随筆「甦る楫取素彦」59回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」59回



◇安政6年(1859)、楫取31歳。ついにこの年、幕府は、徳川斉昭に国元永蟄居、徳川慶喜に隠居謹慎を命ずる。橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰を処刑。大獄の真ただ中である。

 松蔭の処刑は10月27日だった。松陰は5月14日、兄から江戸送りの命を聞く。これを伝え聞いた楫取は翌15日の夜松陰を訪ねた。松陰は16日、東行前日記に記す(東行とは処罰で江戸へ行くこと)「朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、これに賛するは士毅の言うに従うなり」(士毅は楫取のこと。自賛とは肖像画に自ら言葉を書くこと)

 自賛は楫取の勧めに従ったとあるがそれを裏づける楫取の書簡がある。「()情には候えども、貴皃(きぼう)松浦改写し伝え度く候。落成に候はば、御目にかけ御自讃を上位に願いたく、御案じ置き下さるべく候」

 つまり、癡情(愚かなこと)であるが、貴皃(あなたの姿)を松浦(村塾生)に写させ、落成(完成)したら上部に自讃を書いて欲しいので考えて欲しいというものだ。

 また、更に、松陰は、この「東行前日記」の5月18日のところに、楫取に次の言葉を送っている。有名な文であり、その後の楫取に影響を与えたと考えられる。「小田村伊之助に与ふ」と題する文である。

「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり。吾れ学問二十年、齢亦而立(よれいまたじりつ)なり。然(しか)れども未だ能くこの一語を解する能はず。今ここに関左の行、願わくは身を以て之を験さん。(中略)この語、他日、験(しるし)あらばこれを世に伝え湮滅致すことなかれ、もしこれ索然として蹟なくば、これを焚き醜を友朋にのこすことなかれ。すべて老兄の処分を仰ぐ」

而立(じりつ)は30歳のこと。論語に、三十にして立つとあることから。関左とは、中国の函谷関より東の地方の意味で、ここでは関東地方の意味、関左の行とは、江戸へ行くに際してということ。

而立つまり、論語で三十にして立つといわれる年齢になったがまだこの一語を理解できない。今江戸へ行くことになったので自ら実際に確かめてみたい。後日、効果があるようなら世に伝えて埋もれないようにして欲しい、そうでなければ焼いて醜態を友人に晒すことのないようにして欲しい。全て老兄(楫取のこと)の判断にお任せする。このような意味である。松陰はこれから対決する幕府の役人に対してこの「至誠」で臨む決意であったに違いない。


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