フィルムという不思議な物質への慈しみ〜奥山順市インタビュー〜
(本稿は東京都写真美術館における「光と影の創造者 奥山順市展」(1998.7.31-9.27)のために行われたロングインタビューで、同展カタログpp.54-66(英訳pp.67-76)に収録された。奥山順市氏の了承のもとに再録し、併せて近況インタビューを文末に追記した。)
■"動く写真"が見たい
——奥山順市さんは1998年現在、35年のキャリアの間に70本以上の作品を発表され、内容も多岐にわたるので今日は幾つか話を絞って伺いたいと思います。まず、写真と映画の境界領域とでもいうべき仕事ですが。
奥山 写真は好きなんですが“動く写真”が好きなんです。だから、映画になってしまう。写真機でスナップを撮ったりはしてましたが、作品を撮ろうと思ったことはないですね。やっぱり動くものが好きなんです。
——『写真を刻む』(83年)は写真を使った映画ですね。
奥山 1枚の写真から動きを作り出そうとした作品です。『映画の原点』(78年)では、手を叩く動作といった動きを2枚の写真から作り出したんですが、さらに究極の動きがあるだろうということで1枚の写真を動かしてみたいと。だから題名にも「写真」という言葉を使いたかった。傾いた天秤の写真を撮影した両孔のフィルム[両側にパーフォレーションがある]を表裏に交互にひっくり返すだけで動きを生み出した。裏でつなぐと乳剤面が逆になりピントや画質・明るさは違ってきますが“動きを見る”という点では動きは分かるわけです。元の写真を裏焼きしたもので撮影すれば乳剤面が裏表にならずきれいに見えるわけですが、それでは単なるコマ撮りになってしまう。そうではなく映画のフィルムの特性を使って、映画的な処理で写真を動かしたいという意図でした。そのために“裏つなぎ”という、ふつう編集ではしてはいけない、そんなことをしたら編集マンとして落第というつなぎをあえて作品に取り入れた。編集の人が見たら唖然とするでしょう、タブーをやってるわけですから(笑)。
——映画は1秒間に24枚の写真(静止画像)の連続で出来ているわけですが、『LE CINÉMA(映画)』(75年)ではわざわざ1枚ずつ見せたり順序を並べ換えたりしてますね。
奥山 あれは私にとってターニングポイントの作品で、『紙映画』(72年、紙で作ったフィルムを映写)のあと『観光映画』(73年)でまったくイメージがわかないスランプの時期があって、もう一度襟を正して映画について一から出直す、いちばん基本的な1秒という時間をじっくり攻めることによって何か新しいやり方、生き方が見えてくるのではないかと思って作った作品なんです。だから“自分にとっての教育映画”と言ってもいいんですが、映画はこうなんだよ、1秒はこうなんだよ、1コマ消えるとこうなんだよ、24コマなくなると映画はなくなるんですよ、と自分に言い聞かせている映画でもあるんです。噛んで含めるように作ったから、逆に、映画を知らない人やこれから映画を一から始めようという人にとっても映画はこういうふうに出来ているんだと分かる映画にもなっているんだと思います。
——私も造形大では(上映プリントがあり教室に16ミリ映写機があったので)毎年学生に“教育的に”見せていました。あの独特な画質の素材は?
奥山 あれはアメリカで買ってきたダブル8[ダブルエイト、16ミリフィルムを左右片側ずつ撮影し現像後に真中から裁断する旧式の8ミリ。レギュラー8とも呼ばれる]のポルノムーヴィーの1カットなんです。その中から、手が入った顔のアップを24コマ分だけ取り出し、いったんスチル写真の紙焼きにしてアニメの手法で16ミリフィルムに1コマずつ撮影していった。もともと「100フィートフィルム・フェスティバル」(アンダーグラウンド・センター<現イメージフォーラム>主催)に出品するため、16ミリ 100フィート(約3分)で作り始めたもので、最後の1コマずつ消滅する部分はなかったんですが、何か足りないぞということであれを撮り足してまとめた。それで3分のフィルムを集めた上映会なんですが、これは 100フィートを想定して作り始めたけれども5分になった作品ということでいいじゃないかとゴリ押しで(笑)、最初から5分の作品として発表されたわけです。
『LE CINÉMA(映画)』
——『フレームレス35』(68年)では写真のネガをたくさんつないで映画にしましたね?
奥山 ええ。段ボールにたまっていた写真のネガ(白黒)がありまして、邪魔だから捨てようと思ったんですが、捨てたらそれで終わりだけど何か利用できないかなと考えたときに、これは映画になるんじゃないかと思い付いたわけです。35ミリというフォーマットが映写機に掛かるし。
——同じ規格の35ミリフィルムを写真は横に、映画は縦に使うわけですね(写真の1コマが映画の2コマ分)。
奥山 だから映写すると不連続な動きが生まれるんですが、つなぐのにテープスプライスでなく削ってフィルムセメントでつなぎましたから1目[写真1コマの上下には8つずつパーフォレーションと呼ばれる穴があり、その1つ分]ずつ落ちていって、ネガファイルのネガ1本は写真で6枚分、映画なら12コマなんですが、つないで重なる1/4コマ分ずつずれていく。
——後に『MOVIE WATCHING』(82年)でコマが1/4ずつずり上がるのにつながりますね。
奥山 やはり私の場合、フィルムのつなぎというのは好きな部分なんですね。どちらかというとカメラを回すよりもフィルムをつなぐという工程の方が。順番を入れ替えたり、動きを変えたりとか。ごく初期の8ミリでも人が歩いてくるショットを分断して入れ替えたり、カッティングで時間をいじくろうとしたのがあります。極端に言えば絵柄は何でもいいぐらいです。
——『MOVIE WATCHING』は波ですね。
奥山 あれは最初から決まっていました。あの作品の場合、かっちりプランが組み上がっていて、いわば譜面通りに作っていかないとできない作品でした。それで1目分[1コマの横1/4]だけの映像ならばどこで“お二階さん”[映写中にパーフォレーションがずれ次のコマの一部が画面に出ること]になっても画が切れずに移動するだけなんです。それには水平なもの、天然のもので水平というと海しか思い浮かばなかった。身近に大草原もありませんし。それで千葉や江ノ島の海で撮ってみて、江ノ島の海を使うことにしたわけです。あのフレームがずれていく動き、リズムは、高倉健の(東映任侠映画の)出陣のニュアンスなんですよ(笑)。こらえてこらえて限界に来てウワァアーッと切り込んだという、自分の意識の中ではそういうヤクザ映画のリズムというかニュアンスなんです。
——『我が映画旋律(MY MOVIE MELODIES)』(80年)では画面の映像を光学録音のサウンドトラックに焼き込んで、画と音を一体化させるという試みもしましたね。
奥山 とにかく画像で音を出してみたいというのが元にあって、光学録音にも可変面積型ではなく濃淡型のサウンドトラックの模様に類するような映像を探し求めていった。またそうでなくても音として聞かせることのできる映像はないものかということで音探しをするとか。だいたい現存する作品で好きなのは磁気録音より光学録音のものです。磁気で気に入ってるのは『BANG VOYAGE』ぐらいかな。
(西嶋注・16ミリフィルムのサウンドトラックには、フィルムにマグネコーティングしてそこに録音し映写機の磁気ヘッドで再生する磁気録音<マグネ>方式と、音を波形などにして映像と一緒にフィルムに焼き込み映写機のエキサイターランプを通して音を読み込む光学録音<オプチカル>方式があり、後者はネガを作れば音と画を一遍に何本でもプリントできるので、通常の劇映画などプリントを多く焼く作品では一般的だった。音響特性は光学より磁気の方がよいとされる)
——何か特殊な撮影をしているんですか?
奥山 ええ。X線で撮った部分があります。機織りの筬(おさ)という櫛のお化けみたいのがあるんですが、それをふつうの映画用フィルムにX線を当てて撮ってます。ふつうにレンズで撮った映像だけでは気に入った音が出ないんで。ノーマン・マクラレン[1914−87、スコットランド生まれの天才的アニメーション作家]がサウンドトラックに直接ペイントしたような作品(アニメーテッド・サウンドと呼ばれる)でもポッポッとか割合に低いトーンであまり抑揚のない音しかなかったので、それなら高音域を狙って高い音が出せないかと、しかも手描きでなく写真的に記録した映像で音を出せないかと。映っている映像がサウンドトラックまではみ出していって、いま見ている映像がそのまま音が出ているんだよという作品が作れないかと。それで仕事の関係で身近にあったX線を試してみたら結構良かったわけです。
『我が映画旋律(MY MOVIE MELODIES)』
——奥山さんの映画で音が主題のものは珍しいですよね?
奥山 音から発想して音を主体に作ったのはこれ1本ぐらいですね。この作品をやろうと思ったのはカメラが手に入ったからで、鈴木志郎康さんと一緒に鈴木さんの知り合いの方の所に映写機を買いに行ったんですが、そのときに爆撃機か何かに搭載する航空撮影用の35ミリカメラがあるということで譲ってもらったんです。アイモの改造型(アメリカ製)で文字か数字を下に焼き込む光電管が内蔵され普通のフレームではなかったんですが、それをはずしてサイレントフレームで撮れるように改造し、サウンドトラックまで一緒に撮影できるようにしたわけです[このカメラは『映画の原点』(78年)にも使用]。35ミリで撮影・編集して、それを画と音の兼用原版として、プリントを焼くとき音を画より20コマ先行させてシンクロさせたわけです(西嶋注・映写機で画像を映すランプの位置より20コマ先に音を拾うエキサイターランプがあり、ふつう映画フィルムでは画と音はズレた位置にプリント・録音されている)。
トーキー初期の日本映画なんかで画面にサウンドトラックがはみ出してるのがあるんですが、ああいうのを見ちゃうと今日は本当にいいものを見たという喜びでうれしくなりますね(笑)。
『浸透画』(94年)は『我が映画旋律』の変形みたいな面もあって、音の所まで画が入ってますから8ミリの光学録音の再生を使って音を出しているんです。初期の『手ごめ(OUTRAGE)』(71年)もそうだったんですが、リヴァーサルのフィルムをネガ用の現像液で現像したんです。その途中で爪を使って乳剤面を変化させたりしてモノクロのフィルムだけどグレーのスクラッチに色が出たり定着液の変色で黄色くなったり。『浸透画』ではスーパー8のリヴァーサルのフィルムをネガ現像のスペックに従って現像したので、出来た画像はポジなのかネガなのか入り乱れて分からなくなる(笑)。『我が映画旋律』でもネガ像とポジ像が入り乱れてました。
■自家現像と陰画の世界
——映画はふつう現像所に現像に出すのに奥山さんはよく自家現像をされますね?
奥山 最近の作品では『浸透画』『INGAの世界』(96年)、それに『時の流れに乗せて』(97年)がそうです。でもこれは現像が好きだからやっているのではなくて自家現像でないと成立しない作品だからなのです。たとえばネガ現像は通常、現像液・定着液と2液によって現像されるのですが、『時の流れに乗せて』のときは現場で撮りながら現像する必要があって、自作の携帯用現像装置を持参し、現像と定着が一緒になった一浴現像という方法で画像を確かめながらやりました[一部を現場で現像し確認、残りは自宅で現像]。いま撮ったものの調子をその場で確認したいのに、現像場に持って行っても断片のフィルムなんか現像してくれないし、いまここで必要なのに持って行って翌日とか3日後に仕上りでは全然話にならない。結局追い込んでいったところが、全部自分でまかなうしかないということだったんです。
——『時の流れに乗せて』はループ状にした生フィルムを多重露光撮影するという、試行錯誤の連続で大変苦労された作品ですね?
奥山 『時の流れに乗せて』は十数回から百何十回も多重露光しているんで夜の撮影が主体なんですが、あの作品は前作『INGAの世界』で後処理で何重にも重ねた経験から、それを現場でリアルタイムで重ねたらどうなるかという興味へシフトして出来た作品なんです。
——しかしそうした制作では焼き具合が気にいった完璧なフィルムはオリジナル1本だけで、別のプリントを焼いても状態が微妙に変わってしまうとおっしゃってましたね。
奥山 要するに"焼物"と一緒なんですよ(笑)。『INGAの世界』の場合も全体を3本焼いてみてやっと1本これなら上映できるというものができるわけですから。
——現像自体がテーマと言っていい『浸透画』の着想はどこから生まれたのでしょうか?
奥山 最初はああいう作品を作るつもりはまったくなくて、「フレームレス」のシリーズに35と16があるんですが8とか9.5[ともに小型映画のミリ数]はなくて、そうだ『フレームレス8』を作っておこうと思って。それまで8ミリはダブル8以外作ったことがないので、スーパー8やシングル8[1960年代半ば発売のマガジン式8ミリ、ダブル8より画面が広い]の機材を買い求めることから始めて回し始めたんですが、一応テストで様子を見るため自分で現像してみたんですね。それでちょっと加工して現像したり、どう料理していこうかなと思ううちに、重なって現像しなかった部分など予想もつかない面白いものが出てきた。ちょっとした温度や時間の変化で変な色が出たりとか結構あって、これはフレームにこだわってやるより現像メカニズムで作品を作った方が面白いんではないかと。
そこで現像液で何かできないかということでいろいろやったみたんですが、どうもいまいち面白くない。その時ふと、そういえば昔8ミリは(フィルム幅が細いので)“ヒモ”って言われたことがあったな、と(笑)。で、ヒモとか糸でフィルムを縛ってそのまま液につけてみると、液の浸透具合で濃淡が出てきて「えっ、こんなになるのか!」ということからどんどんのめりこんでいった。それで今度は糸屋さんや洋品屋さんで材料探しですよ。レースのを買ってみたりカーテンの房はどうかとかいろいろためして、細い糸がだんだん太い流れになるという構成になったんです。だからタイトル以外はカメラを使わずに、フィルムを糸で縛ってそのまま現像液につけているんです。
最近は、作品から作品へ連鎖的につながっている感じなんですが、『浸透画』で集めたけど結局使わなかった8ミリの機材を使って『ストップモーション』(95年)が出来て、それがビデオで撮ってキネコ[フィルムへ変換]でしたからフィルムとしての物足りなさ、フラストレーションがあって、"ネガを編集したい"という思いが『INGAの世界』に発展し、先ほど言ったように『INGAの世界』の後処理から『時の流れに乗せて』の発想が生まれたということです。
——『INGAの世界』の題名は、因果・印画・陰画などを掛けたそうですが、まずネガ(陰画)が主題ですね。上映を前提としないネガフィルムをそのまま映写するというのはきわめて珍しいことですね?(西嶋注・明暗が反転したネガはポジ=上映用プリントを焼くための原版で、傷がつきやすいので注意深く扱われ、映写機にかけられることはない。)
奥山 やっぱりプリントに比べて腰が弱いというか痛みやすく切れやすい。だから耐久性では心配があったんですが、そういうものを作ってみたいという気持の方が強かったですから。『フレームレス35』にもつながりますが、ネガというのはプリントを取ってしまえばご用済みといった面があって、ふつうスナップ写真では何回か焼増ししたらもう使わないことが多い。陽の当たる所にいないわけです。だから逆にネガにスポットライトを浴びせて、ネガでも見せることができる、作品にできるという形でネガをとにかく浮上させてみたかった。まずそれがベースにあって、それにはどういう画がいいかということで逆算していって。
——ネガとポジの像が追いかけ合ったり対話するというイメージは最初から?
奥山 そうです。でも最初はシルエットではなくもっと生々しい表情のわかる自分の顔のアップのネガとポジが対話するという、もっと観念的で動きのないものだったんですが、どうも何か違うなと感じていたときに、たまたま雪が降ったんです。それですぐに撮りに行って、雪の上をゆっくり歩くのをコマ落しで撮ってみるとあのショットになった。変わった動きだったのでこれは使えるなと。それで最初の顔のセクションは捨ててしまったのです。
——強いコントラストでまさに白と黒のシルエットの人物がずれて増えたり交差する。
奥山 『INGAの世界』はネガを上映してみたいとか、とにかく“ネガ”という意識がもっとも強かった作品です。ネガはネガ現像しないといけないんですが、それを現像して、いま撮ったのがどうなってるかなとワクワクしながら見る。そのワクワク感が必ずしもお客さんに伝わるとは限りませんが、ある程度、見たことのない映像だとか変な映画だったなとか何か共感なり緊迫感なり、自分のワクワク感との共通体験を少しでもいいからして帰ってほしいという希望がいつもあるんです。そうすると、人に見せる最低ラインとして、なにか楽しく見れる部分や人間的な温かみがほしいと思うわけです。
——そこがいわゆる構造映画[60年代後半に登場したコンセプチュアルな実験映画、しばしば映画自体に言及]の多くと奥山さんの映画のニュアンスの違いだと思います。ところで、物語を持たないこの種の作品では長さや時間はどうやって決まるのでしょうか?
奥山 私の体内時計の基準では、一応“5分”というのが標準なんです。
——『LE CINÉMA 』がそうですね。
奥山 5分より短いと私にとっては短編で、5分より長いと私にとって長編、という感じなんです。5分前後というのは作品を見ていても心地よい時間なんですね。
——で、作品がここで終りという基準は?
奥山 それはこのテーマがどのくらい持つかという感覚ですね。どれくらい耐えられるかということで10分になったり5分になったりする。今年の『サンドイッチ』(98年、6分)はフィルムの映像をいったんコンピュータに取り込んでラボでやる処理や編集を行ないキネコした最初の作品ですが、割に単純な作品ですからシンプルに仕上げて、短距離走者のように一気に駆け抜けて、あ、終わっちゃったというあっさり感を強調したかった。必要最低限のものだけ見せて、さっと終りたかった。作品を形にしてみた時、これでいいのか、何か足りないんじゃないか、あそこは何か変だなということが必ずあって、良かったことと悪かったことを秤に掛けながら悩むわけです。寝ると次の日にヒントが出てきたりとか、だんだん詰めていって、出だしの流れから終りのバランスのいい所で終るということですね。
■映画館の記憶
——奥山さんがそもそも映画を撮るきっかけは何だったのでしょうか?
奥山 第一作の『MU(無)』(64年)をダブル8で撮ったのはまだ高校生のときでしたが、すでに映画をたくさん見ていましたから。小学生の頃からたくさん見ていて一番見たピークは中学生の頃ですね。児童劇団に(小5から6年間)所属していた関係もあって世田谷(生地)から都心に出る機会が多くて、新橋、有楽町あたりの映画館や新宿の日活名画座、池袋の人世坐[68年閉館]などの常連で、ジャンルを問わずオーディー・マーフィ[最後のカウボーイ・スターと呼ばれた男優]の西部劇からニュース映画から東映の時代劇でも記録映画でも何でも見ていました。なかでもルネ・クレールはすごく好きな監督で、あの当時だとジュリアン・デュヴィヴィエなんかも好きでしたが、クレールのリズム感というかノリのよさ、軽さは、生理的にフィットするものがありまして、そのリズムが染みついているというか、逆にそれが自分の体質かもしれないけど、ルネ・クレールのリズムには非常に共感しますね。
——その頃の映画館はよくフィルムが切れたりしましたね。
奥山 フィルムが燃えてしまうこともあったし、フレームがずれて“お二階さん”になって天地が入れ替わったり、三番館なんか行くとフィルムがキズだらけでザーザー“雨が降って”いたり、コマが切られていて動きが飛んだり、巻が入れ替わって4巻目から6巻目になって5巻目に戻ったりとか、しょっちゅうではないけれども昔は平気でそういうことがありましたね。あと映画でいちばん記憶に残っているのは、夏に学校の校庭でスクリーンを張って映写会をやるんですが、風でスクリーンがびらびら動いて絵が揺れたりする、あの風情といいますか(笑)、たまらなく印象に残ってますね。
もう一つとくに印象的に覚えているのは、雑誌の付録で組み立て式の幻燈機がついてきて、紙で組み立てて電球を中に入れ、それを押し入れに引っ張り込んで映して見たという思い出で、ふり返ってみると、映すことでワクワクした最初の体験だと思います。熱を持つのでこげてきて長く見れないしすぐ駄目になって捨てちゃったと思うんですが。「少年」だったか「冒険王」だったか、小学校2年頃ですね。とにかく映画を見ることが好きだったので、投影されて絵が映っている状況にまずワクワクするんですが、そのもとになるのが映写機だということですね。それに児童劇団にいた関係で、撮るより撮られることの方が多いし好きだった。
——児童劇団でやっていたのはラジオドラマですか?
奥山 そうです。当時はラジオドラマの全盛時代で、NHKの「1丁目1番地」やラジオ東京(現TBS)の「ジャジャ馬くん」などの番組にレギュラーで出ていて、けっこう忙しくしていました。たまにテレビの試験放送で10チャンネル(日本教育テレビ、NETを経てテレビ朝日)にちょっと出たりとか、映画にも、若杉光夫監督の『大人と子供のあいの子だい』(61年、日活)に出たりしました。
——そういった映画体験の中から、自分も映画を作ってみようと思われたのでしょうが、日常や現実を撮るのでなく『MU』のような実験映画を最初から作ったのは?
奥山 いちばんの大きな引き金になったのは、京橋の近代美術館(のちフィルムセンター、現在は国立映画アーカイブ)で1962年に開かれた「日仏交換映画祭・フランス映画の回顧上映」(8-12月、173本の映画史的名作を連日日替わり上映、夜の部は往復葉書による招待だった)ですね。葉書でせっせと応募して日参し、マン・レイだとかシュルレアリスムの映画だとか『チューブ博士の狂気』(アベル・ガンス、15年)だとか、フランス前衛映画のエネルギーに触れたのがいちばん大きかった。そのあとでは草月の「アンダーグラウンド・シネマ/日本−アメリカ」(66年)ですね。スタン・ブラッケージの『ドッグ・スター・マン』(61-64年)やトニー・コンラッドの『フリッカー』(66年)にショックを受けました。
——アメリカ・アンダーグラウンド映画の最初のまとまった紹介ですが、奥山さんが作り始めるのはそれより前ですね。
奥山 でも、あれを見て、みんなやっているんだということでずっとのめりこんだし、作品を積極的に公開するようになったのもそれからです。
——それで草月が「フィルムアート・フェスティバル東京1968」をやったとき、『BANG VOYAGE』(67年)を応募して入選するわけですね。
奥山 『BANG VOYAGE』は大学の研修旅行で撮ったものですが、フェスティバルに出品するつもりで作品として成立するように作ったので、徹底してコマ撮りで撮ったわけです。ダブル8で撮ったのですが、16ミリ以上でないと受け付けてくれないので、ブローアップして応募しました。
■ライブ映写の作品
——そして69年には映写中にフィルムが何度も切れる『切断』、70年にはループの透明フィルムに指紋を押していく『わっか』と、ライブ・パフォーマンス的な作品を発表していきますが、だいたい映写とからむもので、これは映写技師が映写中のフィルムに手を出すということですか?
奥山 いや、そうではないですね。作者としては、映画を見ているときにスクリーンにちょっかいを出したくなったことがあって、自分の作品なら思う存分できると思ってやり始めたわけです。
ライブ映写は69年の『あすとろまら』『切断』あたりからで、草月のフェスティバル(69年10月)にその2本と『インポデヤンス』を出品する予定だったのが、[反対派による妨害で]中止になって発表できず天井桟敷の肝入りで残念会でやったのですが、『切断』は最初35ミリ版でしたから上映できず、『あすとろまら』はもともと5面マルチ[5台の映写機で5つのスクリーンに映写]でやろうとしたのですが5台揃わずに3面マルチでやってみると画がシンクロするはずなのに揃わないでどんどんずれて別の作品になってしまった。映写機の回転がバラバラだったんです。次の『わっか』は映写会場で作品を作っていくという完全な全編ライブ作品ですね。
ただ『切断』などはやりたいことが楽しい作品として成立しにくいので自分でも息が切れる、苦しい作品だった。いまでは苦しいのも作品を作るうちだという、もの作りの真髄がわかってきましたが、映画館でフィルムが切れて待たされるといった感覚を味わうには切れてる時間、映写室の中でつなぐ作業の間お客さんに待っていてもらうのはやむを得ないということがその当時の自分にとっては苦しい作品作りだった。それで息抜きに“ゲロイズム映画”[68−71年頃のキッチュで露悪的な短編作品の総称]をみんなでわいわいやりながら作ってバランスを取るといったところがありました。ゲロイズム映画が出てくる一つの大きな要素は、私が小さい頃ものすごく潔癖症で、電車の手すりもつかめないぐらいだった。人の箸が入ったものは食べられないとか病的なぐらいで、逆にその裏返しですね、怖いもの見たさというか。
——むしろ悪夢的な映画でしたね。それと並行していたライブ映画では、フィルムを映写機のランプで溶かしながら上映する『NO PERFORATIONS』(71年)が初めて外国映画祭に持っていかれた作品ですが、これはどういう思い付きから始まったのでしょう?
奥山 なぜフィルムに送り穴(パーフォレーション)があるのか、ということですね。9.5 ミリなんかフィルムの真中なのに16ミリはなぜ横にあるのか、35ミリは1つの画面になぜ4つなければいけないのかといったことを含めて、送り穴にすごく興味を持った時期がありまして、じゃあ送り穴がなかったらどうなるのかと35ミリフィルムの両脇を切ってパーフォレーションのない16ミリフィルムを作ったんです。そうすると滑ってフィルムが送れずに溶けてしまう。この作品は溶かすのが目的ではなくて、送り穴がなかったらということの結果論なんです。
——当時は外国の映画祭情報も少ない時代ですが、シカゴ国際映画祭に出品しシルバー・ヒューゴー賞[実験映画部門の銀賞]を受賞されたわけですね。
奥山 実験映画としても変わったあまり見たことのない作品が出来たと自分でも思ったので、面白いと思ってくれる人がよその国にもいるんじゃないかと、じゃあ出してみようかという気になった覚えがあります。コンペにセレクトされて、実際の映写は向こうの映写技師が指示通りにやったんですが、溶かし方がちょっと事務的で(笑)、こちらはみそ汁の生活だからねっちょり溶かすんですが、向こうはステーキを食べてるせいか(笑)送り方がダイナミックでちょっと違いました。
——この時期(70−71年)はとても多作なんですが、大学はもう卒業されていた?
奥山 69年に卒業してますからね。学研で仕事をしたりコマーシャルの仕事も少ししていました。
——当時はアングラ・ブームなどとも言われた時代ですが、自分もその中にいると感じていましたか?
奥山 横のつながりというのがまったくなかったので、自分の意識としては作りたいから作っているということでした。そういう人が他にもいろいろいるから一つのムーブメントなのかなと時代の空気みたいに考えてはいました。自分の意識としては、イメージしたり思ったことを日記映画ふうに作っているという感じでした。
——『スゥイング・ムービー』のシリーズ[75−79年]は映写パフォーマンスというより機械装置を作る方が重点だったのですか?
奥山 いや、ああいうスクリーンをはみ出して揺れて回転する映像をただ見たいということです。それをやるには誰に頼んでいいかわからないし、本来はそういうものを作るのは得意じゃないんですが、機械を作らないとそれを見れないので。『スゥイング・マルチ』(79年)になると映写機の台数も増えて、パフォーマンスやシチュエーションを見せる方へ脱線して行った。
『フレームレス35』『切断』から『紙映画』(72年)まで“映画解体計画”(68−72年)は7本あるんですが、これはやったらそれっきりだし映写時のコンディションにも左右される。作った当時はいいけど5年後10年後あれをやってくれといわれてもどうなのかと。やはり作品としてきちっとまとまったものをしっかり作っていこうと考えて“映画蘇生計画”として『LE CINEMA』を作るわけですが、本来パフォーマンス的要素の作品も決して嫌いじゃないし、逆に今度はこうしようと思った反動が『スゥイング・ムービー』を生んだ気がします。
——特許を出したそうですね。
奥山 特許庁に書類を出して出願したという形のままで、次のステップはしてないから単なる特許出願中ですが、スクリーンから映像がはみ出すというために映写機自体を揺らすのではなく、映像が動く軌道をミラーの回転の反射で作り出すという装置です。機械はもう壊れてますから当時の動きは再現できないんで、今回写真美術館でやるのは機械を新たに作り直さないといけないんです。今回の展示のアイデアは、林のようにフィルムを伸ばして会場内に点在させ、そこの間から『スゥイング・ムービー』のシステムで映像を飛ばすというものです。フィルムにさえぎられたりしながら、映像がスクリーンや壁のあちこちに映るという、“映画の森”みたいな感じで映像を飛ばしたい。もし動けば70ミリの映写機もそれにからめたいと思っています。
——最後に、これまでの作品歴をふりかえると幾つかの系譜に分けられますか?
奥山 いや、流れは一つだと思います。ですが、若い時代はエネルギーがありますからいろいろな支流が出てくるわけです。年を取るに従ってその支流が枯れていって、本来のいちばん自分がやりたい部分だけが残っていくという形で続いていますから。レンズを半分黒い紙で覆ってフィルムを左右片側ずつ撮影した処女作の『MU』(64年)のときから映画のメカニズムというか、フィルムの材質感、不思議なものとしてのフィルムに対する慈しみといったものの芽生えが最初からあった気がします。
そういうダブル8の時代から撮影中カメラのふたを開けて、光の入り具合がどうかチャレンジしたりしてましたから。稚拙なんですが、作り始めた当時からフィルムを料理しながら何か表現したいという沸々としたものは一貫してますね。自分が作品を作るのは、自分の中でまずこういうものを見てみたいというのがいちばん基本ですから、とにかく自分でもこうなったらどうなんだろうと期待ワクワクで作ってるわけです。それで肩すかしを食ってボツになる作品もあるし、うまくはまってどんどん発展していくと、こんなこともできるあんなこともできると、たとえば『浸透画』のように1カットずつ現像して水洗いして、どんなふうに映っているんだろうという思いがカットごとにあるわけで、その都度映写してワクワクドキドキしながら作り続けるというのもありますから。そういう部分を観客にも伝えたいわけです。
——『MU』の片側は自分を撮っていますが、その後もセルフ・ポートレイトと言いますか、自分を被写体にした作品が多いですね
奥山 今年の『サンドイッチ』もそうですが、やりたいことは生フィルムのサンドイッチで、乳剤合せで2枚重ねたフィルム[レンズ側にベース面があり光はベースを通って入る]の間に第2の被写体として紙をはさんでどう写るかということですから、その状況を明確に示すには(森やサンドイッチを撮るという試行錯誤を経て)カメラに装填してカメラで撮る行為に結びつけるのがフィルムを題材とするのに一番自然な流れだろうということになる。そうすると誰かを連れてきてカメラを回させてもだめで、フィルムをよく知っていて馴染みのある存在というと必然的に自分を撮るしかなくなる。私だということはわからなくてもいい、カメラ[ベルハウエルの手回し式35ミリカメラ]を一生懸命回している人がそこに写っているということを示したいわけです。それで正面だけだと手回しの動きや顔の表情とか全部見えないので、『フレームレス16』でもやってますが鏡を使って正面と側面と両方見せて立体感といいますか、全体を見せた。カット割でそういうことを見せる映画ではないので、状況の描写がどうしてもシンボリックになってしまいます。だからということではないのですが、私の作品で多くの人に手伝ってもらったものは全滅しているんです。せいぜい3人ぐらいまで。だいたい1人か2人かですね。
——そうすると、"avec ma femme Kikue" (妻・喜久恵と共に、フランス語)とよくクレジットに入っていますが、実際的な協力者ということですか?
奥山 そうです。こまごましたことを手伝ってもらってますし、第三者の視点でああでもないこうでもないと言ってくれますし。こちらがのめりこみそうなときにそれはおかしいんじゃないとグサッと言ってくれるとか(笑)。現場で自家現像する最近の作品なども一緒に荷物を持って移動してもらったり、精神的支えという面も含めて協力者なんです。
(1998年5月15日、東京都写真美術館にて。インタビュー採録・構成=西嶋憲生)
(追記)メールによる近況インタビュー (2022年8月)
——以前から必要に応じてビデオを作品に使われることはありましたが、2000年代に入ってデジタル化が進むなかで「フィルムの作家」としてどう考えていましたか?
2018年のダブルスーパー8カメラDS-8を使って16ミリフィルムを撮影しデジタル上映された『Frameless DS 8』などは複雑なパラドックスのような印象がありました(イメージフォーラム・フェスティバル2018 奥山順市特集 "「フィルムそのもの」が語りかける" にて上映)。
奥山 1992 年のビデオ作品『フィルム三昧』は、上映の機会は多くありませんでしたが、ライブ作品風のテイストを色濃く残した意欲作でした。本人的には気に入った作品の一本に入ります。この時代、ビデオで制作した作品の多くは、フィルムに変換し、フィルム作品として16mm映写機で上映することにこだわっていましたが、『フィルム三昧』はビデオの生々しさを残したかったのでビデオ作品としたのです。
2000年代に入ると、「オリジナルフィルムによる上映作品」が増えます(フィルムで制作してもプリントは作らず原版の一点もの)。
2008年度16mm作品 『まぜるな』 現像液と定着液の内容。
2009 年度16mm作品『エマルジョン・ペインター』 フィルムベースに乳剤を塗布して感光させる内容。
2010年度16mm作品『残り画』定着液で乳剤をを残す内容。
2016年度16mm作品『生ヒルム裏』Live (活弁ライヴ) フィルムベースの外側にハレーション防止層が塗布されたフィルムは、半世紀前には生産中止になっていた。オークションで古い生フィルムを入手し、ハレーション防止層をテーマにした作品を制作。(フィルムのLive作品だが、デジタル版での上映もできる)
ダブルスーパー8(DS-8、16mm幅のフィルムを片側ずつ撮影)は、16mmのままでは、送れる映写機が存在しません。半裁にしてスーパー8にしなければ映写機にかけることはできないのです。しかし、無理矢理16mmフィルムをDS-8カメラに装填し、フィルムを引っ張りながら、強引に撮影を行うと、DS-8で撮影した画像を16mm映写機で映写可能になります。
落ち穂拾い的なアプローチで、デジタルの力を借りて、かなり無理矢理の力技で作品化した記憶があります。
——かつては誰もがカメラにフィルムを装填しネガを所持していましたが、デジタルカメラとスマホの時代にデジタルネイティブの世代にはフィルムという物質を説明する必要があります。現在、奥山作品の最も良き理解者はフィルム・アーキヴィスト(修復・保存の専門家たち)かもしれません。一方で、2010年代後半に大学できちんとした映写機、映写技師により16ミリ実験映画の上映会を行ったところ、デジタルプロジェクターとは違った感動を与えたようでした。こうした時代に、自作の上映で解説やコメントなど意識されていることはありますか?
奥山 私は、リアルタイムで、フィルムが普通に存在していた時代を経験できて、幸せでした。時代の変化と共に、櫛の歯が欠けるようにフィルムの種類が減少し、いつの間にか、現像所もどんどん無くなって行きました。気が付けば、ラボ用の特殊フィルムも、生産終了の嵐が吹き荒れ、作品に合わせて自由に選択できなくなっていました。一つの時代の終了を強く意識した瞬間でした。
フィルムで制作するワクワク感は、ビデオやデジタルには、ありません。作る喜びが希薄なのです。
9ミリ半の作品(『僕と九ミリ半』2019)は、1980年代からの保留事項だったのですが、あまり気乗りしないまま、歳を取ってしまいました。これが最後と覚悟を決め、制作を決意したのです。
ガタガタの9ミリ半の機材を騙し騙し使用。フィルムで撮影、現像、自家現像・加工、上映、そしてデジタルで記録し、まとめたのです。
——現在、実験映画に関してもさまざまなプロジェクトで作品の修復・保存のためデジタル化が進められ、奥山さんの作品もデジタル化されたものがあります。こうしたデジタル化やデジタル版で自作をご覧になって思われることはあるでしょうか?
奥山 フィルム作品がデジタル版の作品として上映されることに関しては、特に思い入れはありません。自分の手を離れて、自立する作品でもあるのですから。
(数年前、自分の1960年代の作品の原版がビネガーシンドロームで変形し、駄目になっていました。事実を受け入れることも大切です。)
——イメージフォーラム・フェスティバル2020での『僕と九ミリ半』(19)上映の折に、作品として作るのはこれが最後とおっしゃっていて、その後は上映活動だけを行なわれていると思っているのですが、制作は一切されていないのでしょうか? 近況なども簡単に伺えれば。
奥山 現在の所、2020年度制作の『17.5mmフィルムの構造』が 最後の作品です。http://www.ne.jp/asahi/okuyama/junichi/page118z.html
以下のサイトで、最後の作品についてエッセイを書きました。
<実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第10回 奥山順市>
https://bigakko.jp/blog/engeki2020_10okuyama
1898年に発明されたアマチュア用の17.5mmフィルムは、可燃性フィルムのため多くが現存せず、調べても手書きで記したフィルム形状の簡単なメモを見るぐらいしかありません。しかし、海千山千の時代だったらしく珍妙なフィルムの構造や送り穴の種類が多いのも魅力です。私は、手書きメモのトレースから始めて、送り穴主体の動画にまとめあげました。
現在の日常は、私家版として19世紀末の活動写真(スクリーンに映写しない映画)を整理しています。
ディクソンとエジソンの Kinetoscope
ディクソンのMutoscope
リュミエールのKinora
残された映像等をまとめているのですが、あくまでも自分の資料用で私家版です。
また、戦前に日本のトイムービーとして販売された、家庭トーキーについても調べています。
生きている間に、少しでも形になればと考えています。
©奥山順市、西嶋憲生