれないですが、ノリリン専用の部屋って作れま せんか?ぜひ無差別級を読んでみてください、部屋を分けるに値するよう な、矛盾してますが「話にならない」書き込みに溢れています。あれでは無 差別のスペースが無駄になってしまいます、検討をよろしく。  なお今はもしかして冷静な判断力を欠いているかもしれませんので、あし からず。  引用終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・棺桶の鍵氏の名誉を重んずる竹細工の市松氏より、「棺桶の鍵氏はそんな恥ずかしいことはしていない」との抗議があった。鬼丸氏に代わり私・ノリリンが古文書に当たったところ、竹細工の市松氏が恥ずかしいとした行為は実は黒虎GT-Rによるものであることが判明したのでここに注釈を加えておく。
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2004-11-16 22:09:39

アクセス解析

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ライブドアブログでは、どういう検索をたどって来たのかを調べることが出来る。


どうやら、よゐこなどの固定リンクや、hatenaを除けば、googleやblogで「ニーチェ 悲劇の誕生」、「金沢文子」をたどってくるケースが一番多い。


「ニーチェ 悲劇の誕生」、「金沢文子」の両者のリンクがプロレスのページでであう。


詩的だ

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2004-11-09 07:45:49

読みましょう・・・殺されちゃったよ

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●コメント
気鋭のプログラマー各務秀則は、なぜ殺されたのか? 仮想世界と現実とを往き来する謎の殺人鬼! 「舌を巻くこのうまさ。いまや電脳空間も本格ミステリの領土となり、黒田研二の立てた旗が翻る」――有栖川有栖氏、絶賛!
●内容紹介
尊敬する先輩の死の謎を解くため、ネット上に構築された電脳空間〈惑星ペルセポネ〉にログインした来栖正孝は、秀則が〈ペルセポネ〉で操っていたキャラ《ノリリン》も仮想世界の中で惨殺されていたことを知る。やがて〈ペルセポネ〉の美少女《メグ》とともに犯人探しを開始した来栖を、虚実の世界 を往来する巨大な悪意が襲う!

 

だそうな

カタカナのノリリンってのは割と少ないんだよな

まだ読んでない
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2004-11-06 12:00:07

仮面ライダー・クウガ DVD全12巻 香田証生くんにささげる

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しばらく前にクウガ全巻を見た。
仮面ライダークウガは新世紀ライダー(厳密には違うが)の一回目で、オダギリジョーのデビュー作。
冒険家・五代雄介が太古の不思議なベルトの力で未確認生命体2号・4号となり、警察に協力しながら太古から蘇って殺人ゲームを楽しむ未確認生命体達と闘う物語だ。面白いことにクウガが”仮面ライダー”と呼ばれることは劇中一度もない(なかったよな?)


五代雄介のキャラがいわゆるスーパーマン型を越える、ノー天気でスーパーポジティブに設定されていて、かえって新しい。
このキャラは棚橋あたりに参考にして欲しいもんだ・・とか考えていた。


最近香田証生くんがイラクで捕まった時、五代雄介を思い出した。
五代君は冒険家と言っているけど要するにぷ~なんだ。放送中一度も喫茶店の手伝い以外ろくな仕事をやってない。外国をふらふらしているだけで冒険て言っても何やってるんだかさっぱり分からない。
何度も一条刑事に止められるけど、『大丈夫、やってみますよ』とかいって未確認生命体の事件に介入するのをやめない。
香田くんと五代くんの違いって言えば、仮面ライダーになれるかどうかと死んでも生き返るかと使命感だけ。


馬鹿だし、死んでも仕方ないけど、彼のようなタネの沢山からいくつかの草が生えるかも知れない。


・・・・ちなみにブレイドは剣崎くんのホモビデオで有名だが、クウガもゲイの隠喩がいっぱい

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2004-11-04 21:45:56

も~こわい・追撃篇:焼き肉至上主義者宣言!2004年版

テーマ:ブログ

『も~こわい』が終わって3年が経つ。その間に色々な出来事や新しい知識が出てきたようなので、追撃篇を出してみた。


20ヶ月以下の牛は狂牛病【variant-Creutzfeld-Jacob Disease(vCJD)、Bovine Spongiform Encephalopathy(BSE)。これらは同じものと思っていい。正確には違うから第一回から読み直すこと】の全頭検査から外される。20ヶ月以下の牛では今の検査感度では充分な感度でPrPsc感染を検出できない所為だ。USA産牛肉の輸入再開に向けた動きとされている。
健常人に存在する正常なPrionをPrPc、狂牛病/vCJDのようなプリオン病を起こす異常PrionをPrPscという。通常の感染症とプリオン病の根本的な違いは、感染症では病原体それ自身が増殖するのに対し、プリオン病ではPrPscが正常体内にあるPrPcを作りかえて仲間のPrPscを増やしていくことにある。影響を与えて次々と仲間に作りかえていく。似たものが増えて沈殿して脳をすかすかにする。長州政権末期のラリアットレスラーズ@長州kidsが沈殿した新日風景やどれをとっても原ボテorガリ@ノア中堅の脳死状態を思い起こさせる。
カレンダーを片隅に載せ、引用とどこかで見たコメントで、妙に似通った体裁の1枚の板を埋めていくブログの繁殖をプリオン病を隠喩として語ることは可能だ。記事のtrackbackと言うのもなんだか肉骨粉を思わせる。これに限らずプリオン病的な文化のあり方はネットによって加速化していくだろう。双方向性の発信とその産業化を特徴とするcommunicationが文化をBSEに陥れる近未来が儂には見える・・・しかしそれはまた別の話。


『communicationする』という行為そのものが一か八かのもので、抗争や乱闘や罵倒や嘘や間抜けの危険があるからこそネットが楽しいのだという事を結論として『も~こわい・追撃編』を終わる。


つい先日NHK・BS1でBSディベートアワー、狂牛病・食の安全は保たれるか?URL:http://www.nhk.or.jp/bsdebate/0410_1/guest.html を見た。ピクミンの『も~こわい』をその参加者が読んだ可能性はない。だから、観戦記ネット及びプ至宣!周りの人達はいわゆる有識者を越える地平に立っている。 ピクミンの『も~こわい』を読んでいれば、狂牛病で死ぬ人より狂った牛に殺される人の方がよっぽど多いこと、発症前の感染牛は感染性があるが検査をすり抜けることがあること、種の壁を乗り越えたPrPscがどんな感染性を持つか(即ちヒトからヒトへの感染の危険がどれくらいあるか)はっきりと分かっていないこと、について分かっていることと思う。


参加者の意見のよいところ取りすれば、『BSE問題を複雑にしているのは食の安全・安心に関する専門家と消費者あるいは消費者間のコミュニケーション・ギャップである。そもそも食とは動物であれ植物であれ他の生物を口にすることであり、常に何がしかのリスクを伴う。経験や科学の進歩がそのリスクを小さくしてきたが、ゼロリスクの食はない。(本間正義)』、『脳に病原体が蓄積するまでは、検査をしても感染牛を見つけることができません。発見できるのは平均して発病(5歳)の半年前。一方、食用牛の約80%は4歳以下。だから80%以上の感染牛が検査で「シロ」になり、その肉を私たちが食べています。(唐木 英明)』『BSEは牛から種の壁を越えて人に感染して変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)を起こす。感染した人ではBSEプリオンは、種の壁のない人の間で容易に伝播される危険性がある。英国では、変異型CJD発病前の潜伏期中の人の血液の輸血で感染した可能性のある例が見いだされたために、予防原則にもとづいた血液の安全対策がさらに強化されている。BSE対策ではこのようなリスク面のあることを認識しなければならない。(山内  一也)』・・・あれ?畜産業者や消費者団体が入ってないぞ、まあいいか・・・


今のところUSAの狂牛病対策は0に等しく、狂牛病の危険は現実のまま残っている。USAは世界でもっとも産業化された畜産が行われているので、きちんとマニュアルが出来れば全頭検査がなくてもUSA産牛肉は狂牛病に関しては日本と同等の安全性をもてるかも知れない。


しかし、ピクミンの『も~こわい』の結論のひとつは、『狂牛病はほんの100年前までは家族として飼われ、神への捧げ物として葬られて食べられていたのに、今では産業の対象であり、その死を代償として受け取っていた神聖なる地位を失った牛の復讐だ』ということだった。大規模産業として畜産が行われる限り、狂牛病の危険は去っても狂牛病の暗示する/明示する本質的な危機は去らない。次の”狂牛病”が発生するだけだ。とすれば、狂牛病はともかく”狂牛病的なもの”の危険はUSAにおいて一番大きい。


おそらく20ヶ月以下の牛の全頭検査除外によって、全頭検査を行わないままUSAから日本への輸出が再開されるだろう。感染牛のscreeningがされないから感染牛は見つからないし、結果として見つからないからどれくらいいるか分からない。当然感染危険部位の除去はいい加減なものになるだろう。日本の畜産団体が言うように危険と言えば危険かも知れない。
但し、その結果日本の食がより多くの危険を抱えるとは2つの理由で言えない。ひとつは(以外かも知れないが)狂牛病が肉を食べた結果感染する疾患であるという確実な証拠はないこと、もう一つは食の産業化はUSAだけでなく我々全てを覆う世界的な問題だとううこと。
しかし、産業化されていないと儂たちは焼き肉屋で焼き肉を食うことが出来ない。牛や畜産業者の立場がどうあれ、ポストモダニズムがどう指摘しようが、これは病気や貿易摩擦や人類の未来に対する全ての懸念を吹き飛ばす程大きなリスクだ。儂や多くの焼き肉至上主義者は焼き肉屋に行くためにその間の時間を生きている。


USA牛肉輸入再開より、現実の問題として恐ろしいのは潜伏期のhealthy carrierの血液から感染した症例が報告されたと言うことだ。実験的にも血液感染は証明された。狂牛病は勿論肉骨粉という共食い行為でおこったものだが、輸血も同様に一種のcanivalismだ。輸血はHCV、HIVなど様々な問題を起こしてきた。HCV, HIV同様に潜伏期が長いプリオン病(これは狂牛病/vCJ病に限らない、C-J病でもあり得る)で血液による感染性が高いvariantが成立すれば、数年後一斉に吹き出すだろう。狂牛病のPrPscはリンパ濾胞の樹状細胞にあるとされていたが、<a href="http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=15479374">リンパ球にも存在する。赤血球成分輸血でも感染する。血漿でも安全と言い切れない (英国CJ病監視局)</a>。樹状細胞にしかないのならそんなに高くない感染の危険性もリンパ球や赤血球にあるのならかなり高くなってしまうだろう。


HCVもHIVもSTD(sexually trasmitted disease)だ。口には成人で最大のリンパ装置である扁桃があるから、リンパ球に発現するPrPscは唾液も危険なものにするだろう。2001年の連載時には想像上の危険に過ぎなかったが、今やSTDとしてのvCJDは現実の危険になったといえるだろう。


『も~こわい』の最後の結論は、”『食べる』と言うことはそもそも安全なものではなく、もっと一か八かのものであった、しかるべきリスクであれば受け入れて食べろ”、ということだった。それをもう一度持ち出して、”『まぐわう』と言う行為はそもそも一か八かのもので、性交による出産・死病の感染・死そのものの危険や性交のための闘いが、『まぐわう』ことの快感の基調である”とまとめることも可能だ。それはまあ、そうかもしれない。3年前と同じ意味のことを書くのは不本意だが、ここでも結論のひとつとしよう。


では、ピクミンは夜は月に帰る。何故私がピクミンと名乗っているかはそのうち明らかになるであろう。が、ならないかも知れない。

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