シベリア強制抑留 望郷の叫び 六十一
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
この歌はやがて、シベリア中の収容所で歌われたという。
孤独を救うのに貴重な存在は同郷の人である。コクソムリスクには、いくつかの分所があり、時々移動させられる。ある時、塩原さんは、上州の生まれ故郷の隣村の人に出会った。上細井村の岡庭武治さんだ。地獄に仏とはこのことで、お互い抱き合って喜び、二人はいつも故郷の家族のこと、食べ物のこと、少年時代の思い出などを語り合っていた。
昭和22年ころになると、帰国を許される者があちこちで出ていた。収容所の中で帰国者が出ることは、帰国だけが唯一の生きがいである人々に、いつかは自分も帰国できるという望みを与えた。しかし同時に、人々は一足先に故国に帰る人に対して限りない羨望を抱き、取り残される淋しさに苦しんだ。
帰国は、突然に言い渡され、急いで身の回りの物を用意して収容所を出ることになっていた。収容所内に与える影響とか他の収容者からその家族へ何かを依頼される等の工作を防ぐ狙いであろう。
昭和22年の夏、塩原さんが作業から帰ってみると寝台の上に一枚の紙片が置いてあった。それには次のようにあった。
「塩原さん、急に帰れることになりました。会えないで行くのが残念です。身体をくれぐれも大切に。岡庭」
塩原さんは、紙片を手にしばし呆然と立ち尽くした。うれしさと同時に、地の底に引き込まれるような淋しさが胸に湧いた。同郷の友は心の支えだったのだ。また、恐ろしい冬を一人で迎えるのかと思うと身体の力が抜け、絶望感に押しつぶされそうになるのであった。
つづく